僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(2020/2/26)義母の病院の改善。介護調査の件。

2020年02月26日 16時08分04秒 | 日常、仕事、認知症
義母の入院している病院は
週明けの昨日から、面会制限の看板を掲げた。

面会氏名を書くのは変わらないが、そこで体温を測り、その温度を記入することが加わった。
自転車に乗って身体が温まった直後の体温計。
ギリギリ36・9度だった。ギリギリって、勝手に書いたが。
廊下で待っていると
病室、院内は念入りに清掃していた。
義母は寝ていた。
いつもなら起こして声を掛けて
持参したヤクルトを飲ませるのだが
今日は止めた。
着替えの下着をロッカーに入れて、
そっと病室を出た。
面会制限は良いことだ。
完全看護の病院。
面会者は、安否の確認と声掛けと洗濯物の交換くらいだ。
病院にとっても面会者にとっても
早々に引き上げたほうが良いと思う。
余計な心配の種は撒かないほうが良い。
コロナウィルス。
この日記を数年して読み返した時に
2020年のこの時期、世界中でそんなことがあったなあ、と
思われればよい。
今、私達にできることと言えば、慎重に、静かに、行動するのみ。
仕事も最低限の行動でやるのみ。
(なんと、会社はマスク着用を認めていない)

介護認定の調査員から連絡があった。
入院先に、本人に調査に行くとなった。
で、その日付が
「大変混んでいまして、早くても4月1日です。」と言われた。
「そこまで入院しているかどうかわかりません。」
退院したら知らせる、ということで電話は終わった。

私が心配なのは
義母が退院して、果たして、歩けるかどうか。車いすの生活になった場合
私1人では介護ができないと目に見えている。
そのために介護認定と介護サービスを受けるつもりでいたのだが。
例えば入浴。
自宅にては
二階のお風呂に行くとき、義母は階段を上って、私はその後ろから付いての補助。
それができなくなるわけだ。
認定されれば、外部の入浴サービスを受けられるようなので、それに期待していた。
仮に3月の上旬、中旬に退院した場合、
その4月の調査、更に、調査委員会などを経る期間を足せば、もっと遅くなるかもしれない。
そうなると、空白の期間をどう過ごせばいいのか。

などなど、自分の頭の中で
またもネガティブな考えが渦巻きそうだ。
否、
なんとでもなる、と言い聞かせる。
あの精神を思い出せ。

それにしても
自覚症状のない義母のこと。
自宅に戻ったとたん、ベッドから起きだそうとして、つまずきころんで骨折、になったら
どうすんの?夫。


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(2020/2/24)夫の目の手術、義母の様子。

2020年02月24日 20時20分09秒 | 日常、仕事、認知症
夫の目の手術から5日経った。
夫は以前から、目が見えなくなった、と言っていた。
眼科に行くように進言してきたが一向にその気配はなかった。
私の視力は、文字が見えづらくなったとはいえ、それほど気にするほどでもない。
だから、目が見えない、という経験がないから、物が歪んで見えるなんて想像ができないから
眼科に行くしかない、と言うしかなかった。

夫もそれなりの年齢だから、老眼とか近視とか、それの類だと思ったがそうではなかった。
目が見えないと苛立って、車の運転にも支障をきたす。
年末年始の夫の体調不良を機に、いよいよ眼科にも行く、と決意した彼。
口コミで近くの病院を見つけ、すぐに白内障と診断された。
そして手術が20日と決まった。
それの付き添いで仕事を私も休んだ。必ず、付き添いが必要だそうだ。
あまり多くを語らない夫だったが
手術後、一気に話し出した。
手術前の不安、メスが見えるのではないかなど、手術前にはそんなことは一切言わなかった。
そこの病院の口コミは年配の人たちの書き込みが多かった。
そして、全てが「安心して任せられた。」とあった。
それを信頼するしかない。
右目の手術。
眼帯をした夫に
「痛くなかった?」と聞くと
「全く痛くなかった。」
流水しているせいか、器具など目の前に迫ってくるのは全くわからなかった、と。
翌日も付き添った。
眼帯を外した夫。
保護眼鏡(これも、普通の眼鏡をかけているのと変わらない仕様)を掛けて家路に。

良く見える、とのこと。
歪んでいたものが正常に見えるとのこと。
太陽のギラギラ感が無くなったとのこと。
眼科の先生は多くを語らず。
それが夫の波長に合った、と言っていた。
いずれ左目も手術するかもしれない。

見える、ということを
具体的に細かに説明する夫。
ずっと気に病んでいたことが取れて、世界が広がって、心がすっきりしたようだ。
それを身近に見て、実感する。

これまで眼鏡をかけたことがない夫が
黒縁の保護眼鏡を掛けて一日家で過ごしているのを見ていると
別人がいるように思えた。
「大学教授が休日にゴマ団子を食べているようだ。」と言った。
何はともあれ、良かったね、夫。

父から
義母と夫の手術の見舞金が送られた。
「律儀だねえ。」と私。
「隙を作らないというかなんていうか・・・」と夫の感想。
ほう、そういう見方もあるのか。

義母は
食事がうまくいかない。
どんどん痩せ細っていく。
入れ歯を入れていないせいか、噛むことができない。
かと言って
入れ歯の装着は難しい。
あれは自分で入れるしかない。
ピッタリと収まる感覚は自分が要だ。
それができなくなっている。
以前、入れ歯を外してはどこかに隠していた。
大事なものは隠す、ということで入れ歯は彼女にとって大事なものだ。
歯磨き粉、歯ブラシ、化粧品等、毎日使うものをあちこちに隠しては
私はその都度新しいものを買ってきた。
しかし、入れ歯はそうはいかない。
だから、入れ歯を装着したままだった。
が、病院は入れ歯を外してゴハンを食べさせる。
味気のない、全部とろみにしたものが出てくるが
彼女の口に合わない。
吐き出してしまう。
家にても
時間をかけて、クチャクチャゆっくり自分のペースで食べるが
立ってでも、すぐに食べたがっていた彼女だ。
今の変わり様は
やはり病院だからだ。
動かずに臥せって、声を出さずに過ごす日々。
今日、午後行ってみると
少しベッドを起こした状態で、独り言を話していた。
午前中はベッドでリハビリをしているはず。
その場面は見たことはない。
私なら、もっと厳しく指導しているかも。
もっと手を動かせ、もっと話せ、声を出せ、脚を動かせ、とね。
生きるバネは、それらだと思う。
病院は、治療する所でもあるが、過保護になって本当の病人になってしまう。
亡くなった母の最後の病院での姿がどうしても思い出してしまう。
相変わらず
「トモロッシちゃんのお母さんは元気なの?」と何度も聞かれる。
「死んだよ。あなた、葬儀に参列したでしょ。」といつもの返事。
頭を働かそうとして
彼女の姉妹の名前を出して色々と聞いてみる。
考えよ、考えよ。
夫は
「めし、食えよ。家に戻れないぞ。」と言って聞かせる。
肯定の返事はするが、いざ、食事の時間になれば食べない義母なのであろう。

自宅にては
義母の部屋の掃除を少しずつしている。
立腹しながらね。
寝室から、居間にベッドを移動してこようと思う。
施設に入るかどうかは、これからの問題だ。
私の仕事のことやお金のことやそれらを含めて色々と考えていこうと思う。
職場の人からは「絶対辞めないでね。」と言われた。
私の都合で休んでもいいから辞めないでね、と昨日も言われた。
父は
「あんた(私)の身体は大丈夫なのか、仕事を続けているなんて」と言われている。

昨日から今日にかけて変則的な寝方をしてしまった。
病院から帰ってきて寝てしまった私は
目が覚めて時計を見ると、5時半。朝だと思って、慌てて食堂に行った。
ご飯支度をしなくては、と味噌汁用のお湯を沸かしているときに
「あ、もしかして夕方の5時半?」
二階に上がって、のんびりしている夫を見て、確認するとやっぱり夕方だった。
そういえば、寝る前に
昼食兼夕食を食べたのだ。

そしてこの日記を書きだした。

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(2020/2/19)腐らず、ぼやかず。

2020年02月19日 18時16分19秒 | 日常、仕事、認知症
今朝、弱弱しい自分、と書いて出勤した。

久しぶりの職場である。
自分の居場所がなくなっているのではないか、なんて
家族の病気とは別な悩ましい問題も心の中に在った。
職場の皆は
今の自分の立場を理解してくれ、いつでも対応できる、気にしないで
義母、夫に付き添って、と言われている。

義母の怪我の前に
新人が入った。
この方はベテランで何かと頼りになりそうだ。
その方が入ったことによって
偶然にも直後義母の怪我、入院にスムーズに対応できた。
1人入ったことで、1人1人の仕事が随分と楽になった。
すると会話も増えた。
それから別な部署にも新人が2人入り、耳の遠い自分はあまり話さないで
挨拶のみ、の対応だった。
これまでの人生で
私の第一印象は良くない、というのはわかっていた。
若い人から見れば、威圧感があるのかもしれない。
よくあることだ。
そうして一カ月ほど経った。

今日はそのうちの1人とたまたま話になった。
英語の話になった。
私は昔人間なので
英語は筆記体でしか書かない。
一文字一文字区切ってなんか書くのはどうも苦手だ。
発音が素晴らしい。
そのうち
いつもの、誕生日はいつかということに。
みずがめ座だった。
色々と話が盛り上がり
若い人なりに、悩みを抱えていた。
若い、とは言っても
私が年だから、皆若いのであって
他の新人と比したら、「若くはない」のかもしれない。
それなりの人生の悩みを抱えながら生活している。

帰宅途中
「腐らず、腐らず・・・」と自分に言い聞かせた。
職場の皆の厚意もあるのだから
若い人なりにいろんなものを抱えているのだから

自分も今
年相応の悩みを抱えているだけなのだ、腐らず、ぼやかず、
1つ1つ、解決できるよう、がんばれや~、と思った。
それが
今日の収穫だった。
ありがとう、皆の存在。

そして、父にメールした。
今、義母手術入院、夫の手術。追って手紙を書く。
元気でいてほしい、と。

腐らず、ぼやかず。
うん、自分の弱い時につぶやこう。
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(2020/2/19)義母の手術終わる。夫の眼の手術、父の手紙。

2020年02月19日 04時07分40秒 | 日常、仕事、認知症
現在、朝の4時過ぎ。
もう少しで出勤だが、メモ程度に書いておく。

一昨日17日、義母の手術を終えた。
90歳の手術か。
凄いなあ、この年齢で全身麻酔だなんて。
私が病院から帰るころには目が覚めて、看護師の問いに答えていた。
1日経っての昨日は
私の質問にも答えてくれた。
毎回、「あなたがここにいるのは、脚の手術をしたからだよ。」と言っている。
彼女の頭の中は
「何が何だかわからない」状態なのだ。

区役所に行って、介護申請のお話を聞いてきた。
これまで、介護認定の抵抗感のあった私だったが、この怪我を機に
漸く思い腰を上げた感。
皆、抵抗なくその申請をしてきた、と周囲は言ってはいたが・・・

明日は
夫の眼の手術の付き添いである。
これも特記しておかなくては。

家族3人のうち
今週は2人の手術。
あちこち奔走の私。
仕事も、上司、同僚の協力のもとに休みを多くもらっている。
そのうち、使い物にならない、ということで「クビ」になったりして。

雪混じりの冷たい風の中、帰宅して
届いていたのは
実家の父のハガキ。
置き去りにしている父のこと。
正月以来、全く父に連絡していない私。
義母の手術の件を伝えるかどうかを躊躇しているうちに
その私の心を見透かすように
「一人は寂しいものです」の父の手紙。
神は、私に突きつけるのを忘れていない。

私に万能感でもあればいいのに、
今の所、弱弱しい私である。
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(2020/2/12)手術延期の理由を書くのを忘れていた。

2020年02月12日 08時39分28秒 | 日常、仕事、認知症
さっきの続きとして肝心なこと。
なぜ延期になったか。
医師の説明の時に
「予定は12日。手術できない何か原因があった場合は電話をする。
電話がなければ、予定通り行う。」と言われていたので
10日の夕方、夜になっても電話がなかったので、心エコーもクリア、となったんだな」と
思った。
そして翌11日昨日、前述のとおりの義母の様子。
そして夫と帰宅。
私は食事後眠っていた。
夫に起こされる。
夫の携帯、私の携帯に電話があったようだ。
夕方4時過ぎである。
私は気付かなかった。夫も自分の部屋にいたのですぐにとれなかった。
そして折り返し電話をすると
あれから義母は熱を出したらしい。
発熱によって延期、となった。おそらく祭日なので、主治医は不在。

義母は熱の出る人のイメージがなかった。
救急車で運ばれるときも
身体が冷たい、手が冷たく熱はなかった。
むしろ冷たい方が心配だった。
その後、熱が出ていた。
昨日の食事のときは、いつもより温かい程度に感じた。
その後、上昇したのだと思う。
とにかく後で、行ってみる。
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(2020/2/12)義母、手術延期。これまでのこと。

2020年02月12日 08時16分50秒 | 日常、仕事、認知症
予定で行くと
今日が義母の手術日だった。
昨日は祭日で、病院は閑散としていた。
10日月曜日、医師との面談で、心エコーを撮ってから、手術をするか否か、延期かを判断するとのことだった。
90歳の老人が手術に耐えられるのか、というこちらの疑問に対して
この手術は年齢が90歳前後が圧倒的に多い、1月の手術した60数名の年齢を見せてもらったが
90歳以上が随分といた。
それは変な言い方だが、安心材料になった。
術そのものの時間もわずかである。
絶対的な自信を持って臨む、といった姿勢だった。
心エコーもまずまずであった。
不安材料は、
義母の抱えている血小板減少の問題だった。
あちこちに、特に下半身や腕に、血小板減少の特有の痣がある。
今回入院して異様に増えたように感じる。
自分がなぜここにいるのかわからないと、表情が憮然としたものになるのがわかる。
昼食の介助をしたが、口を開けよ、と言っても、意志的に口をつぐむ、
あるいは申し訳程度にパッと開けてすぐ閉じる。スプーンが入るはずがない。
何回もそれをされる。
この意地悪さに笑った。
そのうち、自分の置かれている立場がわかったら、両手を使って器や箸を持ち、自分で食べだした。
そう、つい4,5日前まで、家で普通に食べていたじゃないか。
その調子、その調子。
酸素吸入の管を鼻に掛けていたらしいが、病室に行ったときには
なぜか、眼鏡の鼻に掛ける突起部分のように、位置をずらしていた。
義母が自分でやったのだろう。
顔や身体に付いているものをことごとく、取ったり剥がしていく義母だ。
前日は、点滴をしていた針を自分ではずしたらしく、右腕袖、シーツが血に染まっていた。

2月2日の日曜日に、夕方義母を見ると、左目の上おでこが何かにぶつけたようで、血が流れ、腫れていた。
その辺りから今回の骨折に繋がっていく。
翌日3日に近所の外科に。それまでの応急処置として、血が出たところを大きなカットバンを貼り、保冷剤を貼って冷やしていたのだが
案の定、夜中にでも自分で剥がし、その辺の壁に貼っていた。
どこにぶつけたかも判明しなかった。聞いてもわからない。
彼女の行動範囲はだいたいわかっているので、畳一畳分の分厚いコタツ板かもしれない。
その傷が治るまで(翌日以降、左半分が大痣になっていくので)しばらくの辛抱だ、と思っていた矢先。

2月7日金曜日、
私の仕事が休みであった。
私が休みの時は、5時過ぎに夫や義母の朝食の準備をする。
その準備をしている間に、義母が起きて食堂にやってきたり、自分の居間でごそごそやっていたり、寒いのでまだベッドにいたり、と
その3パターンの1つになる。
6時過ぎに夫が出勤して、起きてこないなあ、と彼女の居間に行った。まだカーテンは閉ざされたままだ。
隣の寝室を開けると、義母がベッド下脇に倒れていた。
薄暗い寒い部屋に倒れていた。
ギョッとした。
心臓とか脳のトラブルか。
呼吸しているのか。
声を掛けると、わずかに動いた。
どうして倒れているのか聞いても、正確に答えられない。
どこか痛いのか、足が小刻みに震え始めた。
これはベッドから降りて転んだのかもしれないと思った。
いつもなら、上半身を持って立たせることもできるが、足が硬直しているのがわかったので
そのままにした。部屋は暖房をつけたばかりだ。まだ寒い。
そして救急車を呼んだ。
その間、廊下の置いてあるものなどを片付けた。
担架が通るのに不都合なので。
救急隊が到着したあと、事情説明。
まず、顔の傷に目が行く。これは日曜日の傷、など説明。
早朝なので、受け入れる病院が固定された。
その病院名を聞いた時、昨年12月、実家の父が運ばれた病院だったことを思い出す。
そこでの対応が(私にとって)いやな印象を持っていたので、拒否しようと思ったが
そこしかなかった。
あの時、言い争った医師の顔を覚えていた。
そして運ばれると、いた、いた。
なんと主治医になった。
どうしても20数年前に亡くなった義父の顔を浮かべてしまった。

私の職場にも連絡しなければならなかった。
職場にてのあれこれも替えなければならなかった。
9日日曜日、職場に行く。仕事だ。
夫がいるので、その日のことは任せた。
職場にては、とにかく周りに、義母と同じ骨折で車いすになっている親がいる、あるいは兄弟で車いすの日常の人もいる、など
聞かされる。
老人女性に多い、と言われる。
何でもない動作で転び、骨折するんだ、と言われる。
それは医師の話と一致したし、義母も漏れずにそうなってしまった。
病院の評判など、詳しい詳しい。

10日、仕事後、医師の説明を聞く。
あの医師だ。
しかし、懇切丁寧に、時間を掛けて(何度も繰り返し)説明してくれる。
大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせる。
義母は
「トモロッシちゃんのお母さんは元気なの?」と相変わらずの質問をしてくれるのでホッとした。
そのホッとしたついでに病院を出てから
うちの近くの内科、義母の主治医の所に骨折入院の話をしに行く。

その日の早朝(10日)の月。
まあるくて、いつもより少し大きめ。
あ、これは、頑張れ、という意味だ、と思った。
あとで、何とかムーンかもしれないから調べよう、と思った。
家の前の長い路地を左に曲がると、早朝の月が出ていると
わずかの間、月に語り掛ける。
ありがとう、今日もこんな素敵な満月を見せてくれて、と。
そしてあとで調べてみるとスノウムーンだとわかった。
正確にはその日の夕刻からがスノウムーンということで
私は半日早く、ほぼ満月の状態を見られたのだ。
その時刻に出勤でなければ、見ることもない月。
早朝の月は綺麗だよ。
夜見るのとまた別な感情を抱かせてくれるんだ。
あのスーパームーンの時も驚いた。

何かに苛立って
孤独を感じた時に、
人間とは全く異種のものに
ただ存在するだけで、「孤独じゃないよ、見守っているよ」と
言われているように、
左に曲がると正面に見える月。
ありがとう。

それにしても
自分が休みの時でよかった。
もし仕事日だったら。
私が先に家を出るので、
夫が、義母の朝食を準備し、顔を見ないで出勤する時もあった。
倒れたまま
寒い所で・・・と考えるとゾッとする。
だから頑張らねば、と思った。





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(2020/2/8)義母、大腿骨頚部骨折。

2020年02月08日 20時13分43秒 | 日常、仕事、認知症
昨日2月7日、義母、入院。
私の仕事は休みの日だった。これが不幸中の幸い。

寝室で倒れていた義母。
声を掛けて、息をしていなかったら・・・・と。
足が痙攣している。
動かない。

救急車搬送。
レントゲン。
大腿骨頚部骨折。
脚の付け根の骨折。

90歳の義母に手術が耐えられるのか、まだわからない。
こういう場面を、一人で抱え込むことのショック。
気が動転する、というのはこういうことか。

ちょっと落ち着いて書くことができない。

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