今日も夫は遅く帰宅。
身体がきつそうだ。
8時半ごろに夕食を食べ
お風呂に入り
ネットを少しして
テレビを観ながら
私が彼の足や手をマッサージしてやる。
転んだときの足の腫れがなかなか引けない。
10時半には寝た。
思い出を紐解く
学院に入院していたときには
自分が病気であることの自覚はあまりなかったと思う。
身体のどこかが痛いとか、苦しいとかの症状がなかったので
それに年齢的なこともあって
自覚症状がなかった。
治療として、薬を飲んだり、定期的に痰を検査をしていたと思うのだが
教師の顔はいろいろと覚えてはいるけれど
看護婦さんや病院の先生のことは全く覚えていない。
ただし、それは軽度の自分のことであり
重度の患者はまた別だったと思う。
個室にいた男の子とたまに話した。
漫画の本を借りたりしていたのかもしれない。
小学生は
女の子の本であろうと
男の子の本であろうと
漫画は大好きだった。
その子の部屋に行って遊んでいるうちに
ベッドの傍にあるブザーを押してごらんと言われた。
押しても押しても鳴らないので何回も押した。
だが、その音は看護婦さんが詰めているところには
きちんと届いていた。
看護婦さんが飛んできた。
そして私は怒られた。
男の子はケラケラ笑っていた。
二人でいたずらをして怒られたというより
私だけが怒られた。
男の子はあまり気にしていないようだ。
小さないたずらだ、と彼はわかっていたのかもしれない。
その子はまもなく死んだ。
そんな兆候はなかったので
あれから何ヶ月か経ってのことか。
病院にて
死というものを経験したのは後にも先にも
その子だけだった。
そういう死はいくつもあったのかもしれないが
私には「死」を悼むほどの感情がまだ不十分だった。
そして学院も、1つの死に対して
盛大な別れをすることもなく
ひっそりとしたものだった。
入院生活での
色を浮かべるとすれば
オレンジ色だった。
陶芸の時間があって(カリキュラムの1つなのかはさだかではない)
皆で作ったものを釜で焼いた。
そして色付けをするときに
私は
オレンジ色を選んだ。
その色が焼きついているんだ。
詩的に書けば
夕焼け色だ。
学院の裏山や草原の奥に広がる夕焼けの色

。
汚く書けば
どぎつい色、陶器にふさわしくない色だった。
なぜかあの陶器に色づけをしていた楽しいひとときが目に浮かぶ。
まだまだ細かい思い出が断片的にあるが
ここでひとまず止めよう。
その病院を退院したのは
翌年の春先だったと思う。
本来ならもっと入院していたはずなのだが
父が転勤となった。
函館だ。
当時の札幌と函館間は
距離は今も同じだが、時間が違った。
お見舞いに来ることも容易でない。
それゆえ
私も半ば、強制的な退院だった。
完治はしていなくても今後、函館の病院に定期的に
通院することを約束し、函館に向かうことになった。
私は泣いた。
ここを離れたくない、と泣いた。
病院での最後の写真は
退院日。
あのベレー帽をかぶった私の顔は泣いたあとで膨れていた。
ちっとも退院が嬉しい、という顔じゃない。
低学年の仲間がいっしょに写っている。
Yちゃんはパジャマのままだ。
札幌にいた期間は1年とちょっと。
丸々1年は病院生活だ。
札幌の記憶は病院そのものだ。
本来なら
養子になって
普通の小学校に入学して
両親との生活に慣れていくべきところが
両親とは離れての生活だった。
そして入院でありながら、快適だった。
周囲の人々は皆優しかった。
いやな思い出は全く記憶に残っていない。
いやなことはあったのかもしれないが
心の傷となって残っているのがないから
楽しかったのだと思う。
自然もよかった。
時間の流れ方もよかった。
私の性格に合っていたんだと思う。
これが10歳とか13歳とかの入院だったら
また別ないやな体験をしたのかもしれない。
デリケートな年齢の大部屋はつらかったろう。
実際、中学生のお姉さんの中には
小学生の私たちがうるさくて閉口していた人もいたろう。
7歳の年齢であったことがありがたい。
人を傷つけるとか、貶めるとか、嫉妬するとか、そんなものとは
無縁の子どもたちだった。
せいぜい、○が多い少ない、の揉め事だった。
30分後にはケロッとして、楽しみの夜のおやつをいっしょに
食べていたはずだ。
純白の心、と書いたのはそういう点だ。
無邪気、無辜(むこ)という言葉があてはまる時代だった。
健康体で普通の小学校に通っていたなら
どうだったろう、と思う。
自分の精神形成の時期に
見るもの、触るものが違っていたら
どんな自分になっていたろう、と思う。
7歳の同学年だけの生活とは違って
同時に高学年の人、中学生のお兄さん、お姉さんが傍に
たくさんいた。
彼らが私に与えてくれたものは
後の自分の精神の柱になっていく。
自然を愛する心や
音楽を愛する心や
文学に通じる「故郷」への思いや
それらを文字にすることのときめきや。
あの時代は夢か幻か架空かと思うほどに
違った世界だった。
それは
理由の1つに
あのあと私は一度もそこを訪れていない。
数年後、北海道から離れることになるのだが
そのあと何度も北海道に帰っていた。
仕事で札幌を訪れることも何度かあったし
プライベートでも何度も札幌に行っている。
函館の町も苫小牧もF市も
北海道に帰るたびに寄っている。
自分の住んだ家まで訪ねては懐かしがってきた。
しかし
あの病院だけは退院して以来一度も
訪れていない。
それが心残りでもあった。
いつか訪れたいと思っても
病院や周囲の環境がガラッと変わっているのを見るのも怖かった。
おそらく
死ぬまできっと訪れることはないだろうという前提で
でも
記憶を文字に残しておきたくて今回書いてみたのである。
あのころのお兄さん、お姉さんたちは
この日本の、北海道のどこかで生きていて
自分の子供や孫に恵まれて過ごしているはずだ。
まだまだ現役で働いていることだろう。
彼らは
あの時代を、あの病院を忘れずにいるだろうか。
幻でもなく、夢の世界でもなく
現実にどこかで暮らしているのだから
この感覚が不思議でしょうがないのだ。
でも私には
もう永遠に戻ることもない
あのオレンジ色に象徴される
ふんわりとした桃源郷のような世界だったのだ。
ありがとう
あのときのお兄さん、お姉さん、先生たち。
豊かな感情を育ててくれてありがとう。
私は
北海道を離れて
心の色もいろんな色に染まり
ここで暮らしています。