僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(6/19)義母の話、職場での若い子との話。

2015年06月19日 11時05分50秒 | 日常、仕事、認知症
今日は休み。
どんよりした天候であるが
洗濯物を外に干した。
風があるので少しでも水気をとってほしくて。

朝から義母の妄想炸裂である。
朝の食事の準備をしていると
テーブルについて新聞を読んでいた夫に
なにやら言っている。
「あの女にここまでやられて黙って見ているのか!」
「あんたたちが黙っているなら、私にも考えがある!」
「夜中に二階で騒いでしゃべって、いいようにさせている!」などなど・・・・
ずっと1人で夫に向かって不平不満をぶつけていた。
昨日辺りからまたその傾向が出てきたので
今日の私の休みはどうなるだろうと若干憂鬱であった。
昨日、夫はいつもより早く帰宅した。
今日はどのテレビ番組を観ようか、などと話していると
階段の入り口のドアが開いた音、閉めた音が何回も聞こえた。
つまり
義母が、二階で何を話しているのか気になって気になって、開け閉めして
二階の会話を聞いているのである。
そのうち、二階にいた猫たちが一階の廊下に出ていったのに私は気づいて
下に行き
食堂にいた義母に
「なんで、ドアが開いているの?」と尋ねた。
「開けていないよ!ドアが緩んでいるんでしょ!」
と自分の行為を否定。
ま、それ以上追及しなかった。
そんなことがあったので
今日はどうなるのか、と思っていたが
案の定、早朝から一方的な文句。
夜中に二階で誰か騒いでいるらしい。
私たちは早く寝るので、猫たちも寝ているので
二階の物音はしないのだが
義母にとっては、若い女たちが騒いで聴こえるのだという。
それを
「いるわけない」と幾ら夫が否定しても
「いる!」
「いない」
「いる!」の繰り返し。
このやりとりのときは
私は口を出さないようにしている。
口を出したいけれど
夫と私で2対1になるような態勢をとるとますます義母が興奮するので
夫が対応しているときは私はスルーしている。
その逆も然り。

今日はジキルの日か。
どっちがジキルでどっちがハイドか私もわかっていないが。




正直な話。
こういうときの義母は私にとって遠いのである。
遠い。
この姿を見て、哀れ、という感情が湧かない。
こんな姿を見て
可哀相、と思うかもしれない人もいるだろう。
妄想の内容自体、ありえないことだから
認知症の一部と見るだろう。
そうも思うが
人格の大変化と見るか
元々持っていた人格の延長、それの極端化と見るか。
私は後者である。
義母は社交的である。
夫も私もどちらかというと社交的ではない。
誰ともそつがない状態で話せるかというとそうじゃない。
一見無愛想に見えるのが夫も私もそう。
近所の人と話すのもどちらかと言えば苦手なので最低限の付き合いである。
しかし義母はそうじゃない。
いつも話題の中心にいそうな性格である。
だから
近所の人からは
息子想いの良き母、というイメージだろう。
誰よりも息子のことを心配している、というイメージの植え付け。

しかし。
同居した頃の義母。
「路地でとにかく人に会ったら、挨拶すること。」と言われて実行していた私だが
どうも義母は
気に入らない人に対しては強気の姿。
私と義母が路地で歩いて、義母の気に入らない人とすれ違ったとき
私は挨拶をし、相手も挨拶をし、しかし義母は憮然とした表情で挨拶なし。
私は、あれ?と思った。
その人について
「あんなに昔、面倒を見てやったのに、さっぱりこのごろは寄り付かない。」などと
一度否定されたら、何十年も否定し続ける人である。

うちの西隣は昔大きな屋敷であった。
そこを売って、マンション建設になったのだが、古くからの住宅地であった近隣に
マンションが建つことに路地全面で反対し、よく集会の場を設けた。
そのマンションの持ち主は女性で
義母は今も目の敵にして、名前を呼び捨てである。
日照問題や騒音のことを心配したが
それは今は全く問題がない。
マンションの住人とのトラブルは一切ない。
うちとの境の塀も特別立派なものにしてくれたし、近隣の個々の要望にあれこれと答えてくれていた。
そして今、よく義母の口から出る「若い女、男」というのは
隣のマンションの住人を指している。
そもそも、義母の妄想の発端が、この「マンションの住人がうちを覗いている」から
始まった。
私は当初それを信じて、塀の上の手跡とか足跡とかを検証しに行った。この塀をよじ登るには脚立などを利用しないとできない高さである。
それらについてはブログに書いた。
全く騒音もなく、平穏に暮らしているにも拘らず、義母はマンションに突撃し、文句を言いに行ったこともある。
(しかし、オートロックなので、中に入れないので、誰も突撃したことは知らない。)
平穏に暮らしているマンション住人にすれば、言いがかりである。
交番にも行って抗議している。

交番(二箇所)には私もその後行き、義母の事情を話し、今後も来る可能性があるので
様子を見ておくと言われた。

とにかく、一度自分の気に入らない相手になったら、とことん許さないタイプである。
うちの向かいのホテルにもよく抗議の電話をしていた。
「お宅のホテルの食事の作った臭い(におい)がこっちまでやってくる。」と。
これは正常なときの話。
このホテルが建つときも、義父が日照の角度とかを計算して、削らせたらしい。
だから、数十年前から、義母にとってこのホテルも敵である。
最近は専ら隣のマンションが攻撃対象である。

これは、頑固だなあ、これは偏執的だなあ、と若い頃の私は思ったものである。
その頑固さが今になって
こんな形で顕在化してきている。
大変化ではない、もともと潜在していたものが、家の中で大いに開放されているのである。





今日の朝の挑発的な態度は
きっと、何かまた隠して、それがどこにあるのかわからず、盗まれたものを返してこないとイライラしているのだろう。
積極的に
何を盗まれたか(どこに隠したか)を聞く気になれない私である。




家庭でこんな状態、職場でも上司のパワハラ的な応対に憤慨している自分。

数日前
職場に蛾が入ってきた。
これは私の出番、と思って布キレを持って蛾を捕まえようとした。
若い女の子が
「キャー、私、虫、ダメなんですよ。」
私は、若い人たちは絶対、虫だめだろうなあと思ったら案の定。
「こうやってね、布で気絶させるのよ。クラクラアっとなったときに捕まえて
外に逃がしてやるのよ。」
「エ~、トモロッシさんて、優しいんですね。虫も殺さないで逃がすなんて。」
「虫にもカエルにも優しい私だが、姑にはねえ~」と返す。
ゲラゲラと笑ってくれる。
カエルの話から鳩の話になった。
何しろ、職場から
鳩のPちゃんが産まれた元の巣の場所が見えるので、それを眺めながら、(当時は深刻な気持ちでいながらも)面白おかしくあの当時の捕獲の話をしたら、更に笑って「トモロッシさんて、笑いの引き出し多い~」と受けていた。
この子、いつも私の話に笑ってくれるのでついつい、私も調子に乗る。
あるとき、
トイレの後に遠くに、白髪の男性が見えた。「社長に似ているなあ。」と思いつつ近づくと社長だった。
そのあとに、食事をしていた女の子たちに
「今、社長に久しぶりに会ったけれど、老けちゃったねえ。」と言った。
「そうですよねえ、最近。」と同調の笑み。
「最初、似ているなあ、でもあんなに老けていないようなあ、と思って見たら、社長だった。私と同じ年なのに。」とさりげなく言ったら、その反応が凄かった。
「マジすかっ!マジ!?マジ!?」と驚き、笑う。
社長と私の年齢が同じ、というのが信じられなかったらしく、マジ?の声が凄かった。
それだけでも、笑いの引き出しが開いたらしい。

職場では全然笑いの場がない。
かつて勤めていた職場は複雑な仕事、人間関係だったけれど
今思い起こすのは
笑いの場面ばかり。ゲラゲラ笑っていることが多かった。
それに比べて、今の職場は、時間が過ぎればすぐに退勤、そもそもいっしょに働く人達とは笑って話すことはない。
それだけ余裕がない。
違う部署のその若い子はコロッコロ笑う。
笑ったあとは楽しい気分で帰宅できる。
そうだ、笑うことが少なくなってきたんだ。
腹の底から笑いたい。
たまに思い出すんだ。
元の職場の人と、若いとき、彼女が悩んでいたときに慰めるために
栗拾いに誘ったことを二人で思い出して「なぜ、栗拾いだったんだろう?」って
笑いが止まらなかったことを。私の夫が提案して、3人で栗拾いに行き、
栗林で黙々と拾ったことを。
おお、そうだ。
彼女ともずっと会っていない。お手紙でも書きましょう。おいしいものを食べに行こう。










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(6/17)父、母、義母、老人三者三様

2015年06月17日 15時35分32秒 | 日常、仕事、認知症
一週間以上、書いていないね。
土日続けて休みだったのだが、自分のための休みではないなあ。
土曜日は1人で、実家に出かけた。
本当は
義母のことを相談しようと思ったけれど
深く話さないままに
時を過ごした。
両親の結婚記念日だったので、どこかで食事を、ということで
ごちそうするところを、ごちそうされた。
昼食後、実家に戻ってから
両親の夕飯の支度を。
私が夕飯の支度をするたびに
母は
「あなたもいつのまにか料理をするようになったのねえ。遊び人だったあなたが・・・」
と言う。
「いや、学生時代はお金がなかったから、遊んでいないでしょ。」と答えたが。
この会話は
いつも私が何か作るたびに出てくる。
主婦歴、何年だと思っているのでしょうね、母。
震災の時に母をこちらの家に避難させて
ガスのないところで
外で七輪で煮炊きをして食べさせたときも同じようなことを言っていた。
まるで、初めて私が料理をしたように。
こんなふうに、若いときの私のイメージしか抱いていないようで。
父も毎日三食の料理を作ることにお疲れ気味。
母は、もう料理ができないけれど
もともとの綺麗好きの性格は脳梗塞後でも変わっていなくて
一生懸命、台所をピカピカに磨いていた。
その影響で、私も帰宅後に台所の掃除をする。
こういう刺激はいいね。

義母は相変わらず
何かを隠すために必死である。

先日はお風呂の呼びかけのあと、大体2分ぐらいで部屋から出てくるのだが
なかなか出てこないので、何をしているのかと部屋を覗くと
テレビのリモコンをどこに隠そうかと、タオルに包んだリモコンを持ってウロウロしていた場面に出くわした。。
「テーブルの上に堂々と置いておくのがいいよ。却って盗まれないよ。」と言う私。

そして
ある日
「ずっと前に盗まれた財布を戻されていたの。」と
数ヶ月前に失くした財布を見せてくれた。
あの時、鍵もいっしょに失くして(隠して)いたのだが
それもいっしょに見つかった。
どうやら、廊下の(この廊下、ネコが義母の所に行けないように、途中で物を積み重ねてブロックしている)自分の野菜庫の奥に入れていたらしい。
どうして野菜庫だとわかったのか、聞いてみると
「化粧品をどこかに隠そうと、そこにしようと思って開けてみたら、財布が戻っていた。」と言う。
あくまでも、盗まれたものが戻されていた、という彼女の解釈。
そういえば
昨日の夜も
お風呂どうぞ、と伝えに行くと
コタツテーブルの上にメモが。
「盗んだ化粧品を戻してください」と見えぬドロボーに書いてあった。
もう、私はそれに慣れっこになっていて
自分の時間のあるときにしか探さないことにしている。

何かが見つかれば、翌日には何かをどこかに隠している。
その繰り返しの日々。
テレビのリモコンはいやだなあ。
これはすぐに見つけてやらなければならないものでしょ。
隠すとき
タオルとかに包むので、探すとき厄介。
タオルや服だらけです、義母の部屋。
財布もパンストに入った状態で見つかった。
パンストに入れるのは、日ごろ、それを腰に巻きつけて管理しているので。

父の兄弟は
姉2人が健在である。
84歳(今年)の父の姉だから、1人は88歳(社交ダンスを習っている)、1人は
90歳過ぎ。
その90歳過ぎの姉は、いまだに、針仕事を引き受けている。
昔から着物を縫ったりして、趣味と実益を兼ねた生き方をしている。
頭もしっかりしているそうだ。

「そうかあ、やっぱり手先を使うことは頭もクリアなんだね。」と私の感想。
もう1人の姉は、2、3年前の両親の手術のときに、田舎から出てきてくれた。
あのときも、あまりに若々しく背筋が伸びていて、年齢を聞き、更に社交ダンスを習っていると聞いて、驚いたっけ。

どうしても義母と比較してしまう私。
夫にその姉たちのことを伝える。
「やっぱり、趣味があるといいね。お義母さんは無趣味だから余計なことばかりを考えている。」
「前(私たちが結婚する前)に、将来ボケないように、何か趣味を持て、と言ったんだ。
人形を作ることをしたけれど、2,3体作って終わりだったなあ。」と夫。

1つだけ、忘れていないのは、料理である。
自分の食べる料理の味付けもきちんとしている。トンチンカンなものを作っているとか
味付けがでたらめ、とか一切ない。
これはこれで
ずっと食事を、別々にしてきた効果。
醤油や唐辛子を買い物に行くたびに買ってくることはあるが、味付けは昔から変わっていない。時々、彼女のために料理を作ってやるが、基本的にまだ火の扱い、食事の準備はできるので、その辺は様子見である。


実家の母は
最近、父の若い頃の失態をよく口にして
父を責める。
その言い方は、非常にきつくて、正常だった母の名残である。
母はもともときつい性格だ。厳しい、と書けば聞こえはいいが
私にとっては、虐待に近いことを受けたことが何回もある。
父は父で
若いときは自分本位の生活で、よく母を苦労させてきた。
両親は見合い。
結婚したのはいいが、父は給料をうちに入れずにギャンブルに使っていたそうだ。
母は
その実態を手紙に書き、父の実家に送っていた。
北海道に住んでいた両親、父の実家は宮城県。
実家では長男(父は次男)が家長として仕切り、
母に何とか我慢していっしょに暮らしてくれと懇願の返事が来たそうだ。
母側からの親類として病気の私を養子縁組をして3人家族になったが
母は
自分が子供が産めなくなったこと(結婚後すぐに子宮の病気)と
自分の姉の子供(しかも結核という病気の)の私を養子にしたことの負い目から
離婚しないで我慢に我慢をして父についてきた、と言う。
それらの事情は当時のときから私は知っている。
その後、脱サラして
父の故郷の宮城県にやってきてその後も母は波乱万丈。
それらの恨みは
脳梗塞後でも忘れていない。
私が実家に行くたびに
その恨みを口にする母。

「そんなこと言ったって、昔のことだもの、しょうがないでしょ。
人生やり直しってきかないでしょ。良いときもあれば、悪いときもある。
済んだことはしょうがない。」と私は言う。
だから聞いてやるしかない。

父は思い通りの人生だったから、ストレスがない、と言えば
母はストレスありまくりだ、とその恨みを言う。

老人三者三様である。



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(6/9)昭和の名曲を 太陽の翼 ザ スパイダース

2015年06月09日 16時56分21秒 | 名曲
太陽の翼 by 動画編集 Bossa Lary


先日
NHKのアーカイブスを観ていたら
昭和50年代の「歌のグランド(ヒット?)ショー」をやっていた。
五木ひろしが演歌というよりも
ノリノリのロック調のオリジナルを歌っていた。

昭和の歌の最盛期を体現していない半田健人君(この人は昭和オタク)がゲストとして
コメントをしていた。
彼のような人がいるのは嬉しい。

その当時の録画の中で
マチャアキも出演。
それで
彼関連の名曲を考えていたら
どうしても
スパイダースになってしまう。
ブルコメとともに大御所的存在のスパイダース。

よく
夫と
グループサウンズのCDを引っ張り出して聴いたりするが
スパイダースの名曲、多々あり。

これは今でも口ずさめる曲。
当時は私、小学生だった。
その小学生が何十年経っても口ずさめるなんて
名曲の中の名曲じゃないですか。

航空会社とのタイアップだったのではないでしょうか。
その辺はうろ覚え。
歌詞が明るくて、未来的希望的な内容。
音も取り易い。
ファズが効いて、当時の先取りのような音作り。
忘れてしまった名曲をこうして聴くことができて嬉しい。
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(6/5)上戸彩を知っている義母

2015年06月05日 17時22分29秒 | 日常、仕事、認知症
いろいろと覚えているのに
なぜ
財布を隠した場所だけ、忘れるのか。
それが私の初めからの疑問。
なぜ、それだけ、といつも思う。
そこに財布を置いたが
置いたつもりが、気が付いたときには無くなっていたので
きっと
あのオトコたちがまた持っていったに違いない。

これが彼女義母の言い分である。
何回もこの繰り返し。
そして今回もそう。
今日は私が休みだったので
朝からその財布探しをした。
彼女は端から盗まれたと思っているので動かない。

2,3日前に無くなったそうだ。

その一週間前にも無くしている。
サンルームの外側の網戸に
ダンボールにまた文句を書いて貼ってあった。
「ドロボー!財布を返せ!」とか何とか。
そのときは私も探したが見つけ出せなかった。
そして
翌日の朝、それを持って
「ベッドの足元に返してあった。」と自ら見つけ出した。
一件落着であったが
すぐにこうしてまたどこかに隠して
それを忘れる。

今日は私がすんなり
探し当てられた。
ベッドの足元の服入れの中を開けたら
あった。

「トモロッシちゃん、すぐに見つけたね。」と
さも
私が隠し場所を知っていたかのような言い方。
まあ、腹は立てない。

今日は彼女のための用事をするために
休み返上の
お出かけである。

顔のシミが気になるので
それをカバーするファンデーションを買ってきてほしい、
ホラ、女の人のコマーシャルでやっているやつ。
そう言われたって
全然わからない。
わからなかったら、これまでのファンデーションを、とのこと。

そして帰宅して
「上戸彩のポスター貼ってあったけれど、それ?
上戸彩ってわかる?」
「そう、それ。妊娠した人でしょ。」

上戸彩の妊娠までわかっていて
なんで
自分の財布の隠し場所は頑固にわからないのか。
不思議でならない。


シミを気にするようだから
お義母さんもまだまだ若いね、と言ったら
喜んでいた。

そして
病院の話をした。

お義母さんは頭はおかしくないけれど(これが肝心)
段々、忘れることが多くなったし
商品券の使い方もわからなくなってきたし(これも話題に出た。商品券を手にして昔はこういうのを貰ったらすぐに服を買いに行ったのよ。でも今はどうやって使うのかわからないと言う)
掛かりつけの先生より、専門の先生に診てもらって
より快適に暮らそう、と言った。
割と前向きに考えてくれそうな感触を受けた。

夫には
義母は自分がどれほど大事にされていないかを愚痴るそうだ。
「私が買い物カートを引いて歩いているのを世間の人は何て思うか。
年寄りが可哀相だ、嫁は買い物にも行かないのかと思っているはずだ。」などなど。

私も夫も
身体が動く限り
頭も働く限り
動いてほしい、というのが基本の考え。

「お義母さん、私の実家の母は、キャベツがどれか、煎茶がどれか、区別がつかないんだよ。だからあんなに饒舌でも、自分で買い物に行けないんだよ。
お義母さんは頭が働くし、こうして美容にも気を使っているし、歩けることは幸せだと
思わなければ。」

そりゃあ、嫁が買ってくれば、楽に決まっている。
しかし
それは嫁がいる、という前提。

よく行くスーパーで
たまに見かける元の職場の女性。
数学を教えていた人だ。
この方は、義母と同じ年齢だ。
ずっと独身だ。
久々に姿を見て
ギョッとした。
腰が曲がって、着ているオーバーをバサーバサーと翻して歩いていた。
声をかけようかと思ったがやめた。
でも元気そうだ。
独りで暮らしているのだろう。
あの、いつもステキなパンタロン(古いコトバ)を穿いて
髪もオールバックにして
知的な眼鏡をかけていた彼女。
自分も年をとったが
彼女も老婆の様相である。
その彼女と同じ年齢の義母は
甘え、と見てしまう自分である。

こうして書いているときにも
義母は二階に上がってきた。
私が買って来た「かつおさし」を半分食べて、と言ってきた。
そしてエプロンのポケットには
さっき買って来たファンデーションが入っていた。
「またね、さっき、やられたの。
鏡台の下に置いたのに、あれ、もしかして、と思って見たらないの。
で、探したら、お菓子の缶に入っていたのよ。」
「よかったね、すぐ見つかって。まだファンデーション、他にもあるんじゃない?
何回か、私、買いに行かせられたでしょ。でも今度、商品券で上戸彩のを買いに行こうね。」と言った。

大事なものは隠す、それか。


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(6/5)昨日あったこと

2015年06月05日 09時09分12秒 | 日常、仕事、認知症
昨日の昼下がり
1人の男性が訪れた。
いろいろな勧誘があるので、時に居留守を使うときがあるが
(宗教団体やボランティア等。ハンカチを買わされたことがあった。)
昨日はたまたま出た。
玄関のドアを開けたら
男性が首からぶら下げているIDカードをスーツの上着の内側に隠した。
「○○放送局ですが、この辺で、消防車が来たという情報を聞いていませんか。」
これだけ聞いても、話の前後が見えないので
怪しい、と思い
「聞いていません。」と答えた。
手には、住宅地図のコピーを持っていたのみ。
「取材ですか?」と去り際に聞いたら
ニコッとして「ええ、そうです。」と答え、帰っていった。
うちの向かいの家にも訪れるのかな、と見ていたが
それはなかった。

私は
怪しい、怪しいという思いが強くなって
何より、IDカードをぶら下げていながら隠したというところに
怪しさを感じた。
在宅か留守かを確認しているのか、と思った。

思い切って
その放送局に電話した。

「これこれの取材を受けたが、本当に取材をしているのか。」と
趣旨を述べ、男性の特徴、行動、会話等、覚えていることの全てを
話した。
しかし
それを話された側の女性は困惑していた。
私にどうしたいかを尋ねた。
調べてほしい、もしも
そういう取材がなかったら、一企業の名を騙って
在宅留守を確認している不審者かもしれないので、と言った。
「お時間、かかりますけれど・・・」と消極的な感じを受けた。
確かに、私が電話される側に立ったら
変わったクレーマーにしか思えないかもしれない。
いちゃもんに思えるかもしれない。
「時間がかかっても、そういうものはいなかったでもいいので調べてほしい。」と
言った。

そして
1時間以上してから
電話があった。
「やはり、そういう取材はしていないということで・・・。」
「そうですか。わかりました。不審者ということで、こちらも気をつけなければ。
ただ、そちらの名前を騙っているので、今後もそんなことがあるかも。」
と言って終わった。






が。
終わった、と思ったら、10分後に電話があった。

妙に興奮した甲高い女性の声。
「先ほど、電話をしてくださった人ですか?」と聞くと
「はい、そうです!」とさっきのトーンとまるで違っていたので
別人かと思った。
「いました!たしかに取材に行った者がいました!
本当に申し訳ございません!今、帰ってきたのを確認したところ
確かにそちらに取材に行っていました!」
「そうですか。こちらの電話がヘンな電話と思ったかも知れませんが
わかってスッキリしました。」
「今後は取材のときに、名刺を渡すなり、IDカードをきちんと見せるなり
しますので、申し訳ございません。」と平謝り。
「いいえ、すばやい対応ありがとうございました。こちらもスッキリしました。」
と電話を切った。

無事、モヤモヤが晴れてよかった。

何より
話の前後がわからず、突然「消防車が来たという情報はないか」と聞かれても
もっとそのときに食い下がって聞くべきだったが
怖くて、速く切り上げたいという思いが強かった。
この辺で、火事があったとか、全くなかったので
とってつけたような質問だった。
しかも
IDカードを見ようとしても隠されたので
本当に名乗った局だったのか確認しなかったので
そこに聞いてみようと思ったのだ。

そして
うちの事情。
義母がもしかして電話したのではないか、とふと思ってしまったのだ。
義母は
警察とか消防とか宣伝カーとか
よく口にするし、そういうところに突撃することが実際あるので
それ関連かもしれないと、私も余計なことを考えてしまった。
義母に
放送局に電話したか、と逆に聞いたら
薮蛇になるかもしれないので、この件は伏せておいた。
とは言っても、今、義母の電話は使えない。壊れたのをそのままにしている。

とにかく本当のことだったので
モヤモヤが払拭できてよかった。
逆に
不審者であれば、怖いことこの上ない。
スマートなスーツ姿で、路地をウロウロしていれば
絶対に自分は不審者だ、と思ってしまう。

これからは
IDカード、名刺の提示を絶対怠らないようにしよう。
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(6/1)明日はイタリアンランチに

2015年06月01日 17時15分38秒 | 日常、仕事、認知症
魔の5月が終わった。
本来なら
芽吹く4月から
芽吹いた樹木の若々しい緑の色の5月への移行が好きなのに

自分に降りかかったことが
あんまりよろしくなかった。

1日の初っ端から
義母と衝突して
それがずっと尾を引き
今小康状態であるが
またいつ衝突するかと先行き不安。
そして
中旬に捻挫をして
それも尾を引いている。
痛みが全く取れなくて
引きずりながらの仕事。
ストレス倍増。
今も痛いので、全治3週間か。いやもっとかかるかも。

今日から6月。
衣替えの日。

明日は
半年振りに
Iさんに会う。
恒例のイタリアンのランチの予定。
今日職場の帰りに下見。
定休日だったが、健在。
昨年オープンしたところで、ちょうど
そこを通りかかったときに
メニュー表をもらったんだ。
いつか訪れたい、と思って1年。
食べログを見て、結構人気のある所として定着していた。
楽しみだ。
先日
父が北海道に行ったときにおみやげとして
買って来た
よいとまけ(父の友人が私に、と。いつも父の面倒を見てくれる人。私の小学校時代から
知っている人だ。)などを持って
彼女に会いに行く。

いつも書くことだが
Iさんとは
私の今の職場にいた人。
彼女のきつい指導に胃が参ってしまって、私は2回ほど退職願いを出したほどだ。
そして2回目の退職願が受理されたのが一昨年の夏。
その後
彼女も数ヶ月して辞めた。
彼女の辞めたあとに会社から電話があり、再就職しないかとの誘いがあった。
そして私からの条件付きで、今度は正社員としてではなく
アルバイトとして戻った。
その彼女とは辞めてからの付き合いが濃くなった。
昨年はいろんな所を回った。
彼女には励まされたなあ。
あの強いところが却って弱い私に刺激になったようだ。
指導のきつさはあったけれど
鳩のPちゃんを保護したときも
彼女の機転で、なんだかんだと助けられたんだ。
あのことは本当に感謝している。
もともと、笑わせるのが得意としている彼女。
久しぶりに大笑いしたい。
ずっと暗い1ヶ月だった。

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