僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(2023/6/18)父、意識戻らず転院の予定。

2023年06月18日 20時07分29秒 | 両親のこと、入院のこと


父の入院、転院等毎日外出している。
自分の身体や頭が思うように動かず、相手を苛つかせているのがわかる。
夫に付いてきてもらうが、夫も私に苛ついている。
父は意識が戻らず、そのまま別な病院に転院する。
そして今色々と揉めている所である。
書くに、どこから書いていいのかがわからない。
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(2023/6/6)父の再入院。

2023年06月06日 16時16分35秒 | 両親のこと、入院のこと

これは約一カ月前に撮影。
新緑のプラタナス。私以外にも、太い幹にタッチしていく方が多数。
つい、タッチしたり抱擁したり、そんな思いにさせる大きな存在。

また一カ月くらい空けてしまうブログ。
父が3月末に入院したことを書いた。
そして4月22日に退院した。
肋骨を骨折し、肺に溜まった血を除去する手術をし、経過良好、元気に退院した。
その退院の記述がない。

退院してから、父は民生委員の方と今後の取り決めをする。
頭もクリアー、身体も足元が覚束ないがなんでも一人でやる父。
骨折の原因となったお風呂には、週2回、ヘルパーさんが訪問する時に入ることになった。
寝室は二階のベッドであるが、階段が危険なので、一階の和室に介護用ベッドをリースして置くことになった。
退院日に搬入した。
翌日、実家に行く父を乗せ買い物に。買い物にもこだわりがある父には口出しはしない。
牛タン弁当を食べて、さあ私たち夫婦の用事を足そうと帰宅の準備をすると、父が服を脱ぎだした。
これから風呂に入る、といきなり言う。
はあっ?いつ風呂洗いしたの?いつ沸かしたの?
「オレは、朝から風呂洗いをして水を溜め、沸かして今から入るから!」

もう初めから民生委員との約束を破っている。
私たちはここで帰るわけにいかない。
「何分、入る予定?」
「40分。」
早く言えよ、帰る間際になって素っ裸になるなんて。
一事が万事、こんな調子の父である。
人のことは考えない、人に一言、声を掛けない、自分の頭の中の時計で動く。
結局、入っている間、夫と待ち、風呂から上がれば、「タオル!」と横柄に叫ぶ。
不快な気持ちで実家を去る。

それが4月23日のことだった。
亡き母の命日(6月12日)は今年7回忌なので父はイベント的にやりたいが、身体が軽く動かないので
田舎のお寺に供養を頼んでいた。
11日が日曜なので、近所の方々のお焼香を目論んでいた。
平穏にそして慌ただしくその日を迎えるのだろうと思っていた。

5月18日、確かこのプラタナスを撮影した日。
私のスマホに早口の男の人の声。
救急隊の方だった。
父、転倒して頭を打つ、前回入院した病院に運ぶ、付き添いは隣人の方。
という内容だった。
またあの病院に駆けつける。

また続きは後で。
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(2023/4/6)いつもの神社へ。父のこと。

2023年04月06日 11時02分41秒 | 両親のこと、入院のこと

昨日は曇天であったが、私のもう一つのパワースポットである、近くの神社に1月以来のお参り兼リハビリ散歩を
してきた。
桜の樹の本数は乏しいが、この神社にも桜の樹はあった。
もう散ってしまったのもある。

濃いピンクの枝垂桜である。
暗くて、ピンクが映えないですね。
夫の幼稚園のあった神社、そこを離れず何十年も暮らしている夫に、いつも自分の人生と比して、
「安定の家庭」「安定の人生」を感じるのです。
私が物心着き始めた富良野の保育所時代。ほぼ記憶になし。強烈な印象の出来事は今でも覚えているけれど、
それはまた別の話。その保育所時代から人生何転もするのだが、居住からして何十転もしている。
それと、夫の人生の居住を比較すると、笑うほどに私は忙しかった。知らず知らずのうちに、
ストレスとなって溜まっていたことだろう。
転校なんてストレスの最たるもの。それを何回も。社交的な、外交的な性格ならまだカバーできるが、
内向的、劣等意識を持つ自分にとって住む場所、生活する場所が変わるたびに皺が増えていったようだ。
いつもこの神社は、そのことに気付かせる。
良い場所である。
小さな神社である。

家事をしつつこれを書いている。
さっき、父から電話があったのだが、聞き取れない私の耳では理解できず、「私は何もしていない」と
頓珍漢なことを言うだけであった。電話もしていない、メールもしていない、病院には初日と手術日に行っただけ。
見舞金もまだ包んでいない。用意しているが、医師の呼び出しの時でいいだろうと思っている。
実家の冷蔵庫の整頓は、又甥のお嫁さんにお願いしてあるので、私は何もしていない。
何枚も書く書類の件は身内なのでやっている。
きっと誰からも連絡がなく、多忙な医師、看護師とは最低限の会話、威圧的な話し方の父は敬遠されるであろう。
勝手にしゃべって、勝手に切っていた。
メールは面倒のようだ。要望はその方が私には確実に伝わるのだが、文字打ちが面倒らしい。

一回更新しよう。





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(2019/12/17)父とのこと。

2019年12月17日 10時45分15秒 | 両親のこと、入院のこと
先週の土曜日(14日)に実家に行く。
以前から、父が窓ガラス拭き、冷蔵庫の整理、オーブン等の掃除、押入れの整理など
やってくれないか、と切望していたので、日頃親孝行のできていない自分はその日を
有休にして行くことにしていた。

88歳の一人暮らしの老人。
1人娘はいたとしても、滅多に帰らない。
この字面を見ただけでも「親不孝」のレッテルを貼られるであろう。

最近は、以前のような、自分に自信あり、の姿を見せていない父である。
だが、会えば、またお金の話になるので
その話を避けるように、私達夫婦は仕事が終わって去っていく。

数年前(地震後)、父が大腸癌で入院した時に
看護していた私に、突きつけたことは
「遺産相続の放棄をしてくれ」だった。
父の言われるままに、念書を書き、実印まで押した。
それをもとに、父は遺言書を書き、親類の税理士に相談し、
遺留分だけは渡そう、ということになったらしい。
あの時、父は、私や夫の世話にはならない、とはっきり言った。
「実家」も親類のものになる、ということも先日言っていた。

父の血を引いていない自分、ということを感じた日々だった。
亡き母は、私の生母の妹ということで、幾分か血は引いているが(叔母、姪の関係)
養子縁組をした当初から、生母の負い目があったため(経済的に、病気の私を育てるのが困難だった。子供のできない妹夫婦との
養子縁組の話になった)、小さい時の現在の母親の言葉がいつも突き刺さっていた。
「あんたは、富良野(当時住んでいた所)にいたら、とっくのとうに死んでいたんだ!」

小さいながらも、その言葉はよく理解できた。
が、小さいからどうすることもできなかった。
黙って従って、学校に通っていた私だった。
かと言って、生母を恨むという気持ちにもならなかった。
函館にいた時に
「富良野の母さんは今頃、お金に困っているかもしれない。」と
封筒に10円玉とか5円玉を入れて送ったことがある。
その時の自分を考えると、「優しい子だね。大きくなったら、きっといいことあるよ。頑張って生きるんだよ。」と
声を掛けてあげたい。
実際にそう激励されたら、私はもっともっと人の気持ちを理解できる人間になっていたかもしれない。
だが、現実にそううまく行くものではない。

父は
「もう、今の仕事を引退して、少しはこっちの面倒を見ないか。日当は出すから。」と言った。
あの「お前たち夫婦に絶対世話にならない。」という言葉はどうなった?
私の勤務先の電話を聞こうとするが、「連絡は携帯に。」と私は言った。
まあ、調べればすぐに勤務先の電話はわかるのだが。
先日の「父が階段から落ちて~」の緊急の電話が入った時は私は家にいた。
これから何かあるかもしれないから、というが
父よ、
私の世話にならない、と言ったではないか。
あなたの周りに
たくさん、いざとなったら動いてくれる人がいるじゃないか。
それなりのお金を渡しているでしょうに。
免許返納して、車も知人の息子にやったでしょうに。
すぐ駆けつけてくれるはず。

以前父に会った時に
「下着を買うのにも不便だ。なかなか、サイズがない。」ということで
街の中には大きなスーパーがあるので、「お安い御用」と
私は父の望む下着上下をたくさん買って
先日持っていった。
「日頃、親孝行できていないから、お代は結構。」とプレゼントした。

来年正月にはまた実家に行く。
その、車をやった家族らも参加する。
今から、何を作ろうかと考えている。
夏に、ホタテ炊き込みご飯を持っていったときに
父が、美味しいと食べていたのでそれもまた作って持っていこう。







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(6/7)母の一周忌。そして父。

2018年06月07日 22時44分26秒 | 両親のこと、入院のこと
午後寝をすると、ほぼ決まって変な夢を見て目が覚める習慣。
夕飯の時間までギリギリ寝ていることもある。
夕方ハッと目が覚めた時、あ、両親の夢を見ていた、と思った。
夢の中でも、私が午後寝をしている。そこに父が帰ってくる。
家の中に傘を持って入ってきた父。その後に「トモロッシちゃ~ん!」と母の声がする。
2人とも笑顔だ。古い家(夫の以前の家のようだ)に家族が揃う。
その後に目が覚めた。
永遠に、家族として笑顔で過ごすことはない。
まもなく母の一周忌だ。

先日の日曜日、6月3日に母の一周忌を済ませた。
父の実家のある田舎に夫と共に行ってきた。
実は
父と再会するのは昨年の9月の百箇日法要以来である。
9カ月ぶりの父の姿である。
仙台の私の実家は車で30分もかからない所だ。
にも拘わらず、9カ月も疎遠にしていた。
むろん、百箇日法要の時はそんな気持ではなかった。
寧ろ、これから1人で暮らす父の所に頻繁に通わなければ、と思っていた。
そんな矢先、
10日位してから、父の手紙が届いた。
一度しか読んでいない。読み返すのも嫌だった。
書いている内容は、私の父への気持ちを翻意させるものだった。
母の葬儀の時のあれこれの私、夫への非難だった。
全く寝耳に水、の心境だった。
「何?これ」
「なぜ、今さら、こんなことを書いてくるのか。」
箇条書きにした、ほとんどお金にまつわる内容。
興ざめだった。
一人娘として、毎日仕事を早く切り上げて(母の昼食に間に合うように)、病院に通い
介護してきた自分として、非常に情けない内容の手紙だった。
百箇日法要に、私達S家として夫、義母と参列し、焼香も父に次いで私、夫というように
やったけれど、
父にとって不本意だったのかもしれない。
法要に集まったのは父のM家の親類たち。
その中にポツっとS家の3人。
それを誇らしく、手紙の最後に「これが(沢山集まってくれる)M家です。」
と書いてあった。
白けてしまった私だ。
そして翻意した私だ。
父とはもう関わらない。
反論の手紙を書こうと思ったが、書く気力さえ無くなった。
父にしてみれば、当然リアクションがほしいところだったろう。
が、
それをせずに、年末を迎え、
年を越して(年内に解決できなかったとかなんとか、ブログにつぶやいたと思う)
3月のお彼岸も行かず、
音信不通のまま何カ月も過ごしてきた。
そして先月辺りから、
一周忌はどうなるのか、と悩ましい問題がもたげてきた。

そんな矢先、先月末に父から小包が届いた。
開けると、実家の近所の奥さんが亡くなって、おそらく私の名前で父が香典を出してくれたのであろう、香典返しが入っていた。
いつ亡くなったのか、金額を幾ら立て替えたとかのメモさえ入っていなかった。
この奥さんは、父と同年で、両親が家を建てたころ、一番親しくしていた家だった。
その子供たちが私達で仲も良かった。
大震災の時に、実家に行ったときに、家には誰もいず、母がその家にお世話になっていた。父は小田原に友人たちと共に旅行していたので
あの震災の恐ろしさを直接は知らない。あのころのことはブログに綴った。
その奥さんも脳梗塞で車いす。
母の葬儀の時に、施設からわざわざ焼香に息子とともに来てくれたのだ。
「おばちゃん、よく来てくれたね。」
と手を握って、「おばちゃんも頑張ってね。」と別れた。
それが最期だったんだ。
本来なら、父と交流があれば、葬儀の日程など知らせてくれるところが、こうして後になってしまった。

その父の小包を機に、
私は立て替え分のお金などを同封し、父に手紙を書いた。
一周忌はメールでいつなのか問い合わせておいた。
すると一周忌である6月12日前後の日曜日の10日を想定していたがそれより前の3日とわかった。
この小包が無かったら、危うくもっと遅くのメールになり(小包届いた、ところで一周忌はいつか、と問い合わせたのが早かったので)
父からは、3日にする、というメールさえ来なかったかもしれない。
それほど、私達抜きで一周忌をする予定だったのかもしれない。

父のメールには「私は、〇〇たちと車で行きます。」とだけあった。
〇〇とは、私の実家の近くに住むM家直系の又甥家族である。(これも何度かブログで登場してきた)
百箇日法要の時は、夫の車で父と私と姑とで出かけた、それが当然だと思っていた。

私の手紙の内容は。
私達に何か不備があったにしても、こうしてほしい、ああしてほしいとなぜその時に言ってくれなかったのか。
父が表立ったことで動き、私は母の傍に付き、焼香の方々の相手をし、夫は北海道の母の親類たちに気を配り(M家は父の本家、
母の本家は北海道。そこから4名参列。北海道の真ん中から参列してくださり、空港の送り迎えやホテルへの送り迎えなどは夫がすべてやってくれ、
北海道組から感謝される)、そういう役割をそれぞれしていたのではないか、父はM家ばかり見て、北海道の本来の母の親類にどれほど気を配ったか、
そんなにM家を誇らしく思うなら、なぜ通夜の線香の番をM家では誰も泊まらず、私と姑だけで亡き母の傍で寝ずの番をしたのか、あなたの「S家には世話にならない」という言葉をどう自分自身思うのか、など書いた。
そう、配偶者である父は、M家の親類と共に、自分の家に帰り、亡き母の傍にいたのは、S家の2人だけである。
それでも私は、父を非難することはしなかった。色々と葬儀に向けて忙しいのだろう、だから表立ったことは父に任せて、裏のことは私や夫がやろうと
なったと思っていた、あの9月の手紙で非難される言われはない、と書いた。

その手紙を送ったあとの
3日の一周忌である。
父の親類数件に土産を買い、お供物等準備し、夫と共に参列した。その後の食事会は不参加と言っておいた。
お寺には私たちは早くに着き、大体お寺でやるのかも知らされず、本家に電話をしてその確認をした。
お寺で正解だった。
M家の墓に入った母。
それも父の希望だ。母はそれについて生前何か言いたそうだったが、父に従うしかなかった。

そして、久しぶりに会う父。
又甥の家族と共に現れ、その家族に手を引いてもらい靴を脱ぐ父。
それでも
やはり、焼香は父、私、夫の順番だった。

別れ際、またもお金のトラブル。法要代として渡したお金をもらっていない、などとほざく。
あちこちと探し(お寺にまで問い合わせ)、父のバッグからそれが見つかる。
皆に袋を見せて、「渡しましたからね。」と私。
皆も呆れている、父のそれ。
道すがら、私の従兄が夫にささやく。「葬儀の時に、会計を頼まれて合わなかったのを俺のせいにされた。」と。
父のパワハラ的言動は彼をこれまでにも悩ませている。
夫は「すみませんね」と謝る。
おかしいね、S家の夫が謝るのも。
M家、M家の父に言いたいくらいだ。
そんな父を受け入れてくれているM家一家。
父の財産は彼らに行くので、そのトラブルも受け入れてほしい。
父が亡くなったときの葬儀のことも父は自分で計画している。
喪主は当然、一人娘の私でしょ、常識なら。
しかし、父は甥のその人に決めている。
私が喪主であったら、私は父の若いころからのあれこれや亡き母の苦労など、公に言ってしまいそうです。

そしてお別れ。
車に近づいて、「じゃあね、お父さん。また行くからね。」と握手をして別れた。
そんな、ギスギスしたお別れじゃなかった。
いつ、行くか。
それはわからない。
M家では「お茶でも」と誘ってくれたが、「姑を一人残してきたので。」と辞退する。



こうして一周忌が終わった。
そして今日、冒頭の夢を見た。
永遠に来ない、笑顔の父、母、私。

久しぶりに吐き出した。

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(6/18)母が逝った

2017年06月18日 19時55分51秒 | 両親のこと、入院のこと
「父が泣いた」の記事から一週間後の12日、母が逝った。
2つ目の病院に転院してから2週間も経っていない。
急激な変化だった。
食べなくなってから(元々、前の病院でも食べる量は少なかったが、食べる食べないは別として、毎日3食出ていた。それがこちらの病院に来てからは
食べないとなったら、食事が出なくなった)、急に弱り始めた。

こんなことを今更言ってもしょうがないが、あの病院に対する不信感は結局払拭できなかった私だ。

「死」が軽い。
そうだろう、毎日のように誰かが死に、淡々とその日の当番医師が「死亡宣告」して足早に去っていく。
私の目の前で、呼吸が止まったのは8時少し前。
父に電話をしたのが8時、とケータイに記録されているから、その時刻だ。
が、医師の死亡宣告は8時52分。
これが母の死亡の時刻になった。

親の死に目に会えない、とよく言われるが
神様、
私の目の前で、母、あっちに逝ってしまったよ。
私一人で母の最期を看取ったよ。
もう人事不省に陥っているから、苦しむとか痛いとか、見ていてこちらがつらいとかの感情はなかった。
穏やかな、というのもちょっとふさわしくない。
ドラマチックでもない。
静かに呼吸が止まった、もっともっと揺り動かせば、また再開するような静けさだった。
そしてその直後から
非日常の日々が始まった。
それは記録として、後に気持ちが落ち着いたときに書いておこう。

葬儀が終わって、一日休んで、仕事を始めた。
そして、死んだ時も葬儀の時も涙が出なかったのに
今日はいろんなことが思い出されて、いろんな後悔が押し寄せて
スーパーの中をウロウロしながら泣けてきた。

お母さん、ヨーグルトを毎日食べ続ける私です。
毎日、あなたに、ヨーグルトを買って、この味、あの味、と何種類ものヨーグルトを試して
自分も毎日食べているうちに、昨年から気になっていた腸の張りがすっかり無くなって
ヨーグルト効果だ、と思って食べています。
あなたに、あんなに勧めていた自分だから、これからも毎日食べます。


私は
自分の後悔に苛まれるのが怖いのだ。
後悔。
もっともっと、自分が今年の正月以降に
実家に顔を出すべきだった。
父の手紙が届いたときに飛んではいったが
もっともっと踏み込むべきだった。
台所の椅子に座っていた母の首を振った表情をもっともっと
自分のものにすべきだった。
強引にでも、父から引き離し、すぐに病院に連れていくべきだった。

そんなことを言ったって
もうどうしようもないだろう、とつぶやく。
葬儀期間中は
弔問客の接待に追われて、そんな後悔は押し寄せなかったが
どうして
日常に戻ると、次から次へと、押し寄せるのだろう。
実家に正月以来、久々に帰ったとき
母の表情が変わっていたので
「お母さん、大丈夫か。」と尋ねたら
首を横に振った、あの表情。
あれを忘れないでおこう。
私への戒めとして、あの悲しい表情で(もう、だめだ)という首の振り方をした母を忘れないでおこう。
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(6/5)父が泣いた。

2017年06月05日 21時34分41秒 | 両親のこと、入院のこと
昨日は夫と義母と病院で待ち合わせをして、帰りは
私は地下鉄で帰ろうとしたが(会社に自転車を置いているので)
車に乗って、スーパーに寄ってそのまま自分も帰宅した。
よって、今日の朝は、歩きでの出勤。
ちょっと寒かったかな。

仕事を終えて
また地下鉄に乗り、母の元へ。
父と父の友人がいた。
母は
口を開けて呼吸し、髪は上部で結ばれ
目は混濁した状態で、まるで今にもあっちに逝きそうな顔で
深い眠りの中にいた。
その傍で
父と父の友人は諦めた表情で話していた。
昨日の母の様子を父にメールをしておいたのだが
今日はその、良い兆候は見られなかった。
そして、父の友人は帰っていった。

その後、私のあれこれが始まった。
「お母さーん!」「〇〇〇〇さーん!」とフルネームで何度も呼んで、
色々と話しかけた。
腕、手、額、あちこちをマッサージして
話しかけた。
ベッドも少し上部を持ち上げて目が覚ましやすいようにした。
父には、前日の私の友人のIさんの話をした。
「いっぱい話しかけて。奇跡は起こるから。」と。
現実主義の父には、半信半疑の言葉であったろう。

そして。
母は目覚めた。
深い眠りから、こちら側に来た。
混濁した目に輝きが出てきた。
「お父さん!ホラ、お母さんが目を覚ましたよ!」
「良かった!良かった!お父さんだよ!」と
父は手を握って感激の余り、泣き出した。
「お父さん、もう諦めていたでしょ!」と私。
「うん、もうだめだと思っていた。」
「諦めちゃだめなんだよ。」
そして、父は一生懸命に母に話しかけていた。
母の頭は段々開いてきて(この表現、わかるかなあ)、父や私の言う事を理解できるほどに目が輝いていた。
これは、奇跡じゃない、実は、眠りが深くて、表情があまりに死相っぽく見えるから
目が覚めたことが奇跡のように思えるのかもしれない、コツがあるのだと思った。
前の病院で、母の向かいのベッドのおばあちゃんもそんな感じだった。
どんなに呼びかけてもビクともしない。
私も見ていて、このまま死んでいくのか?と思ったくらいだ。
そこへ、看護師さんが、「〇〇さーん!」と野太い声で起こしていた。
このぐらい、大きい声にしなければ、頭の芯に届かないのだ。
これが参考になっていた。
そしてIさんの「いっぱい話しかけて」も参考になった。
看護師さんがあのくらい大きな声で呼びかけるのが通常なら、
私達だって、そのくらい声を出して呼び覚まそうと思った。
父や私の話に
母の口角が上がった。笑っているんだ。
それを見てまた父が
「母さんが笑った、笑った。」と泣き出した。
よっぽど、諦めていたんだ、父。
相変わらず、父の性急さが出ている。
だって、つい数日前まで、普通に会話をして、食べていたのに、
幾ら「いつ急変してもおかしくない」と医師に言われていても
人間の生命力は未知だ。
検査の数値が客観的に物語っていても、母が苦しい、苦しい、痛い、痛いと苦悶の表情にならない限り
私は可能性を信じている。

そして漸く、看護師長との話になった。
父に、「お母さんに話しかけておいて。私が聞いてくるから。言いたいこともあるから。」と言って談話室で話した。
とにかく、然るべき人から、これまでの説明をしてもらいたかった。
これはメモとして残していたものだ。
疑問だった。
食事はもうできないのか。死ぬまでできないのか。
その説明もこれまでなかった。
誤嚥の問題もあろう。
点滴のみに切り替えた日付、その理由、今後の検査によって、食事を再開することもある、と言われた。
私は自分の考えを言った。
「担当の看護師が誰なのかわからない。自分が病室にいても、母の様子を見に来る看護師に会ったことがない。
この病院は最長3カ月の入院で、それ以降は別な病院にまた転院ということも最初に聞いたが、
転院ということはそれだけ長く生きていられるということだから、3カ月本望。自分としては諦めていない。
3カ月退院を目指したい。こちらも頑張るので、そちらも最善を尽くしてほしい。諦めてはいない。」と
何度も念押しした。
しゃちさんの言うように、あるいは、現場に勤めている友人のIさんの言うように
患者が置き去りにされているような、見舞客も少なくなっている空気の療養病院。
退院とは、良くなってのそれじゃない。
しかし、逆に考えれば、看取りのための入院が、生き延びて転院するというのは喜ばしいことじゃないか。
そう、考えるようになった。

病室に戻って、父がこれから銀行に行く、というので先に帰った。
私は母と話した。
日常の話だ。私の一方的な話であるけれど、母は何度も相槌を打ち、笑い、
か細く「会社終わってきたの?」といつも尋ねることを聞いてくれた。
母が点滴を指さすので
「これはね、今ゴハンが食べられないから、これで栄養を摂っているの。これが血液の流れに乗って、全身に栄養が届くようになっているの。
またゴハンが食べられるように、お母さんもね、頑張ろうね。」と言うと頷いていた。
そして
はっきりと「ありがとう」と言った。
「明日もそれを言ってね~」と答えた。
これはきっと、いつものありがとう、だ。前の病院でもよく言っていたので、それだ。
決して最期の言葉じゃないよ。
明日も来るのを約束するということ、母の「生きる希望」に繋がればいい。
死に至る病、それは絶望。キルケゴール。(読んではいないけれど)

地下鉄までの道のり。
川沿いのベンチに座り、母の残した牛乳を飲む。一服。
トモロッシよ、頑張れ。
おまえは、今、母を救っている、父を救っている、同僚の新人を救っている、大した人間じゃないのに、
おまえは、今、大した人間だ。
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(6/4)母、今日は小さく言葉を話す。

2017年06月04日 20時26分22秒 | 両親のこと、入院のこと
あのショックの気持ちから翌日(昨日)、家から病院へ直行。
父と親類の人家族(父が頼りにしている人たち。父は自分の遺産を彼らに譲る約束をしている。私は相続放棄をさせられている)が来ていた。
母はどんな呼びかけにも反応がなく、ほんの少し目が開いたような気がしたが、ほとんど無反応。
親族が帰り、父は葬儀の話をする。
誰に連絡をするか、葬儀に幾らかけるかなど、これはこれで現実的に練っていかねばならない話だ。
それは父に任せることにした。

病院を出て、地下鉄に乗り、前日の夜に約束を交わした友人と会うことになっている。
この友人とは
度々、ブログに登場してくる、今の職場にいた元同僚、Iさんだ。
彼女は今、療養病院で働いている。
あのショックからどうやって、やがて近々やってくる現実に向き合っていけばいいのか、
日頃、そんな患者や家族を観ている彼女の客観的な言葉を聞きたく、前の日の夜に急遽メールをした。
休みがちょうど一緒だったので、別な日を待たずに会うことができた。

昨年の11月15日以来の再会。
私には、母のことや義母のこと、仕事のことなど伝えることが多くて
前日のショックが大きくてつい、何かにすがりたい気持ちが抑えられなくてメールをしたのだが、
会ってみれば
この会っていない期間に、彼女にも失うものがたくさんあったことを知った。
誰もが、平穏に暮らしているわけじゃない。
年月を重ねていけば、いろんなことが起こる。
彼女なりの傷心が手に取るようにわかる表情だった。
だから、ちょうど昨日会えて話したことも彼女にとって良かったことなのだ。

彼女の言葉の中に
「奇跡は起こるから。」とあり、心に残った。
「もう、あと少しで死ぬとわかっていながらも、家族の献身的な愛情で、奇跡的に復活した人がいた。」と具体例を挙げてくれた。
その言葉が力強かった。
療養病院に行けば、あとは死を待つばかり、なんて患者以外の人間(家族や病院側)はそのムードであるが
そんなことはない、退院するつもりで頑張ろう、と思う。
そんな精神的なことを言うと、いつものように「非現実的な私」を嘲笑する父たちかもしれないが
私は、逆境こそ真の境地なり、という気持ちは変わらない。
死は必ずやってくるけれども、ギリギリまで抵抗したい。
母を励まして、一緒に頑張りたい。
母は、ガンの痛みはあまり見られない。
まだそこまでいっていない。
断末魔の痛みがやってくるのかどうかはわからないが(義母の妹のガンの壮絶な苦しみを見てきたので末期はそうなのだろうと、漠然と思っていた)、
ただ、肺や足に水が溜まり浮腫が見え、身体も歪になり、身体を動かすときの痛みがある程度だ。
そして呼吸が苦しくなっている。
そして昨日の様子は昏睡状態だった(ように見えた)ので、もうこのまま目を覚まさないのか、と落胆していた。


今日は日曜日。
仕事の後に地下鉄に乗る。
夫と義母が車で病院に来るので現地で待ち合わせ。

病室に入って「お母さん!」と声をかけた。
眠っていた目がパッと開いた。
喜んだ。
昨日は呼びかけに対して無反応だったのに。
頭も動いた。
手も動いた。
お昼に行ったのに、食事の用意がされていない。
もう、食事をする段階じゃない、ということか。
朝食はどうだったのだろう。
何もわからない、説明もないので
看護師を探して(病室の隣はナースステーションだが誰もいない)、
ようやく聞くことができた。
医師が日曜で休みなので、食事についてはわからない、と言った。
今後、食事を出さないのか、それが方針なのか、いろいろ聞きたかった。
確かに、母の食は細い。出されたものの1口、2口でやめる。
しかし、物によっては全部食べたものがあった(前の病院で)。
だから可能性のあるものなら、無駄になってもやっていきたいのだ。
母の好きなヤクルトやヨーグルトをやっていいかと聞いたらOKが出たので、
それを口にさせた。
口を開けた。
食べた。
口の中を見せて、と言うと
口をアーンと開けた。
つまり、私の声が届いている。
昨日より、調子が良いのだ。
そんな可能性があるのだから、それに乗っかるしかない。
明日、もっと病院に聞こう。
個室になったら、全然ナースが来ない。
耳元で
「ウンチがしたい」と言った。
それが聞こえたし、
母が弱弱しい声で伝えてくれたのが嬉しかった。
看護師にそれを伝えると、担当の看護師に後で取り換えるように伝えておく、とのことだった。
担当の看護師って誰だ。
それさえもわからない。
なんだか不信感でいっぱいだ。

一応、看護師にメッセージを書いておいた。
それは、覚書として保存したいので残しておくようにとも書いた。
食事をさせてほしい、と。
オムツも取り換えてほしい、と。
明日、直接言うことにしている。
うるさい家族だ、と思われてもいい。
悔いのない状態でありたいのだ。

今日は父が来なかったので
メールをした。
色々と反応があった、と。
明日父も来る。
父からも言ってもらおう。

病室を出るとき
「明日も来るからね。バイバイ。」と手を振ると
いつものように
母も手を振ろうと、手を動かす。
こんなに、意思表示ができるなんて、昨日の姿から想像できない。
でも、
私、病院に行く前にチラッと思ったんだ。
必ずしも、昏睡状態では終わらない、一進一退という言葉があるのだから
良い時もある、今日はそうかもしれない、と。
やっぱりそうだった。


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(6/2)母、転院。そして急激な変化。

2017年06月02日 17時42分04秒 | 両親のこと、入院のこと
一昨日、5月31日に母は転院した。
前の病院には最大3週間までと入院当初から言われており、
その間、最期の看取りの病院を探しておく、とも。
そして当日
母には事前に転院のことを知らせてはいたが、
どれほど理解できたかわからず、表情は戸惑っていた。

車いすつきの介護タクシーに乗り、
更に南の病院に移動した。
前の病院が新しかったせいか今回の病院は
古く、騒々しいイメージだった。
一日それにかかり(多くの関係者との話など)
どっと疲れ、更に、前の病院から借りたものをそのまま持ってきてしまったので
それを返しに、地下鉄を途中で降りる。
これからまた地下鉄を利用することになるのだが
今度の病院は降りてから少々歩く。
帰り、父は車で前の病院まで送ると言ったが
現病院と地下鉄駅の距離感をつかみたいために
私は地下鉄駅を探しつつ歩いていくと言った。
洗濯物なども持っていたため、重くて疲れてしまった。
もう転院することはないだろう、しばらくここを通うのだろうと思い、
昨日は仕事後に病院に行かず、久しぶりに会社の近くのスーパーに寄って
食料を買い込んだ。
前の病院の時は、専らその町の小さなスーパーで買って帰宅していた。
その町は地震で道路や建物も随分と被害に遭ったが
古いものが残っていたり、小さな商店街が活気づいていて
結構、好きな場所になっていた。

会社に提出するレポートも書かねばならなかった。
夜は雨が降っていた。
病院通いと仕事と、義母の粗相の件とか
私の頭も身体も煮詰まっていた。
職場では耳鳴りがひどかった。
それでも
夜、雨の中、懐中電灯を照らしながら
南の庭の草取りをした。
カエルたちの足の踏み場所もないくらいに
どこから種が飛んできたのか、昨年まで生えたことのないわけのわからない雑草が
生い茂っていた。
カエルにごめんね、ごめんね、と謝りながら、
長く伸びた雑草を引っこ抜いた。
そう、母の病院通いを1日休んだ。

そして
今日、仕事が休みであるが、会社に寄り、レポート提出、自転車を置き
地下鉄に乗った。
最終地点で降りて
一昨日の道のりをおさらいしつつ病院を目指した。
これから暑くなる季節、仕事後通うんだなあ、と川沿いを歩いた。
そんなものもこれから自分の頭に焼き付けられるんだろうなあと。

父から昨日メールをもらっていた。
病室が替わった、と。
なぜかわからない。
4人部屋から個室に替わっていた。

そして。
病室に入ったとたん。
一昨日とは別人の母がそこにいた。
これが激しくショックだった。
たった1日来なかったことを後悔した。
看護助手が母に食事をさせていた。
その食べ物を口に運んでいる母の横顔が
急激に痩せこけていて
私が入っていっても、無反応になっていた。
「お母さん、私だよ、トモロッシだよ。」と言っても
全く無表情だった。
給餌を私に替わって、食べさせたが(もちろん、食が細くなっているのは前の病院にいたときと変わらない)
いつも、私の指示(口を開けて、とか飲み込んでとか、伝達がスムーズだったし、反応もよかった)に
従ってくれたのだが、全てにおいて無反応だった。
たった1日で、何が彼女を変化させたのか。
環境が変わったことに戸惑ったではあろうが、馴れていくものと思っていた。
可哀想なことをした、と思った。
いつも、入れ歯をした状態で食べ、そのあと入れ歯をはずし、口を漱ぎ、自分で爪楊枝で口の中のカスもとっていたのに。
入れ歯は外されていた。
「お母さん、いつものように入れ歯をしようか?」といつもと変わりないように声をかけたが無反応。
目が澱み、焦点も合っていないように見えた。
あれほど、会話もできていたのに、義母ともついこの間の日曜日に話し込んでいたのに、
義母には「うちの母の方が、ちゃんとトイレ行きたいって言うよ」なんて言ったばかりなのに。
「たった1日で、たった1日で・・・」という言葉が渦巻いた。
無味な病院食を拒絶して、持っていったヤクルトやヨーグルトを
「これなら味が着いていて飲める、食べられる。」って一昨日まで言っていたのに。
「また明日ね。」と手を振ってテレビを観始めていたのに。

環境を変える、ということが悪化させたのだろうか。
もしも、あのまま前の病院にいたのなら、
いつものように、会話も成り立ち、目も合わせていられたのか。

「お母さんは、2回も大きな手術を乗り越える心臓を持っているんだし、もっと頑張ってよ」なんて
言ったけれど、いつもなら「そうかあ?」と反応するのに
今日は目も私を見ていない、今にも消えそうな生命に見えた。
そしてそのまま眠りについた。
病院を後にして、会社に戻る。
そのまま自転車で帰ろうと思ったが、同僚がまだ仕事をしていたので
母の様子を伝え(誰かに話したかった)、今日の仕事のことを聞き
帰宅する。

家には
義母が薄暗い部屋にポツンといる。
彼女のことも気にかかる。
彼女の食欲だけが救いだ。

明日も仕事は休みだ。
何カ月ぶりかに、2日続けての休みだ。
当初の予定として
休日2日のうち今日病院に行き、明日は家の事(草取りなど)をしようと思っていたが
1日行かないだけでこんな状態では、明日も勿論病院に行く。
明日、母、落ち着いているだろうか。
いいよ、目の焦点が合わなくても、あの心臓で元気でいてほしい。
いっぱい話しかけるよ。
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(5/10)母。

2017年05月10日 20時16分10秒 | 両親のこと、入院のこと
やっぱり、父とはダメだなあ。

母、明日緊急入院。
夏まで持たない、という連絡あり。
明日、仕事を早退して実家に行くが。

父に振り回されてきた母、私だ。

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(8/20)忙しくて、心が落ち着かない。

2013年08月20日 21時00分41秒 | 両親のこと、入院のこと
あと30分ほどで寝なくてはならない。
疲れている証拠に耳鳴りがひどい。

連日猛暑。
仙台は
七夕辺りから暑くなった。
それまでは避暑地として訪れてもいいくらいに
低気温。
お祭りに合わせて、夏が遅れてやってきた。
そして今日
ようやく、朝から雨になり
いっときは強い雨になって湿気が多いとはいえ、少しクールダウン。
そんな中
母の病院に行く。
曇った空、雨の中
大通りのケヤキの木が鬱蒼として、水分補給しているようだった。


その大通りに面した画材屋の幟を発見。

「仙台城下町百景」の絵葉書が販売されている。
私は
絵葉書が好きで
風景の写真よりも、絵で描かれたものを好んでいる。
中に入って、たくさんある中から、10枚を選んだ。
他のはまた買いにこよう。
「また来ます。」と言って店を出た。
その一部。




いろんな通りを自転車でふらふらとまた歩いてみたい。
これまで封印してきた。
仕事をやめたら、少し自分のために時間を使いたい。
仙台には
素敵な通りが幾つもある。

時期をはずしてしまったが
次に
七夕の写真を。



この感じは、七夕飾りの典型。

そして。


これは特別です。

宮城の中学校の生徒たちが作った大きな大きな飾り。
圧巻でした。
この七夕飾りの周りにはたくさんの人々がシャッターを切っていた。
私の写真の腕では表現ができないけれど
裾が広がって、色が単色であるにも拘らず(多少、濃い、薄いあり)、
他の飾りを圧倒させる
これまでにない飾りだった。
皆にぜひ見せたかった。
その日のうちに見せられなくて。
その日には、母に写真を見せたのだが
七夕に関心がなかったようだ。もう、そんな感動もないんだろうなあ。


さて、思うところいっぱいあり。
あと10日余り。
仕事と病院通いなどで毎日心落ち着けず。
夫にまだ言っていない。
いつ言うの?

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(7/3)母の再手術

2013年07月03日 08時11分47秒 | 両親のこと、入院のこと
休日3日目。
夫は6時半に出勤。
私は昨夜8時半に寝たので
3時前には目が覚めてしまった。
朝から
こうしてブログを開いている。


昨日は実家に。
母の病院の付き添いのために迎えに行った。
2時半の予約時間には十分時間があったので
数時間実家で過ごした。
父は既に自分の病院に車で出かけていた。

家には
母ともう一人いた。
このブログに登場していた又甥の母親(父の甥の嫁。私にとって従兄弟の嫁。)。
県北の自分の家に夫を置いて
今ずっと私の実家に宿泊している。(数ヶ月単位)

昨年末に
父から私に
「遺産相続放棄せよ。」と言われて
その遺産がどうなるかの内訳を聞かされたときに
なぜか
その又甥の母親にも幾らかのお金を渡すことを聞かされていた。
私の実家は、又甥に贈与の予定。
その又甥の母親であるから、いずれこの家は彼女も入ることになるだろう。
そして今
数ヶ月に渡って
私の両親と同居し、母の話し相手になったり、食事を作ったり、掃除をしたりしている。
悪い書き方をすれば
ジワジワと実績を作っている。

又甥家族は、うちの近くに住んでいるのだが
そこに寝泊りせずに、私のうちにいる。

で、彼女も自分の病気を抱えている。
頭(脳)に瘤があり、いつ破裂するかわからない状態。手術も躊躇。

昨日はその彼女とじっくり話し込んだ。
彼女の夫、又甥の父、私の従兄弟であるJについて
いろいろと聞かされた。
私の両親から断片的に聞かされたことがあるが
より具体的に聞かされた。
田舎の長男であるJは、遺産を一人で受け継ぎそれをギャンブルに使い果たし
それだけでは飽き足らず、昔のサラ金に手を出し、返済を別な親類(父の姉)から
援助してもらい、それを今細々と返しているそうだ。
遺産を手に入れると人間ダメになる、と彼女は自分の夫を見てきたので
私の父に
進言したそうだ。
「生きているうちに、絶対トモロッシちゃんにお金をやったらだめだ」と。
(これは父から聞いた。)

あまり彼女と話したことがなかったし
そんなことも父から聞いていたし
(父は、彼女の苦労に同情しているが)
私以上に
私の実家に入り込んできていることに私は不快感を持っていた。
それでも
私は父との衝突は避けたいので
父の言われたとおりに
遺産相続放棄に同意した。
その過程は以前のブログに書いた。
同僚たちや、義母から
そんな仕打ちをされて
もうこれ以上、両親の面倒なんか見るな、と言われたが
そうもいかなかった。

最近父が2回も車をぶつけている、と聞いた(いずれも自損事故)。
父も自分の病院通いに精一杯。
そして今回の母の転移。
親子である以上、どうしても面倒を見なければならない。

母を連れて
タクシーで街の中の病院へ。
実家からは遠い。
帰りは
一人で母をタクシーに乗せて帰らせる予定になっていた。

担当医に話を聞くと
肝臓に2箇所の転移。
再手術を勧められる。
放っておくと1年以内に肺などに更に転移、腹部が腫れる等の話。
母は話がよくわかっていないので
先生の言われるままに
「はあ、はあ」と返事。
が、やはりショックは隠しきれず、顔を覆ってしまった。

先生の話をメモして
父に渡すように母に指示。
次回の予約をして(この日も私が付き添い。胃カメラ。)
タクシーに乗せようとしたが
母は不安がる。
頭が正常であれば、それくらい簡単なことだが
自分が不安で、目的地にたどり着けるかどうかわからない。
今はナビがあるから、メモに書いた住所を渡せば大丈夫、と
言ったが、不安だということで
じゃ、私も乗って送るから、と同乗。
結局
実家に私も戻る。
玄関で父に説明。
そして
バスの時刻があるので(1時間に1本のところ)、急いで歩いてバス停へ。
これが疲れたのよ。
歩くのは苦にならないはずが
重たい新聞を持ち(実家からもらってくる。猫のトイレのために。自分の家の新聞だけでは足りず、会社からもらったり、向かいの家からもらったり)、
小走りの10分は疲れた、疲れた。しかもサンダルだし。

バスを降りて、地下の駐輪場に行ったとき、股関節の痛みがあって歩けなかった。

これから
また母の病院の付き添い等を考えて
実家に送り迎えすることや
夫の夕食に間に合うように帰宅することや
自分の仕事の内容の負担が大きくなることや
自分の身体のことや

ああ、これは仕事をやめる方向へ、と気持ちが傾く。
こうして3日間続けて休めたので
今日は身体の回復をしようとしているけれど
実際、家の庭の荒れを見ると、草取りしなくては、と思ってしまう。
家のことも疎かになっているんだ、この仕事をしていると。
そこに介護が入ってくるとどうしても
自分だけでは無理だなあ、と。
だから

実家にいる従兄弟の嫁さんには
逆にありがとう、という気持ちになっている。


少し音楽でも聴きましょう。
70年代のでも聴きましょうか。




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(1/18)曲が思い出せない

2013年01月18日 21時43分15秒 | 両親のこと、入院のこと
あっという間の休み。
うたた寝したくらいかな、リラックスできたのは。
雪が残っている道を自転車で危なっかしく走り
用足しに行き、
洗濯をして
ネコの相手をちょこっとして
終わりの日。
気になっていた用件を終えたというだけで有意義としよう。

父からケータイに電話が入っていた。
気が付かないふりをした。
今度の日曜に用事を告げられるのかもしれない。

正月早々
快気祝いの品物を送ることの用事を済ませたのが4日。
それ以来
父から連絡がなかった。
快気祝いか・・・
そのお祝いをどこかの温泉でするらしい。
親戚が楽しみにしているようだ。
私たちはむろん行かないし、行けない。
土日に仕事が入っていることがむしろラッキーだったと思える。



どうしても
思い出せない曲がある。
夫にメロディを伝えても
わかってくれない。
私のうろ覚えのメロディではわからないか。
何年越しだ、思い出せないのは。
覚えているのは
souvenirという単語だけ。
タイトルに入っていたのか、歌詞の中だったのかも覚えていない。
CDのジャケットを見ればなんとか思い出せるのかも。
でも大変だ、膨大なCDの中から探すのは。
そんな時間が欲しいね、無駄な作業に費やす時間が。
来週2日続けて休めるから、1日それに費やしてみようか。
ただただ、洗濯と掃除で終わる休みにはしたくない。
この間
ようやく別な曲を思い出してyou tubeで見つけたのがあったのだが
またタイトル忘れちゃった。
書いておかなくちゃね。
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(1/18)いやな夢

2013年01月18日 03時39分44秒 | 両親のこと、入院のこと
いやな夢を見て目が覚め
そのまま起きている。
起きる予定の時刻は5時。
今日は休みなのでいつもより遅く起きる予定だった。
それが2時ごろに起きてしまった。
寒い。
ストーブをつけてはいるが
寒くて分厚いのを着ている。

夢は3つ見た。
1つは
私の頭上でロケットのようなもの(人が乗っている)が打ち上げられるのだが
あまりにフラフラしていて、大丈夫かな~と思っているうちに
落ちてしまった。
それがアスファルトの道路に落ち、ポッカリ穴が開いた。
人々が大急ぎでそれを埋めてしまった。
乗っていた人は無事だった。

次に。
野良猫がうちの庭に棲み付いた。庭は現実のものと違うけれど
うちの庭ということで、ダンボールハウスを作ってやった。ところがそのネコ、
犬と喧嘩するんだ。強気なネコは疲れてダンボールで寝ていた。

次に。
これがいやな夢だった。
私と知人とで、私の実家のほうに行く。
車で通ると、父と母がゆったりと散歩していた。
父はガウンを着ていた。
私たちの存在に気づかないようにと
通り過ぎたが、なぜか私たちは車から降りていて、
通らなければならない道に、うちがある。
どうしてもうちの中を通らなくてはならない(夢だからヘンだけど許して)。
そうこうしているうちに父たちが帰ってきて
家の中にいた親戚や父の友人たちが拍手をして迎えていた。
そこに水を差すように
私が現れる。
父の友人まで
「なんで君がいるんだ?」みたいなことを言われて
歓迎されない私だった。
私は
「自分のものを取りにきた」と言って
手袋を持った。
早く去れ、と云わんばかりの空気。

父の一方的にまるで洗脳のように
娘は親不孝者と吹聴されてきて
それを鵜呑みにしてきた人たち。
私は
宣言するかのように言って出てきた。
「これですっかり縁も切れた。介護もどうぞそちらでやってください。
葬式にも出ません。」と。
母は
「もう会えないけれど、テレビに出ているからそれを観るよ。」と言った。
いやいや、私、芸能人じゃないから。
うちを出て、遠くに歩いている知人。そして夫の姿もあった。

そこで目が覚めた。
まるで近い将来やってくる光景を見ているようで
そんなところでフィルムが切れて目が覚めた。
そして起きている。

2週間ぶりだ、父や母のことを書いたのは。
まさかこんな夢を見ているなんて
父も思っていないことだろう。
でも
現実に近い夢だ。
自分の心を表している夢だ。

では5時までまた寝ます。
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(1/5)たった2日間の正月休み

2013年01月05日 21時05分14秒 | 両親のこと、入院のこと
私の正月休みは
たった2日で終わりです。
そのうち1日は
朝から疲れて休みになっていない。
今日は
夫とともに
牛タンを食べに行きました。
正月料理を作っても
自分自身が
落ち着いてゆったりと
テレビを観ながら食べる、ということが
なくて
栄養摂っていないなあ、と牛タンを。
さすがに今日は
空いていました。

明日からまた
仕事の一週間。
これまで私への配慮で
私の仕事は簡単なものにしてくれていたけれど
今月から復帰です、難しいの。
頭、抱えるなあ。
できるかな、2ヶ月ぶりなんだけれど・・・


私は
父にまんまと
巧みに騙されているような気がしてね。
そうと気づいているけれど
単純に受け止めているふりをしている自分。
争いたくないから。
いろいろ
思うことあるけれど
あくまで素人だから
もう少ししてから
弁護士に相談してみます。
皆さんの意見を聞きたい。

極端な話
私、この街を逃げ出したくなるんですよ、突発的に。
父と会いたくなくて
お呼びがかかっても
簡単に行ける距離じゃないところに篭りたいんですよ。
連絡先も教えずにね。
でも
私には
大事なネコたちがいる。
高齢の義母もいる。
夫もいる。
うちのカエルもいる。
これらを簡単に動かせるはずがない。
仕事もしていかなくては生活もできないしね。
義母は怒っているんですよ。
それまでの鬱憤が爆発。
興奮して眠れないらしい。

昨日今日、養子縁組したわけじゃないのに
自分の子どもなのに
血も涙も無い人だ!とかなんとか。
もう、行くな、
呼び出しがかかっても行くな、と
私に強く言っていますよ。

そういうわけにいかない、というのが心理でね。
母の
腹をかばった歩き方を見ていると
父に殺されそうだ、と思ってしまう。
病院にいたころの母のほうが
穏やかな様子だった。

だから
私は
実家に行っても
母のことばかり心配して
父に対してはそうでもないんですよ。
父、落ち着いたら
首の手術をするんですって。
とにかく長く生きるためには
首でも腹でも手術してしまう人です。
私なんか
どこを手術するのもいやな人間。


ああ
こんなことばかり書いて
つまらんブログですね。
コメント (5)
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