午前中まで
雨だった。
お墓参りは少々空気が冷たく
いつもより清掃を簡略して立ち去る。
年に三度、義母の親、義父の墓参りを
するけれど
私の心がこもっていないのか。
私の心も冷淡だ。
こういう場合。
ただ、義母の親の墓の隣に
もう見捨てられた墓があるのだが
墓には安政の元号(調べたところによると1854年から7年間)が彫られていて
その歴史を想像している。
そしてそっとその墓に線香を置いたことがあった。
もう誰も訪れることがないお墓だ。
一度も花をそえられたのを見たことがない。
だから一度だけ、線香をあげて手を合わせたことがある。
でも、義母に叱られたっけ。
そんなことをしたら、祟られるとか何とか。
そういうものかしら、と思いつつ
今日も
そのお墓を気にかけて立ち去る。
いずれ
私たちの代が終わったら
私たちのお墓もこのようになるのだ。
それを寂しいとかという感情にはならない。
自分たちのことについてはそういう感情は湧かない。
時代が変わって我が墓が朽ち果てるような状態になっていたときに
私のように
ちょっと気にかけて
「あ、平成で終わっている、この墓。もう誰も参りに来ないんだ。」
と思う人がいたらなんとなく嬉しい。
そう思ってくれるだけで嬉しい。
もう1人の自分が50年後、100年後にいるのが嬉しい。
帰りの街路樹が美しかった。
見事に黄葉。
公孫樹の葉が黄色く色づいて
ハラハラと落ちていく。
カメラを持っていなかったことに後悔した。
土曜日あたりはどうだろうか。
もう落葉した状態かもしれない。
睡眠することで
翌朝
心に痛みがなければ
昨日の痛みは小さいものだったんだと
気づく。
傷の回復は早いから、小さな傷だったんだ。
その繰り返しの人生。
それを繊細な心、という美しい言葉で書き表すのは違う、
小心であるに過ぎない、私の本当の心。
さあ
明日も仕事だ。
皆、その傷を癒して出勤してくる。
皆、私より強い、たくましい、と思ってしまう。