僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(5/29)久しぶりの職場。そして痩せた猫のこと。

2020年05月29日 16時24分30秒 | ネコ
5月半ばから有休を取っていた。
その前は義母の死去、葬儀等あったし、コロナの影響で仕事も休みであった。
5月分の給料がほぼ出ないので、これまで使っていなかった有給を利用した。
一昨日、上司から連絡があり、仕事内容が大幅に変更になったので、その様子を見にくるようにと言われた。
6月からの仕事をスムーズにするために、私もしばらく現場を離れていて不安だったので、今日行ってきた。
感想として、以前よりややこしく、細々としている、と思った。
ベテランの人たちがこちらに駆り出され、朝から黙々と仕事をしている。
それらを見て、写真を撮って、6月1日から私の再スタートである。
しかし、緊急事態宣言が解除されたとはいえ、客の出足は鈍い。
今年は七夕も中止になったし、変則的な仕事内容である。
が、これが今後の姿になっていくのかもしれない。

そういうわけで
久々に街に出た。
時刻は午前7時前。仕事の時は4時半ごろなので
朝の光景は少し違う。
道路は車でいっぱいだった。
そして職場を出たのはその1時間後。
ちょうど出勤者が駅方面からドドッと流れてくる頃。
私もその流れに乗って、西側へと歩いてみる。
解除になったとはいえ、皆マスク出勤だし、お店の張り紙を見てみると
時間短縮が多い。

朝食のパンを買って
自転車に乗り、途中の公園で食べる。
そこで見たものは・・・・

痩せた猫が数メートル先を歩いていた。
あ、この猫、見たことがある!と思った。
すぐに思い出せなかったが私の脳裏に焼き付いていた猫の姿に似ていると思った。
人がいたし、草叢の中に隠れたかもしれず、跡を追う事はできなかったが
よく、そこで餌をやっている人がいるので、その人を探していたのかもしれない。

モヤモヤとした気持ちを抱えて帰宅する。
そして数時間後、突然思い出した。
あの猫、うちに来たことがある。
何匹も来ているので、来ない事よりもその存在すら忘れていた。
夫はココアちゃん、と言い、私はモカちゃん、と勝手に言っていた猫だ。
その名前の通り(本当はちゃんとした名前があるのだろう)、模様がココア色、モカ色のような子なんだ。
もちろん、懐いていない。すぐに逃げていく。
そして、その猫、どこかの飼い猫なのである。
どこか、と言っても、うちの庭に来るたくさんの猫の飼い主を知らないが、大体の家の目星をつけている。
何匹も飼っていて、放し飼いである。
そして、もしかしたら避妊、去勢の手術もしていないかもしれない。
もし、生粋のノラ猫であれば、私が捕獲して手術をしてあげたいのだが
飼い猫である限り、勝手なことはできない。
いなくなったらそのまま、という人なのかもしれない。
どういう人なのかまったくわからないので、こちらからアプローチするのはリスクがある。
ただ、今、結構問題になっているのは事実。
うちの庭に来たこれまでの猫のことを思い直すと、そこの飼い猫かもしれない。
前にも書いたことがある。
うちに来る3匹、とかタイトルつけて。
それらの猫たちとは違う今年世代の子たち。

もう少し静観しよう。



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(2020/5/23)政府からのマスクが届いた、ありがたい。

2020年05月23日 21時14分08秒 | 日常、仕事、認知症
今日、
政府からのマスクが届きました。                                           
ありがとうございます。
この2枚、私がこれから夏に使おうと思っています。
夫には会社から先月末辺りに従業員にたくさん支給され、
また私も会社から週に1枚ずつ支給されています(が、今私は会社を休んでいるのでまだ1枚しか)。
自宅にあったマスクがいよいよあと数枚、というところに
政府からのマスクを大いに期待していたのですが、双方の会社からタイムリーにどんと受け取ったわけです。
ゆえに
この政府からのマスク、すぐに使わずに、暑くなる夏に使ってみることにします。
政府がここまでしなければならなかったのは
やはり当初の買い占めですよね。
最近
ひと箱〇〇〇円、と薬局でもない所の店頭で売っていたけれど
それは今、どうなっているのでしょうか。
未だに、生協やコンビニ、薬局等、過去の「数枚入り」のマスクを見ていない。
去年末は、どこでも買えたのに(義母の病院の薬をもらう薬局にも普通にあったのに、騒動以来ずっと、ない。)、
いつのまにか、貴重なものになっていた。
政府からのマスク、大切に使います。

これから
「野ブタ」のドラマです。


                    
                                                    
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(2020/5/18)義母の最期の言葉「バカ息子」とカエルのミイラの話。

2020年05月18日 08時18分17秒 | 日常、仕事、認知症
月曜日。
夫は仕事に出かけ、暑くなる前に私は庭の雑草取り、樹木の剪定など時間を設定して作業。
今週は気温が低い日が続く。
それをラッキーと思って、外の作業に精を出そうと思っている。
来週からまた20℃以上の日が続くし、それが当たり前になっていく。
私にとって恐怖の夏へ向かっていく。
雑草を引っ張り抜いていると
カエルのミイラが出てきた。
あ、これは・・・

3月頃、カエルが冬眠から覚めて、車通りに出た途端、轢かれて死んでいたカエルだ。
それを回収して、夜だったため、明日埋葬してやろう、と花壇の奥の方に置いておいたカエル。
すっかり忘れてそのままだった。
申し訳ない。
雑草を取り除き、穴を掘り埋めてやった。その上に石を置いてちょっとした墓だ。
何か球根を植えようと思ったが、生憎転がっている球根はなかった。先ずは目印として石を置く。
カエルの神様は、私のいい加減な扱いに怒っていたかもしれない。
でも見つけられて、思い出させてくれてありがとうございます。
我が家のカエルたちは、伸びた雑草に苦戦しています、何とか除草、頑張ります。
バラの花を切って、玄関に飾る。


15日、金曜日。
この日は
友人との約束の日。
3つ目の病院に勤めている方

病院にては1回しか会ったことがない。
多忙であるのと、私が行く時刻を約束していないので
入院した日に挨拶だけとなった。
彼女としても、もっと義母が長く入院すると思っていて、色々と話しかけてあげようと思っていた。
そして実際に
夜勤や、彼女が義母の病室担当の時に
よく話し掛けてくれたそうだ。
その中で
有りがたい話があった。

「お嫁さんのこと、トモロッシちゃん、て呼んでいるんでしょ?トモロッシちゃんは優しい?」
うん、て頷いたよ。
「息子さんはどういう人なの?」
「バカ息子。」
2人で笑った、と言う。

この「バカ息子」という義母の言葉、夫と義母のやりとりの中で実際に出てくる言葉。
これを引き出してくれたのが嬉しかった。
ちゃんと、友人の言葉を理解して、義母の頭の中で真っ先に出てきた言葉をしっかり口にしている、ということに
私は喜んだ。
一方的な話にただ相槌を打つのではなく、自分の頭で考えた言葉を発したというのが、まだまだ大丈夫だ、いつもの義母だ、と
思わせる。
夫にその話をすると、やはり笑っていた。

その翌日、義母は血圧が下がり人事不省に陥るのである。
だから、この「バカ息子」が義母のしっかりした頭で答えた最期の言葉であり、
それを、友人から引き出してもらって本当に彼女に感謝だ。
その光景が目に浮かぶのです。
私は決して優しくない。
でも義母はそれこそ「忖度」して、友人の手前、トモロッシちゃんの悪口など言えるはずがない、家庭円満、嫁姑円満を演じなきゃ、と
思ったかもしれない。
それこそ正常な頭の働きだったかもしれない。
認知症だからといって、何もかもチグハグではないのだ。
義母の最期の、演技と本音である。
「バカ息子」の響きに、息子可愛さがあったよ、と友人に言われる。

友人よ、ありがとう。








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(2020/5/16)野ブタ、始まるよ。またも牛タン弁当。

2020年05月16日 21時58分09秒 | 日常、仕事、認知症
もう少しで「野ブタ」のドラマが始まるので
少し書いておこう。

今日あたりで
ほぼ、ご焼香や送られてきたお香典の
お返しを終えた、と思う。
父の実家関係等、父から連絡が行ったところへの郵送や直接お届けに奔走。
父には
牛タン弁当を買っていく。
私たちの一番好きな「利久」のね。
今まで食べた牛タンの中で一番おいしい、と言っていた。
これまで父に買っていった牛タンは、スーパーで買っていったものなので。
私達、13日にも利久の牛タン。

その13日に
3つ目の病院の支払いに行ってきた。
自転車で行く。
風が強くて強くて
橋を渡るときに帽子(ヒモ付き)やマスクが外れ飛ばされそうになる。
病院のスタッフへの菓子折りを持って、院長への御礼の手紙を添えて
支払いに。
肩の荷の1つが降ろされた気分だ。
帰りは、来た道を帰らず
その逆から街に出ようと思った。
風、風。
マスクをしていたから、喉の乾燥を防ぐことができた。
これがなかったら、菌が喉に付着しそうだ。
自転車を押しながら歩きで街へ。
その間、通ったことのない道を歩いてみる。
人の気配のない民家、雑草、樹木の生い茂った感、蔦が塀や家の壁まで這っている。
そんな家に興味津々で眺めつつ歩く。
好きだねえ、私。
マンションやおしゃれな店など立ち並ぶ所にポツンとあるその家。
売ればかなり高くなる土地。
それが置き去りにされているなんて、ますますその家の歴史、人物に興味を抱く。
ジロジロ見ている私を、きっと通る車の人たちは不審な目で見ていたことであろう。

ようやく知っている繁華街の通りに出て
でもそこも何年ぶりに歩いたことか。
店の様相も変わったなあ、老舗のデパートも地下だけ営業していて、
まだ人々、店など自粛中である。
そして、牛タン弁当だ。
外で、仕出し弁当を売っている光景はこのごろ多い。
お昼は贅沢したい、という思いがあったので
迷わず、牛タン弁当。
売り子さんの笑顔がいい。
焼きたてを頼んだ。
待ち時間中に、もう少し近辺を探索したいので
10分後に来る、と言って、探索。
私の職場とは違う繁華街なので、また当分ここを歩くことはないだろう、少しでも
久々の雰囲気を味わっておこう、と自転車を引きながら眺め歩く。
牛タン弁当を受け取ったら、
あとはまっしぐら家路へ。

病院を出てから40分くらい歩いて、あとは自転車で帰宅するコース。
風の強ささえなければ
橋、川の風景、未知の街の風景、そして見慣れた牛タン弁当、最高の散歩コースになった。
一仕事を終えた後のお弁当のおいしさを堪能してあとはのんびりと過ごそう。
そんな矢先にまた夫が仕事の途中に家に寄る。
先の、年金事務所への電話を夫がしてくれた。
予約電話がなかなか繋がらない。
漸く繋がって、音声テープに答えたあとに肉声でやりとりする。
あー、この音声、私の苦手なもの。
聞き取れないと、もう一度言ってください、とはできない。
夫がやってくれて正解だった。
次いで、義母の電話の解約についても夫が電話してくれた。
これで2つ解決。
牛タン弁当(夫の分も買ってきた)は夜ごはんとして食べるとのこと。

まもなくドラマが始まるので
ここで中断しよう。

「野ブタ」、そろそろ、私の、彰へのキュンとなった場面あたり放送かも。
リアルタイムで観てみよう。


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(2020/5/12)その後のこと。人との繋がり、悪くない。

2020年05月12日 13時59分09秒 | 日常、仕事、認知症
義母の死から10日過ぎた。
今日は週明け2日目の火曜日。
先週の連休明けのweek dayには気になった手続きなどをし始めたが
本格的なものは今週昨日から。
夫と手分けして動いている。
夫も仕事をしながらの行動。
私は、市役所や区役所、銀行、振り込み、送りものなど街中心に。
市役所なんて、記憶にないほどに行ったことがなかった。
でも、皆さん概ね親切に回答してくれた。
だから、今のところ、それらに行くことは苦になっていない。
ただ1つ、年金事務所については、?のマーク。
直接行っても、「予約してください。」の一点張り。
気を取り直して
いったん家に帰り、朝食兼昼食のパン。
午後2時過ぎには
義母のお世話になった個人病院に、亡くなったことを報告しに行こうと思う。
骨折で入院した、とまでは伝えておいたが(最近薬を取りに来ないので、どうしたか、と思っていたようだ。)
あれから転院した、などはまだ伝えていない。

父は先週土曜日に弔問に。
このことも大変気になっていたので、これを終えて
一仕事した、という安心感。
こんなに身内のことで気を遣うのもヘンな話だが、これまでの父と私のことをずっと追っていた方なら
気持ちはわかってくれるかと思う。
父が私達の家に訪問したのは
震災のあの時以来。
あの時は夜の8時9時だったと思うが、外で近所中に響き渡る声で
「自宅の鍵がない!なんで持っていったんだ!」と喚き散らしていた。
震災当日、地元にいなかった父にとって、あの地震がどんなにひどかったかという実感がなく
関東の小田原から帰仙し、しかも友人を連れて、あの家具や食器棚の器など散乱した所に泊めようとしていた。
家の中に入っていなかったからあの惨状をまだ見ていなかったのだ。
私たちは地震のあと、1人残っていた母(当時まだ生きていた)を迎えに行ったのだ。
その時に初めて、父が不在とわかり、母は近所の方に助けられてそこでお世話になっていた。
自分の友人第一、北海道に帰る友人をうちに泊めて世話をしよう、なんて考えていつものように
ホイホイ「大変だから、うちに泊まっていけや。」なんて、言ったんだと思う。
震源地が宮城県沖じゃないですか、津波がすぐそこまで来たじゃないですか、
そんなことも考えずに、全市停電、ガスもストップの所に泊めようとした父。
私もさすがにあきれて、「あそこに泊めるの?何もかも倒れて、寝床確保できないよ。
散乱したガラスなど多少片付けてきたけれど、それでも歩くの、危険だよ。とにかく、一回見て、
酷かったらその友人もうちに連れてきて泊まってください。」と
父が納得するまで、静観することにした。
もちろん、あきれている声で言った。
母は、父がそのように突撃してきたことに立腹して、父の顔を見ることなく布団に入っていた。
父に鍵を渡し、危険だから、これ使って、と懐中電灯を渡した。
そのやりとりを隣の奥さんは聞いていた。喚き散らしていたのを聞きつけて隣の奥さんは出てきて
「皆さん、奥で寝ているはずだから聞こえないかも。」と父に言ってくれたのだ。
こりゃ、路地で有名になっているね。
次の日の朝、実家に行くと、まるで別人のように、小さくなっていた父だった。
惨状を見て、ようやく納得したのであろう。
友人があのあとどうしたのか、私は聞きもしなかった。
友人もとんだところに来た、果たして北海道に帰れるだろうか、と不安だったにちがいない。
父曰く、「掃除、片づけ、手伝いに来たんじゃないの?」と私達に言う。
「いや、うちも片付けなくてはならないし、ガソリンももったいないので(ガソリンも並んだなあ)、しばらく来ないから。」
と私は冷たかった。


隣の奥さんに、強烈な印象を植え付けた父。
義母の火葬に、父を連れていくかどうかを考えたときに、「父に言うタイミングがね・・・」と
私が言うと、隣の奥さんはすぐわかってくれた。

その父、9年ぶりにうちに。
うちでご飯を食べ、母の葬儀の時の話など
終始和やかな空気。
相も変わらず、お金の話。それはそれで今回は役立った。

その日の夜の弔問に
路地の方が1人やってきた。
その方、夫と同世代。
小さい時、よく遊んだ仲だったらしい。
まさに地元人間組。
私の小さい時の話は、札幌時代とか函館時代とか苫小牧時代とか
幾つかに分かれるし、既に過去の「思い出」の範疇なのだが
彼らはこの路地を遊び場として
あれをやった、これをやったとか、路地はまだ舗装されていず、でこぼこだったとか
傍で聞いていて私の胸をときめかすものだった。
それが今では、二人ともジジイとなり、路地で会えば、ただ会釈するだけの仲になっていた。
子供時代の無邪気さって、いつ変貌するのだろう。

なんと、ジュリーのファンだった。
私はサリー、なんて話が盛り上がる。
ただのファンじゃないということがわかった。
これは、私の友人のジュリーファンに対抗できそうな。
「タイガースが好きだなんて、全盛の時に、女子だけキャーキャー言ってて、男子はそれを白い目で見ていたけれど。」
「男子でも、隠れタイガースファンがいたんですよ。」
夫、「オレは、テンプターズだった。」
そして
音楽の話になり、夫のコレクションを見てもらった。
だから、気軽に遊びに来てくださいよ、と言って
お別れした。
この日も
父の訪問、路地の方の訪問、心をホッとさせるものだった。
2日後、路地の方がこれまで執筆、雑誌等に掲載されたものをコピーして持ってきてくれた(私がそれを切望していたので)。
ワクワク。

夫、人との繋がりって、会話って
悪くないでしょ、いつも、オレはオレ、の人だから。
音楽さえあれば、何もいらない人だから。

さて、これから
近くの病院に挨拶報告に行ってくる。








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(2020/5/6)義母の死、そのメモ。

2020年05月06日 19時32分54秒 | 日常、仕事、認知症
明日から夫、仕事開始である。
4月29日からずっと休みで、その間に起きたことをこの正規の休みの間に
解決できて
休み明けの明日、普通に職場に戻る。

29日。
私の実家に。義母と夫の手術の見舞金のお返しを持って
正月以来の訪問。夫は正月は寝込んでいたので数カ月ぶりの訪問である。
父に頼まれて、庭木の剪定などをしていた夫。

30日。
夫、眼の手術。2回目。私はその付き添い。
眼科に出かける前に、義母の病院から電話がある。芳しくないとのこと。


5月1日。
眼科にて、手術後の眼帯を取り、保護眼鏡を掛けて帰宅。その後、義母の病院へ。
酸素マスクをしていた義母。前日の熱は下がっていたが、もう、意識は混濁していた。
ちょうど、私の母が自力呼吸できなくなって酸素マスクを装着した姿を思い出す。

2日。土曜日。
午前中に、義母の病院へ。眼はうっすらと開けていたが、問いかけには反応なし。
これが、生きている義母との最期の対面となった。
まだ、大丈夫かもしれない、否、時間の問題だ、と、心の中。
その日、仙台は暑い暑い、31℃の真夏日。
帰宅して、隣の家に訪問し、これまでの経過を話し、いよいよかもしれないと告げる。

午後、3時近く、横になっていた夫の携帯に電話。
2時33分に亡くなった、と知らせ。
葬儀社を決めて、私たちは4時頃病院に到着。
医師と看護師の説明。
葬儀社の車が到着し、院長、看護師の皆さんに見送られる。
この光景は、感激、感謝だった。
私の母の時とは全く違っていた。
自宅にて、葬儀社の方との打ち合わせ。
夜、納棺師の方々がいらして、綺麗に整い棺に納められ、美しい義母が甦った。
隣の奥さんが、私たちが食事の準備などできないであろう、とおにぎりなど食事を持ってきてくれた。
ありがたい。

3日。
義母の居間の清掃、簡易な焼香台を準備したりと
2人だけで汗だくになって仕上げていく。
前日選んでおいた写真が葬儀用に拡大されて届く。
うちの庭に咲いた白い牡丹を切り、飾る。義母が好きだった花がちょうど咲いてくれ
牡丹にも感謝だ。
隣の奥さん夫婦が喪服で、お花を持って焼香に来訪。
近所の方々にどのように知らせればいいか、と問われ、
こういう時期なので、本当に簡素にしたい、告別式などを省略したい、集まることを避けたい、
出棺の時に合掌していただけたら、と伝える。
その時点で私はまだ自分の父に伝えていない、タイミングがある、と言った。
そう、父に知らせると
父は自分の実家の親戚にバーッと連絡し、自分が取り仕切ってあれこれと指示する人である。
実際に、夫の父親が亡くなったときがそうだった。
ほとんど無縁な方も呼び出される始末だ。
だから、そうならないように、以前から、義母の葬儀は簡略化、全部私達2人でやる、と宣言しておいた。
特にこの時期、皆、緊急事態宣言が出ていて、外出自粛している時にそれをやられたら
別な問題が発生してしまうので、父に知らせるのはタイミングを見計らってのこと。
夜、向かいの奥さんに、伝えに行った。
棺の中の義母を見ていただいた。
やはり、急の出棺合掌では失礼な気がしたので。
隣や向かいの奥さんには、それこそ、私がここに嫁ぐ前からお世話になっていたから。

4日。
火葬の日。
朝、9時半出発予定。
喪服に着替え、予定よりも早めに出棺。
路地のご近所の方々が一斉に並ぶ。
義母が入院していたことは公には知らない。しかし、皆、それとなく知っている。
夫、私が挨拶をして車に乗る。
路地を出る前に、誰か喪服を着て慌てて自転車に乗ってくる人がいた。
会話をしたことのない方だ。しかし、生前、義母と挨拶を交わしていた人。
知らせを受けて飛んできたのだ。
こういうこともありがたい。

10時半火葬。
親族待機部屋に、私達夫婦2人。
まさに考えていた通りのことを実行できた。
3年前の、私の母の時とは全く違う。
大勢の親類(特に父の実家関係。母の実家、北海道の親類は3人のみ)が待機時間に、食べる、飲む、しゃべる。
その空気とは違う、静けさ。
耳の聞こえない私をフォローしてくれる夫。
火葬場という厳粛な空気の中、従業員の声は低く、ましてや皆、マスクをしているので、私の耳は役立たない。最悪。
大きな窓の外の眺めは、新緑の山の風景。
濃い緑ではなく、若芽の淡い緑が埋め尽くす山。
「私はこういう眺めのところで生活したいのよね。」
人生の中で、叶えたい夢の1つだったが、ダメそうだ。
いや、まだわからない。

骨を拾う。
2月に大腿骨骨折の手術の痕の金属棒がしっかりあった。
お義母さん、頑張った証だ。

お骨を抱え、帰宅する。
お昼ごろだった。

父にはメールを。
火葬まで。
「了解」と返信あり。

5日。
昨日。この怒涛の日々の中で、私の心が落ち着いた日が昨日だった。
朝、夫に
義母の兄弟、親戚にどう連絡するのか、特に親しくしていた東京の、夫の従姉に連絡しなくてはいいのか、と尋ねる。
前日から渋っていた。
私が連絡するのはやぶさかではないが、やはり、けじめとして、夫がすべきだと言った。
じゃ、私がまず電話するから、その後はあなたが話すのよ、と言って
私の携帯から、東京に電話をした。
この方、義母の親類として、唯一、年賀状を交わしたり、中元歳暮のやりとりをしていた。
電話をして、夫と話が弾み、40分ほど話していた。
結局、義母の姉妹の1人については、こちら同様、全く連絡を取っていない、どこにいるのかもわからないとのことだった。
義母の姉妹のうち、よく生前、美人三姉妹と言われた2人の妹と3人でよくつるんでいた。
私もよく知っていた。
1人は数年前に亡くなり、焼香にも行った。
1人は末妹で、もう10年単位で音信普通。あんなに仲の良かったのに、何かがこじれて、それ以来、音信は途絶えた。
せめて、その方に連絡を取れたら、と思ったのだが、娘さんの夫の転勤先に行ったのかもしれない、という同じ情報しか得られなかった。
夫が話し終わったあとに
私に替わってお話。
夫の従姉とは言っても、かなり年上である。
しかし、年を取っても、バレーボールのチームで活躍している、仕事は息子夫婦に任せて(会社経営)、自分は事務を担当している、
などなど、精力的に生活していることを聞いて、俄然元気が出てきた私である。
この方、夫を早くに亡くし、長男を不慮の事故で亡くしている。
その時の胸の内を思うと、言葉がない。
それらを乗り越えて、強く生きている、と思うと、私はまだまだ人生の序の口に居るというのを痛感する。
次男は学生時代、友人と共に、試合を仙台でやるのでうちに泊めたことがある。
更にその下の弟も、あんなにちっこかったのが今じゃ、幾つだ、オヤジになっているそうだ。
私達も、若いときに東京に遊びに行ったときに泊まってお世話になった。
2回ほど、行ったことがある。

そんな会話を終えて
夫と思い出話になった。
義母の兄弟の末弟のことになった。
私は会ったことがない。
優秀な学校を出て、そのあと放浪の旅?
何年も前に、東京で亡くなって、身寄りがなく、お骨になって、役所(?)の方が新幹線で仙台の親類に運ばれたとのこと。
それを義母から聞いていた。

そして
夫から初めて聞く話をされる。
「モテたんだよなあ。子供が居たんだ(夫の従弟にあたる)。小さい時にうちに来たことがある(夫も小さかったころ)。
りー坊、りー坊って言っていた。」
「あ、お墓参りにも来ていたらしいぞ。いつだったか、(義母の実家のお墓)参りしたときに、おふくろ、リー坊が墓参りに来た跡がある、と
言っていた。」
お花に名前でも記入されていたのかもしれない。
自分の父親がこの墓に入っているかもしれない、と思って訪れたのかもしれない、と。
私はその話を聞いて
「夫、お墓参りに行こう!」と急に思って言った。
今では置き去りにされている義母の実家のお墓。
ここは、夫の父親の墓のすぐ傍の区画にあるので、義父の墓参りの時に、必ず義母の為に、立ち寄って掃除をして焼香する所である。
私が嫁いできたころは、お盆やお彼岸の時は、誰か彼か、墓参りした痕跡を残してきたが、今では誰も立ち寄らない。
私たちが通えるまで通うことに決めていた。
そして最近、私達自身が墓参りをしていなかった。

ほうきやお供え物などを持って
途中お花を買って、久しぶりにお墓に行った。
いや、前日に火葬しているから、同じ場所だった。
綺麗に掃除をして、ペットボトルの水を掛けて、気持ちをすっきりさせた。
そして義父の墓にも同じように。
ここにいずれ、義母のお骨も入る。

納骨までまだ時間があるので、こうしてお墓に来たことが気分を替えてくれた。
お墓は拠り所、と私の持論じゃない。
が、やはり気持ちがすっきりした。

帰り、老舗のケーキ屋のケーキを隣の家の分も買ってくる。
近所の方々が、チラホラと焼香に来訪。

夜、静けさ。
夫は久しぶりにオーディオルームに閉じこもって音楽を聴いていた。
私は
ここ数カ月、毎日、「明日の予定はこれとこれ。忘れないように。」と自分に言い聞かせ、自転車やタクシーで
あちこちに出かけていた。何かに追われるようにして。
夜中に目が覚めれば、メモをして、あと数時間まだ寝られる、いや、また眠ったら、定刻に起きられないかもしれないからずっと起きていよう、
などと毎日心の中で、自分の失態と戦っていた。
そして昨日の夜、
本当に静かだと思った、自分の心が。
明日のことを考えなくてよい、それだけで安楽だと思った。
その静けさの中でブログを書こうか、と思ったが、それも止めた。

今日はこうして
明日から始まる夫の仕事
役所関係3件の私の役割を、明日の目標に入れている。
自分の仕事のことも明日明後日に、連絡しなければ。

長文失礼しました。
これは自分用のメモでもあります。
流れを把握しておかないと。







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(2020/5/4)義母の火葬

2020年05月04日 12時57分21秒 | 日常、仕事、認知症
今日
義母の火葬だった。
近所の方々に見送られ
息子夫婦だけでお骨を拾われ
義母の好きだったぬいぐるみとともに
旅立った。

のちほど報告を。
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