僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(6/7)母の一周忌。そして父。

2018年06月07日 22時44分26秒 | 両親のこと、入院のこと
午後寝をすると、ほぼ決まって変な夢を見て目が覚める習慣。
夕飯の時間までギリギリ寝ていることもある。
夕方ハッと目が覚めた時、あ、両親の夢を見ていた、と思った。
夢の中でも、私が午後寝をしている。そこに父が帰ってくる。
家の中に傘を持って入ってきた父。その後に「トモロッシちゃ~ん!」と母の声がする。
2人とも笑顔だ。古い家(夫の以前の家のようだ)に家族が揃う。
その後に目が覚めた。
永遠に、家族として笑顔で過ごすことはない。
まもなく母の一周忌だ。

先日の日曜日、6月3日に母の一周忌を済ませた。
父の実家のある田舎に夫と共に行ってきた。
実は
父と再会するのは昨年の9月の百箇日法要以来である。
9カ月ぶりの父の姿である。
仙台の私の実家は車で30分もかからない所だ。
にも拘わらず、9カ月も疎遠にしていた。
むろん、百箇日法要の時はそんな気持ではなかった。
寧ろ、これから1人で暮らす父の所に頻繁に通わなければ、と思っていた。
そんな矢先、
10日位してから、父の手紙が届いた。
一度しか読んでいない。読み返すのも嫌だった。
書いている内容は、私の父への気持ちを翻意させるものだった。
母の葬儀の時のあれこれの私、夫への非難だった。
全く寝耳に水、の心境だった。
「何?これ」
「なぜ、今さら、こんなことを書いてくるのか。」
箇条書きにした、ほとんどお金にまつわる内容。
興ざめだった。
一人娘として、毎日仕事を早く切り上げて(母の昼食に間に合うように)、病院に通い
介護してきた自分として、非常に情けない内容の手紙だった。
百箇日法要に、私達S家として夫、義母と参列し、焼香も父に次いで私、夫というように
やったけれど、
父にとって不本意だったのかもしれない。
法要に集まったのは父のM家の親類たち。
その中にポツっとS家の3人。
それを誇らしく、手紙の最後に「これが(沢山集まってくれる)M家です。」
と書いてあった。
白けてしまった私だ。
そして翻意した私だ。
父とはもう関わらない。
反論の手紙を書こうと思ったが、書く気力さえ無くなった。
父にしてみれば、当然リアクションがほしいところだったろう。
が、
それをせずに、年末を迎え、
年を越して(年内に解決できなかったとかなんとか、ブログにつぶやいたと思う)
3月のお彼岸も行かず、
音信不通のまま何カ月も過ごしてきた。
そして先月辺りから、
一周忌はどうなるのか、と悩ましい問題がもたげてきた。

そんな矢先、先月末に父から小包が届いた。
開けると、実家の近所の奥さんが亡くなって、おそらく私の名前で父が香典を出してくれたのであろう、香典返しが入っていた。
いつ亡くなったのか、金額を幾ら立て替えたとかのメモさえ入っていなかった。
この奥さんは、父と同年で、両親が家を建てたころ、一番親しくしていた家だった。
その子供たちが私達で仲も良かった。
大震災の時に、実家に行ったときに、家には誰もいず、母がその家にお世話になっていた。父は小田原に友人たちと共に旅行していたので
あの震災の恐ろしさを直接は知らない。あのころのことはブログに綴った。
その奥さんも脳梗塞で車いす。
母の葬儀の時に、施設からわざわざ焼香に息子とともに来てくれたのだ。
「おばちゃん、よく来てくれたね。」
と手を握って、「おばちゃんも頑張ってね。」と別れた。
それが最期だったんだ。
本来なら、父と交流があれば、葬儀の日程など知らせてくれるところが、こうして後になってしまった。

その父の小包を機に、
私は立て替え分のお金などを同封し、父に手紙を書いた。
一周忌はメールでいつなのか問い合わせておいた。
すると一周忌である6月12日前後の日曜日の10日を想定していたがそれより前の3日とわかった。
この小包が無かったら、危うくもっと遅くのメールになり(小包届いた、ところで一周忌はいつか、と問い合わせたのが早かったので)
父からは、3日にする、というメールさえ来なかったかもしれない。
それほど、私達抜きで一周忌をする予定だったのかもしれない。

父のメールには「私は、〇〇たちと車で行きます。」とだけあった。
〇〇とは、私の実家の近くに住むM家直系の又甥家族である。(これも何度かブログで登場してきた)
百箇日法要の時は、夫の車で父と私と姑とで出かけた、それが当然だと思っていた。

私の手紙の内容は。
私達に何か不備があったにしても、こうしてほしい、ああしてほしいとなぜその時に言ってくれなかったのか。
父が表立ったことで動き、私は母の傍に付き、焼香の方々の相手をし、夫は北海道の母の親類たちに気を配り(M家は父の本家、
母の本家は北海道。そこから4名参列。北海道の真ん中から参列してくださり、空港の送り迎えやホテルへの送り迎えなどは夫がすべてやってくれ、
北海道組から感謝される)、そういう役割をそれぞれしていたのではないか、父はM家ばかり見て、北海道の本来の母の親類にどれほど気を配ったか、
そんなにM家を誇らしく思うなら、なぜ通夜の線香の番をM家では誰も泊まらず、私と姑だけで亡き母の傍で寝ずの番をしたのか、あなたの「S家には世話にならない」という言葉をどう自分自身思うのか、など書いた。
そう、配偶者である父は、M家の親類と共に、自分の家に帰り、亡き母の傍にいたのは、S家の2人だけである。
それでも私は、父を非難することはしなかった。色々と葬儀に向けて忙しいのだろう、だから表立ったことは父に任せて、裏のことは私や夫がやろうと
なったと思っていた、あの9月の手紙で非難される言われはない、と書いた。

その手紙を送ったあとの
3日の一周忌である。
父の親類数件に土産を買い、お供物等準備し、夫と共に参列した。その後の食事会は不参加と言っておいた。
お寺には私たちは早くに着き、大体お寺でやるのかも知らされず、本家に電話をしてその確認をした。
お寺で正解だった。
M家の墓に入った母。
それも父の希望だ。母はそれについて生前何か言いたそうだったが、父に従うしかなかった。

そして、久しぶりに会う父。
又甥の家族と共に現れ、その家族に手を引いてもらい靴を脱ぐ父。
それでも
やはり、焼香は父、私、夫の順番だった。

別れ際、またもお金のトラブル。法要代として渡したお金をもらっていない、などとほざく。
あちこちと探し(お寺にまで問い合わせ)、父のバッグからそれが見つかる。
皆に袋を見せて、「渡しましたからね。」と私。
皆も呆れている、父のそれ。
道すがら、私の従兄が夫にささやく。「葬儀の時に、会計を頼まれて合わなかったのを俺のせいにされた。」と。
父のパワハラ的言動は彼をこれまでにも悩ませている。
夫は「すみませんね」と謝る。
おかしいね、S家の夫が謝るのも。
M家、M家の父に言いたいくらいだ。
そんな父を受け入れてくれているM家一家。
父の財産は彼らに行くので、そのトラブルも受け入れてほしい。
父が亡くなったときの葬儀のことも父は自分で計画している。
喪主は当然、一人娘の私でしょ、常識なら。
しかし、父は甥のその人に決めている。
私が喪主であったら、私は父の若いころからのあれこれや亡き母の苦労など、公に言ってしまいそうです。

そしてお別れ。
車に近づいて、「じゃあね、お父さん。また行くからね。」と握手をして別れた。
そんな、ギスギスしたお別れじゃなかった。
いつ、行くか。
それはわからない。
M家では「お茶でも」と誘ってくれたが、「姑を一人残してきたので。」と辞退する。



こうして一周忌が終わった。
そして今日、冒頭の夢を見た。
永遠に来ない、笑顔の父、母、私。

久しぶりに吐き出した。

コメント
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