僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(6/8)風呂場に義母の持っていくもの

2014年06月08日 21時30分13秒 | 日常、仕事、認知症
義母
お風呂に
自分の財産(通帳、お金)の入った袋を持って行く。

お風呂から上がったら
「また、話を聞いて。」と言われた。

「自分が数えたお金がまちがっていたのか、訂正された金額が書かれた
紙が入っていた。全部、覗かれているので、風呂場に持っていった。」
と言われた。

どこに隠しても、見つけられるから持っていったとのこと。

なんか、認知症症状の典型だね。
年金とか通帳とかの言葉が出てきた辺りから
いよいよ、お金が盗まれたに発展していくのでは、と
予測していたが
まさか
風呂場まで持っていっていたとは。

「あちこち隠して、今度はどこに隠したかわからなくなって、
オトコが盗んだ、とならないように。」私。

昨夜
夫が、「明日(つまり今日)、車で買い物に連れていくから。」と誘ったが
(私は今日は仕事)、義母は迷っていた。
「家を空けると泥棒が入るから、行くのを迷っている。」
「泥棒が入ったって、うちには盗まれる財産はないよ。」
結局、出かけたらしい。
おそらく、全財産を持ち歩いているに違いない。

私はそれは危険だ、と言った。
老人がひったくられることが多いこと、どこに置き忘れたかわからなくなるから
家に置いておくように、と言ったが
「外で盗まれたほうがあきらめがつく。」だって。
聞く耳持たず。

ネットで
認知症のあれこれを読んでいると
この「財産が盗まれた、財布が盗まれた、嫁が盗ったに違いない。」というのが
よく出てくる。
お義母さんもその典型になりつつある。
今は
私に話しているけれど、いつそのようになるのか時間の問題。
その良い応対例として
「いっしょに探しましょう。」と言って、嫁が見つけても、有った、と言わずに
その辺りに導いて、本人が見つけるようにしむけるんだって。
大体、義母側の生活範囲に滅多に入ることがないので
どこにどう隠したか絶対、見つからないと思う。本人曰く
「絶対、見つからない所に隠していても、見つけられてしまう。」と言うくらいに
ヘンな所に隠してあるらしい。
まだ、隠し場所を覚えているからいいが。
私は年に数回(1,2回)ほど、彼女の生活範囲に行くが
昨年トイレや風呂場(1階にも風呂場がある。しかし今は2階の風呂に入っている)を
見たが、風呂場が納戸代わりになってしまって、そこに物がぎっしり積み上げられていた。
何が積んであるか、全然思い出せないが、いつのまに積まれていた。
義母が死んだあと、ここを片付けるはいやだなあ、と思ったものだ。
かといって、捨てろ、とまで言えなかった。
私は私で、屋根裏に、どっさりと、古い本とか昔の仕事のものとか、いろいろと
積んである。
そこを整理したいが、うちのネコたちには内緒の部屋なので開けられない。
初代のネコたちがよくそこに入って遊んでいた。
今のネコたちは10数年、その存在を知らない。
開かずの間、ネコたちの知らない箇所、3箇所あり。

私も思い切って、断捨離をしなくては。


金曜日(6日)、元同僚のIさんと会い、歴史散歩。
後ほど。
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(6/3)義母との会話

2014年06月03日 17時19分02秒 | 日常、仕事、認知症
帰宅恐怖症候群である私。
勝手に名前つけてみた。
いや、一般にあるのかもしれない。

早めに仕事が終わって
帰宅するときの気持ち。
どこかのコンビニでお昼を買って、家に帰って、食べて、寝る。
大体こんな感じの毎日。

デパートの地下で夕食材料を買って、パンを買って
いざ帰宅となったが
何となく帰りたくない。

近くの公園で
そのパンを食べる。
たまにそういうことをするので、それほど自分で奇異ではない。
ハトもカラスもいないなあと思っていると
3羽のハトがやってきた。
パンのかけらをポイポイやって、
ハトのPちゃんを思い浮かべて(Pちゃんの羽模様はもうちょっと違ったなあ、と。)
無為に過ごす。

帰ったら
また義母が出てきて何か言うんだろうなあ、と。


ここ毎日のように
帰宅後に何かの理由をつけて玄関のところに顔を出す。
普通の家庭では当たり前の光景かもしれないけれど
うちでは
これまで用事のない限り
顔を出さないし、私もすぐに二階に上がって行く。

夜は夜で
義母は7時過ぎに寝るのだが
私が9時就寝で、下の部屋に下りていくと
暗い廊下をウロウロしている義母がいる。
暗闇にいると、ドキッとする。
そして必ず
「ダイちゃんが・・・」と
私といっしょに寝るダイジローのことを言う。
そんなことはあまりなかったが
このごろ富に多い。
きっと寝付けず、ウロウロしているのだろう。


そして午後帰宅したら
やっぱり食堂から出てきた。

「トモロッシちゃんにまた話さなくてはと思っていたんだけれど。」
先日の夜、書類をガサゴソしていたのを目撃した、と先日のブログに書いたが
それだ、と思った。

「また、(男が)やって来て、いろいろと動かされているんだけれど。
とにかく見て。」
「何をされたの?」
「私の年金の書類とか・・・(年金とか通帳とか、認知症には欠かせないアイテム?)、
どこから箱をもってきたのか、箱にきちんとまとめておさまっているの。見て、見て。」
(あなた、この間、整理していたでしょうに)
買い物袋など持ったまま部屋に導かれる。
「ほら、これ。どっから(どこから)持ってきたんだか(箱)。こうやって『年金』て
書いてあるし。」
(おっかさん、それあなたの文字。・・・言わなかったよ。)
「よかったね、整理してくれたんだね。」
「この間の下着もね、洗ったのよ。そしたらね、引き出しに綺麗に整頓されているのよ、いつのまに。見て、見て。」
「え、この間の下着、気持ち悪いからって捨てることになっていたでしょ。」
「いや、捨てようと思ったんだけれど、切って雑巾にしようかと思ってね。」と
引き出しを見せる。
「あらあ、綺麗に整頓されているね。きっと、守り神なんだよ。守られているんだよ。」
おそらく
自分で整理整頓したのを見てもらいたくての言動だと思うけれど、本人は正気です。
「いいんじゃないの?(男が)やって来て、綺麗に整頓してくれるなら。物が無くなっているわけじゃないし。守り神のようなもの。」
「ものが無くなったら、ドロボー!と言って交番に来てもらうから。」

「ついでに、食堂の食器棚のあの崩れそうな食器もいつか整理してくれたらいいね。」
と言ってみた。(夫の言われたとおりのセリフ。)
義母は笑いながら
「ハハハ。あれは地震のときのだからねえ。」
さてさて、それはやってくれるでしょうか、オトコ。

このぐらいのことなら、お付き合いしますよ、おっかさん。
今日のトモロッシ、合格です。
お義母さんのソレも合格です。
これが先日のネガティブな妄想だったら、私も我慢できません。
我慢して
「そうだねえ、○○さん(夫)は悪いことをしたんだねえ。」なんて
ウソでも言えない。
その辺の修行が足りない、と指摘されても、認知症初心者の私は
真実を曲げたくない。
どうか、お義母さん、平和な認知症でありますように。

私の母は、認知症という意味がわからないから
明るい認知症、穏やかな認知症という感じ(これからどう変わるかわからないが)だったので、余裕の対応できたけれど、
やはり義母のソレは時折、こちら側にも辛いものがある。


自分の中で
彼女の言動が認知症の症状だとわかってはきたけれど
まだ「?」のところがある。

今後死ぬまで
ストレートに「引き出しの中を整頓したから、見て」という表現ができないのだろうか、と。
正常なときに、それを表現できればいい。
もしかしたら
「オトコ」が整頓していった、と言えば
トモロッシちゃんはこっちを向いてくれるかもしれない、という義母の深層心理が
働いたのかもしれない、と文学的に受け止めてみる。
いやいや
認知症に、文学的解釈はなし、と言われるか。


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(6/1)今日は暑い。いろいろ。

2014年06月01日 17時29分37秒 | 日常、仕事、認知症
暑い。
昨日から暑い。
今日は仕事が休み。

夫は
昨日会社の仕事上の付き合いで
岩沼(震災で津波被害があったところ。仙台空港のあるところ。ここも被害が酷かった)
の防潮林植樹祭に参加した。
全国から参加者6千人とのこと。大規模です。
その話を聞いて、私も参加したかったなあと思った。
20本ほど夫は植樹したそうです。

これまで存在した長く連なった防潮林が震災津波で流され、その生まれ変わりとして新しく植えられた樹木。
6千人の思いが込められている。
暑いにも拘らず、こうしてボランティアで参加し、一人一人が「大きくなれ。津波から守ってくれ。」という思いを込めて植える・・・参加したかったよ。
そして、仕事上とはいえ、夫がこういうことに参加できたことを私は嬉しく思った。
小泉進次郎氏、西村雅彦氏、石井竜也氏、鈴木京香さん、SUGIZO氏など著名人も参加。

SUGIZO氏のブログ(twitter)では植樹の画。
ああ、こうして植えられたんだなあ、と。

夫は日焼けして、顔が真っ赤になって帰宅。他の方もきっとそうでしょう。
お疲れ様でした。

近いうちに、夫とともにそこを訪れてみたいね。
「千年希望の丘植樹祭」 希望の名前だ。


今日は夫と休みが重なったので
お昼は
近くの中華屋へ。
以前勤めていた職場のすぐ傍。
ここの冷やし中華、ラーメン、五目あんかけ焼きそばがどこよりもおいしい。
いつもこの3つのどれにしようか迷う。
どれも少しずつ食べたい。
ここは思い出の場所。もう何十年も通っている。
昨年の暮れから今年の2月過ぎにかけて店を閉じたことがあった。
調理人の奥さん(教え子のお母さん)が体調悪くしてしばらく休んでいた。
もう閉店かなあ、と寂しく思っていたが
あるとき、復活していた。
お菓子を持って、「頑張り過ぎないように。適度に休んで、長く続けて。」と
言ってきた。
そして今日も行って来た。忙しいところに、わざわざ顔を出すのも申し訳ないので
ただ食べてきた。
5月の連休のときに
夫と3日連続で、3軒の中華屋へ。
結局、やっぱりここのが一番おいしい、と思った自分。
ホームページもないし、食べログにもない中華屋。
でも何十年も続いているので、やっぱり近所の人気店なのだ。
おばちゃん、元気で細長く続けてほしい。



さて、義母。
昨日、一昨日と
お風呂に入れる時刻に
「お義母さん、お風呂いいですよ~」と声をかけるために
義母の居室を開けると
義母は自分の化粧台近辺の書類(らしきもの。紙類)を見ていたり
昨日は、仏壇の引き出しに入っている書類らしきものを探し見ていた。

ああ
これは
「また、ナニナニが替えられている」とか「ナニナニが見られた形跡がある」の
セリフが出るのだなあと予感。

夫にあとで
そのことを言うと
夫は
「土地の権利書はどうなっている?ちゃんと上にあるか?ヘンにどこかに渡されたら
大変だぞ。」と言った。
私も、整理のヘタな人間なので、しかも権利書なんて滅多に見ないもの、ハテ、どこにしまったかと探し始めた。
自分の部屋にいることがなくなった今、
自分の机の中(おそらくあそこにしまっている、と思ったところ)を探したら
ちゃんとあった。
夫に見せる。

土地は、夫と義母の名義。
舅が亡くなったとき、2人で相続した。
家は夫と私の名義。
夫の実家であるここに、戦後建てた古い家があった。
同居をきっかけに家を建て直したのだが
建築のお金は私たち2人のお金。義父義母からは援助なし。
おかげで、今ローンで苦しんでいる私たち。(いや、これにはわけがあるんですが)

義父が亡くなったあとに、土地の権利書は義母が預かっていた。
家の権利書は私たち。

数年前(このブログを始める前)、
隣のマンション建設の件で、我が路地の人間たちがいろいろと動き出したとき、
私道の権利の有無の問題になった。
路地の家は戦前から住んでいる者(勿論世代交代している)と戦後土地を買って来た者がおり、
私道の権利のないものとあるものとのばらつきがあった。

で、その権利のないもの側にうちが入っていた。
隣とその隣と、うちと斜め向かいの家と、都合4,5件。
私道の権利がなくても、戦後何十年と問題なく過ごしてきたものだから
たまに親の段階で話題になっても、そのまま保留になっていた。
そこにマンション問題。
そして隣とその隣が動き出した。
双方とも同じ所有者から土地を買ったらしく、市内に健在だったらしく
比較的すぐに私道の権利を買うことができた。
街の真ん中なので、それなりのお金を支払ったらしい。
それらが解決したあとに
隣の奥さんから
「お宅も以前の所有者を見つけて解決したほうがいいよ。」とアドバイスされた。

私道の権利がない、ということを私はその時点で知った。
私は頭に血が上る。
夫も義母も亡義父もこれまでどうしてきたのか、と思った。
戦後すぐに、処理しておくべきだったことを
平成のこの時期に、どうしてくれようか、と。
何から手をつけたらいいのか全くわからなかった。
これは私がやるべき問題か?○○家(夫の)がやるべきことだったでしょ、と
夫に言った。
そこで義母に、私道の件は生前義父はなんと言っていたのかなど、尋ねる。
わかったことは
義父は一度、その権利を買うために動いたことがあったらしい。
何しろ、戦前の話。しかも、この市にいない、県北のどこかの村らしい。
生きているのか、死んでいるのか、全くわからない。
あの律義な義父さえギブアップした件。
義父の残してあったメモや資料などを私が引き継ぐ。

そして
不動産のことで一度相談したことがある不動産会社のおじさんに
詳細を書いて手紙を送る。
こういう問題について全くど素人の自分は
戦前の土地や戦後すぐの土地問題について調べることは気の遠くなることだと
嘆きつつ相談。
お金のない私たちが一体どこまでできるのか。
お金があれば、例えば権利のある隣の家から、どんとお金を出して買えば解決できるかもしれないが、それもできそうにない。なにより、権利を売りたくない、というニュアンスもあったのだから。

その殺気立った私の気持ちを汲んでくれ
おじさんは何とか探してみましょう、と果てしない約束。

(ちょっとここで中断。土地の権利書を探していたとき、当時の一連の手紙や資料などが出てきて、それらを眺めてしまったために、思い出してしまった一昨日。
夕食の準備をしなくては。)





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