ずっと気にしていたことだが
以前
自分史的に
7歳の思い出を書いて以来、筆が止まっている。
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(参照)2010年2月の7日あたりから断続的に書いていた。
いつかその続きを書こうと思ってきたが
今年の仕事の時間が結構きつかったので(午後の拘束が多かった)
帰宅してからのゆったりとした時間が取れなかった。
気分的に、ゆったりとしながら、ダラダラと書き続けるのが好きだ。
7歳の特異な学生生活、病院生活、それらから離れたくなかったこと、
自分の性質の基盤となったその1年間が愛おしいこと、それを
記録として残したくて書いた。
幼いながらに感じたことや記憶にとどめていることを残しておきたいと
思っていた。
また少しずつ、書いていこうと思います。
特別、自分は人と比して積極的な経験をしてこなかったのだが
それでも、平凡な人間なりに思い出は残っているのです。
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思い出を繙く(ひもとく)函館編①
父が転勤のために
私は入院していたベッドスクールを泣き泣き離れなければならなかったところで
前回終わったと思う。
小学生の人数が少なく、学校の中での授業は1年生、2年生(3年生も?)が
合同で行われた。
どこかの山の中の分校のようだった。
そしてその札幌から離れて
私たちは函館へと向かった。
北海道を語るとき
私の好きな街はこの函館が筆頭。
夫に
「あなた、8歳の自分の思い出を語れる?9歳の思い出を語れる?」と
尋ねると
「わかんね。遊んでたんでないかあ~?」ぐらいにしか返ってこない。
転校という形で
学年を区切ることが多かったから
その都度、どこで何をし、誰がどうだったかなど結構残っているものだ。
函館の温泉の町に住居が決まった。
そこは父の勤める会社が社宅として借りていた所だ。
長屋の左から2番目の家である。
その長屋は5軒続いていた。
左端が大家で、うちはその隣である。
間取りや他の家の人たちのことを容易に思い出せる。
そして
大人になっても、その家の夢まで見る。
二間の部屋と、南側に廊下があり、庭があった。
今思うと、庭が広くて、花などを植えて愛でるのに十分なスペースであったが
全く花を植えたことのない両親であった。
花を育てる心の余裕もなく、無関心であった。
現在に至っても、両親は花を育てることとは縁がない。
私と両親が養子縁組をして
本格的な生活のスタートでもあった。
札幌時代のベッドスクールでは、1ヶ月に1回ほどしか会わなかったので
親子という関係は希薄だったと思う。
あの当時はまだまだ生母のことが忘れられない自分だったから。
函館が実質、親子3人の生活のスタートである。
しかし
それが始まって以来、ずいぶんと衝突した。
衝突というよりは、一方的に私が怒られるばかりだったのだが。
親子に性格の不一致という言葉があるかどうかは知らないが
おそらく性格の不一致だったのであろう。
そして
自分の生母の負い目を、私が負うべきではないのだが
なぜか、今の母は私に負わせるのである。
ここから私たち親子の確執が積み上げられていくわけで
私が
あの7歳のベッドスクール時代を
「桃源郷のようだった」と書いたのは
後にも先にも
この両親の影が薄れていたからこそ書けた言葉である。
衝突のない、穏やかで楽しくて優しい時間が流れたのはあの7歳の時だけのような
気がする。
今後、この思い出を書いていくときによく、父、母の暴力が出てきます。
それらは消えない。
7歳の時の思い出には両親の暴力というのは残っていない。
小学校は2年生の4月の途中から転入した。
家から歩いて20分ほどのところである。
木造校舎。
今はその面影なし。(13年前に訪れている)
小さな分校のようなところで過ごしてきた私にとって
いよいよ
40数人の学級に入る、という緊張感があった。
まだ新学期になって数日だと思うが
途中から入っていく私には、皆、既に仲良くこの学級で暮らしているように見えた。
座席は
先生の教卓のすぐ前だった。
当時の生徒の机は2つ連結されていて、2人が並んで勉強する机になっていた。
そこが1つ空いていたから、というわけで座らされた。
背中に40人(もっといたかもしれない)の視線が刺さるような気持ちだった。
隣は、他の子よりも一回り大きな男の子だった。
名前をフルネームで今でも覚えている。
その子は旅館の息子で、周りの子によくいたずらをするということで
1人で座らされていた。
それは後から、先生が母に言ったことだった。
先生の監視が届くようにということで、大柄であったけれど一番前にいた。
そして私が隣に座ったことによって、その子はおとなしくなったと言われたとのこと。
Y君としよう。
Y君の通学路はうちの前の道路を通るので
Y君は「○○さ~ん」とうちに迎えに来ていたときがあった。
あるとき、Y君が迎えに来て外に出たときに
道路の真ん中で彼は、おちんちんを出しておしっこをしていた。
その後の対処はどうしたか忘れたけれど
そんなことも気にせずに、私はしばらくいっしょに学校に行ったのだと思う。
今と違って、母がそれをいちいち学校に報告はしなかったと思う。
ただ、道路の真ん中というのがひっかかるね。
この担任の先生は
私の学生生活の中で1、2番に印象に残る先生だった。
先生らしい先生、というべきか
非常に生徒のことを考えてくれる先生だった。
もう40代か50代か、頭が禿げていて眼鏡をかけていて
私たちから見れば、おじいちゃんのような先生だったが
私はこの先生に強く感謝している。
差別をしない、叱るときの的確性、笑わすときの的確性、板書の美しさ、
長期の休みのときのフォロー等
そして
そのY君のような特異な生徒に対しても分け隔てなく接していくことによって
本当に彼も伸び伸びと生活をしていたような気がする。
この私は私で、まだ病院に通っている身だったから(必ず1ヶ月に一度、五稜郭にある
病院に行き、採血と痰の検査をし、薬も飲んでいた)
母は、先生に、体育は見学、ハーモニカを吹かない、遠足等遠出は禁止と
伝えてあった。
先生は特別扱いをせず、体育のときにポツンと見学している私に、これなら大丈夫だろうという運動をさせてくれた。
ヒョロヒョロしたやせ細った私に、少しずつ体育の授業を受けさせてくれた。
皆がワイワイ楽しく運動をしているときに、ずっと壁に寄りかかって見学していることの寂しさとか恥ずかしさはいつもあった。
自覚症状のない病気だったから、なおのこと。
先生は
一人一人の生徒の誕生日に、折り紙の鶴を3つほど折り、給食の時間に「○○ちゃん、お誕生日おめでとう」とその生徒を皆で祝うということを企画していた。
そしてそれらも教育ということで、必ずその子は詩を書かせられた。
誕生日に祝われて何を思ったか、感じたか、を詩に書いてみよう、ということだった。
私は4月の始めの誕生日だったので既に過ぎていた。
しかし先生は、私の転入早々、遅れた誕生日の祝いをしてくれた。
私も詩を書いた。
そして、このクラスが終わるときに、先生はこれまで皆に書かせた詩や作文や3年生になっての抱負などを載せた文集を作り配布した。
表紙を開けると
誕生日の詩だった。
二段に分けて
上の段には、頭の良いD君の詩だ。
下の段には、遅れて誕生日の祝いをしてもらった私の詩だ。
二人とも似たような文体だった。
D君は、自分のもらった鶴の色を正確に書いた。
ももいろ、みずいろ、あかいろと正確に。
私は違った。
金、銀、赤、と書いた。
先生は、○○さんは、本当は別な色だったけれど、
詩の中身をどうするかな、と聞いてきた。
私は
金、銀、赤という語呂にこだわった。
これでいいです、と答えた。
そしてそのまま、詩として載せた。
どちらが良かったのだろう、と今になって思う。
正確なことを書くか、語呂にこだわったことを書くか、
なんて
もし私が先生の立場だったらどんな指導をするだろうかと
考える。
1時半過ぎたので
続きはまた明日。