僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(3/12)震災8年目。

2019年03月12日 21時30分23秒 | 東日本大震災

今年で8年目だ。
8年も経ったのか。
昨日は雨。
震災以降、この日はいつも追悼に出席する。
例年県庁で献花追悼をしてくるが、
この雨の中、あえて市役所前の市民広場の会場に出かけた。
前に1度、ここで皆と追悼している。
街の真ん中にあるので、買い物帰りの人々も多く参加する所だ。
冷たい雨のために、おそらく大半の人々は県庁の方に出かけたかと思うが(私も最初はそのつもりで向かっていた)
急に県庁前に来て、そうだ、市民広場に行ってみようとなった。
案の定、時間的にもまだ早いからか、寒いからか、人影もまばらだった。









時間があるので、献花をした後、テントの中で催されていた、3・11の当日の記録を読み、写真を観たりしていた。

午後2時46分、追悼。
各地で、それぞれの場所で、仕事をしている人たちも、きっと心の中で。


そして台湾からいつも励ましのメッセージを受けての、こちらからの御礼のメッセージを書いたフラグの説明を聞き、私も書き込んできた。




敢えて、ここに来てよかった。

あの日も寒かった日だ。
しきりに雪が降った。
地震後に、激しく急に振り出した。空が大粒の涙をボロボロと流したようだった。

8年という歳月で、随分と環境が変わった。
夫も私も、これまでとは分野の違う仕事に就いた。職を失った夫は、「震災特需」で仕事にありついた。
あの時たくさんいた我が家の猫たちは昨年のダイジローを含めて8匹亡くなった。
寿命といえば寿命であるが。
義母はまだしっかりしていた。
義母より若い私の母は当時は脳梗塞の後遺症があっても身体は元気だった。
私の家に避難してきた地震パニックの母を支えていた義母だった。
父は相変わらず、あの時と変わらない強運の持ち主である。
その犠牲になった母が一昨年亡くなった。
義母がボケた。
私も年をとった。
でも、もっと生きようと思う。






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(3/15)震災7周年の日

2018年03月15日 20時41分39秒 | 東日本大震災
忙しくて、家に帰ってきても
だら~っとしてしまい、就寝時刻も8時前後だったりで、
3月11日の震災7周年のことを書かなかったが
当日、大急ぎで追悼式に献花してきた。

日曜日だったので、家族連れの方々も大勢参列していた。

あれから7年なのだが、自分の生活もガラリと変わり、歳月を感じるが
未だに、あの映像を観ることができない。報道ではその映像がしきりに流れると、どうしようもない「後悔」が襲う。
まだまだ歴史の一部として観ることができない。

帰途、近くの空き地の写真を撮る。

ここは古いホテルがあったところ。
以前あったホテルの風景。


ホテルの東側、南側がテラス風になって樹木が多かった。
震災後、南側の土を盛った所が危険な状態だったことを思い出す。
夫とよくホテルのバイキングランチを食べた。この辺は地盤が固いと言われているが、古い建物は内部がダメージを強く受けている。
この並びの屋敷のような所もその隣も人は住んでいない。まとめて更地になって、ゆくゆくはマンションでも建つのかもしれない。
新しいものの魅力はあるのだろうが、どんどん古いものがあの震災によって消えていく。
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(3/11)みやぎ鎮魂の日

2017年03月11日 21時15分20秒 | 東日本大震災
今年からなのか
今日この日を「みやぎ鎮魂の日」と県が定め
各地に献花、記帳、黙祷と、追悼の場を設けた。
勿論昨年もそうであったが
6年目を迎えて
あの日の悲しみを風化させないためにも
そう呼称するようにしたのであろう。

午前中から雪が舞っていた。
午後2時に家を出る。
目的地(県庁)はうちから自転車で6、7分の所だ。
いつもは職場の帰りに寄る年が多く
お昼過ぎには到着する。
今日は自宅から向かい
外であの時刻(2時46分)を迎えようと思った。
土曜日の県庁。
大勢の方々が記帳、献花をしに。
そしてあの時刻に合わせて追悼式があるからか
喪服の方々がたくさん来ていた。
私は
県庁を出て、そこから自転車で3分ほどの市民広場へ。
ここで追悼をしようと思った。
                   




この写真は6年前の地震の数日後の市民広場の様子です。
神戸市の車、人々。
あの時は嬉しかった、心強かった。
阪神淡路大震災を乗り越えてきた人たちが
東北の町にこの車に分乗してやってきた。
私は思わず立ち止まって頭を下げた。
あちらの方も黙礼した。


その市民広場に今日は我が町の人々がたくさん
献花(ここにも献花台が設置されている)し、追悼しようと集まってきた。
国歌斉唱、そして2時46分、東の方向に向いて、皆で追悼。
目を閉じて、心から祈る。
そして私の耳から、車の音が消えた。
車が激しく往来する音が消えた。
なにゆえに?
車も止まっているのか?
目を閉じているから様子を見ることができない。
何百人もいるにも拘らず、車も何台も往来するにも拘らず
都会は静寂の中に在った。
まさに
鎮魂の日であった。
泣けてしまった。
隣の方も泣いていた。
あれから6年なのに
ついこの間のような悲しみの涙だった。

あの
車の音が消えた不思議。
雪がちらつく。
あの日の象徴的な大粒の雪ではないが
あの日と同じように寒空の雪である。







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(3/10)明日のことはわからない

2017年03月10日 09時29分15秒 | 東日本大震災
今日の気温の最高気温は
お昼頃で8℃くらい。
外は晩冬の冷たい風。
洗濯物をベランダに干していた時
珍しくダイジローがベランダに出て
走っていた。
ダイジローはずっと1階にいたので
よく私が玄関から外に出れば
いっしょについてきて
ゴロンゴロンとし、雑草を食んだり、草花の匂いを嗅いだり
庭を走ったり、とそれが習慣だった。
2階に上げてからは、それもできなくなった。
で、ベランダである。
寒いから早々に部屋に入れたけれど、これから暖かくなってきたら
また玄関から庭に出してやろうと思う。

今日は休日。
早朝、ゴミ出しに行くとき
庭の石の下の小さなカエルの姿を確認したり
大きくなってきた樹木をしばし眺めたり
草花の蕾を見たり
明るい太陽の光を浴びたりと
一時(いっとき)、平穏さを喜んだ。
そしてすぐ思った。
明日のことはわからない、と。
明日もこの平穏を確実に感じられるとは限らないと。

誰もが予想できない、明日のこと。
しかし
今日は今日で
このダイジローのゴロンゴロンや
カエルたちを驚かしてしまったことや
名前のわからない樹木に心の中で挨拶したことなどささやかな平穏を
愛そうと思う。

明日
震災6年目。
県庁に献花に行く。
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(4/16)お祈り申し上げます

2016年04月16日 21時19分31秒 | 東日本大震災
どうか地震、早く収束しますように。
余震の数、震度が大きい。
5年前の地震の時も余震が続いたときは
恐怖の気持ちで、ノイローゼ気味になったけれど
このまま終わりなのか、という絶望的な気持ちになったけれど
なんとかなんとか、復興しつつここまで来た。
まだ余震が続く日々。
どうか、収まってください。
これ以上、不安にさせないでください。
何と書いたらいいのかわからない。適切な言葉が見つからない。


心が落ち着かないね。
ずっとニュース、ネットを見ています。



しばらく休みが続いて
ずっと家にこもっていた。
明日は仕事。
4時に起きます。
朝、まだ少し寒い。
ストーブをつけています。
桜は散りましたが、冬スタイルで出勤です。

散漫な文章でごめんなさい。
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(3/12)あれから5年。

2016年03月12日 18時16分30秒 | 東日本大震災

昨日の県庁の樹木。まだ芽吹くのが見えない。遠くに半旗の国旗、県旗。
晴れているが、肌寒い風の吹く日だった。


そして5年目の震災追悼献花所。
仕事が休みだったので、慌てることなく、ゆったりと出かけることができた。
自分の生活も一変したあの年。
余震に恐怖感を募らせた日々だったけれど、嘆いていられなかった、生活のことを考えなければならなくて。


今月初め体調を崩した。
そして先週の月曜、職場で貧血を起こして倒れた。社長も心配して飛んできた。
風邪だったのですが、風邪の症状の少ない体調で、でもムカムカして食欲減退。そんなときにエネルギーを使ったものだから
急に具合悪くなった。まだ不調だけれど、頑張りましょう。

いろいろとあって、今日は興奮状態。良い興奮状態。
それはのちほど。
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(3/11)あれから4年

2015年03月11日 21時40分34秒 | 東日本大震災
      

あれから4年。
風が強く、雪が舞う中
仕事後に県庁へ。
記帳と献花を。
県庁の職員だろうか、寒くて厚着の私たちとは別の軽装で
次々と献花をしていた。
ここでお祈りするたびに涙ぐんでしまう。

この大きな「献花所」案内の看板は
毎年新規に書き換えるのだろうか。
それとも
震災の翌年から続いているものだろうか。
春、とはまだ言えない寒空の中、
これから何年も何十年も同じ看板が歴史を刻んでいくのだろうか。
命の続く限り、訪れよう。

TVではこちらの被災地にやってきて中継を放送していた。
午後2時46分
サイレンとともに黙祷を捧げる人々。
東京のキャスターたちは思わず泣いていた。
荒涼とした震災モニュメントに祈りを捧ぐ姿。
 
 ここは南三陸町、夫とともに2013年5月に訪れた時の写真です。
防災庁舎のあのアナウンス。
解体か保存か揺れる震災のモニュメント。祈りを捧ぐ拠り所として残してほしいと
思うけれども、しかし・・・

津波の映像はやはり今も見ることができない。
そのあとTVを消す。

あの日の突然の吹雪。
今も忘れない。
今日も寒かった。
寒くて寒くて雪がとぎれなかった。
東北はまだまだ冬、といってもおかしくない。
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(3/11)あれから3年

2014年03月11日 21時18分31秒 | 東日本大震災


あれから3年。
今日も朝から雪がうっすらと積もり
寒い1日だった。

自分に自由な時間がある限り
この日は
毎年、県庁に出向いて
記帳し、献花をしていくつもりである。
この先も。

そして今日
仕事が休みで、去年のようなギリギリの駆け込みをせずに
余裕を持って出かけることができた。

あの日を忘れない。
これからも語り継がれていかなければならない。
たくさんの命の犠牲を教訓に
あの日の地震、津波を知らない世代に受け継がなければならない。

今日は自分の当時のブログを眺めていた。
それぞれの家庭に、いろんな事情があるんだ。
うちだけじゃない。
ブログに書いていないことを
今日は書こうかと思ったりもしたが
やはり躊躇した。

あれから明るく生きているかと言えば
実はしんどい。
地震がきっかけではないけれど
大いに関係のあることでもあった。

とにかくもう少し生きてみよう。

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(11/30)(遅ればせながらの)楽天日本一おめでとう!

2013年11月30日 10時27分49秒 | 東日本大震災
ほぼ一日置きに出勤して
しかも休日には業者が入ったり(今日も)で
休みらしい休みを取れていない。
今日と明日連休になったが
今日の業者(スカパーの機種交換)
明日の実家(夫がタイヤ交換しに)行きと
落ち着かない休日である。

慌しい師走に入るね。

今日は何回かに分けて更新しよう。
書く内容がごっちゃまぜになるのはいやなので。

まず。
遅ればせながら
本当に遅ればせながら

楽天日本一おめでとう!

このお祭りムードにブログがついていけなくてごめんなさい。
でもちゃんと
私自身、この興奮した空気を楽しんできました。



楽天が勝った翌朝のスポーツ新聞をコンビニに買いに。
どこかの運転手も複数買いしていました。
これは地元の新聞の見出し。
一番気に入ったので写真を撮っておきました。
さすが地元の新聞。

そして
11月24日のパレードの日。
この日は
私はまだ今の仕事再開の決定をしていなかったときに
既にパレードの日にちが決まっていたのでとても楽しみにしていた日だった。
その後急遽、仕事再開が決まり
それでもこの日は絶対に休みを取るつもりで
Eさんに伝えておいた。
しかし
しかし
例年にない忙しさが予測され。
このパレード絡みで。
とても私以外の2人でこなせない仕事量。
それを知って
私はこの日、仕事に出ることにした。
その代わり
絶対に11時で帰ることを厳守。
なにしろ11時からパレードなので。
幸い職場からはすぐに近いので
走ってでもパレードに間に合う時間帯。
急いで職場を出たら
どこも人、人、人、人。パレードに向かって皆小走り。
私も走りました。
既に並んでいる時刻なのでどのくらいの距離で眺められるかほぼ不可能に近い。
しかし
パレードの進む方向に流れていって
下の写真のところで観ることにした。

これじゃ、遠い。
だめか・・・と思っていたら
流れが動いて結構前の方に行くことができた。
でも人の頭の山でなかなか観ることができない。
これは人々の頭の上にカメラを高く持ち上げて撮った写真。

どこにマー君がいるか全然わからない。
持っていった双眼鏡なんて役に立たないポジションの私。
でも歓声で最後のバスにマー君がいた。
肉眼で見えた!
マー君、わかるように何かを目印のように持っていてくれたね。
下の写真がマー君の乗っているバスだと思う。

老若男女、皆キャーキャー、ありがとう!の歓声。
私も「アリガト~!!」って叫んだよ。
マー君というスターのいる地元の球団。
来年にはいなくなるし
来年がV2になるかどうかもわからないし
初日本一という快挙に地元、ずいぶん盛り上がりました。
テレビで航空写真を観たけれど
ホントにたくさんの人がいたのですね。

私の横に
うずくまる小学生の男の子。
見えなくて(大人も見えないくらいだから、小さい子はなおさら)
すっかりスネてうずくまっていた。
この群衆の中でうずくまっていたら危ない。
男の子のパパも子どもそっちのけで背伸びして見ている。
子どもをかかげて見せようなんていう余裕、ないらしい。
楽天田中のユニホームを着ていたその子に
「危ないから立ってね。ホラ、これが田中の乗っているバスだよ。」と
カメラを見せた。
「皆も見えないからね。後はテレビで、大きく映るから見ようね。」と言った。
子ども、バスの写真を見せたらようやく笑顔になった。
そう、全然見えないの、大人でさえ。
でも、この雰囲気の中にいられただけでも幸せですね。
ありがとう、楽天。
あとは、ベガルタ仙台の優勝だね。

街はこの日
いろんな所からやってきた人たちで溢れていました。
喫茶店もいっぱい。
皆、興奮気味に、足早に帰ろうなんて思わず
お祭りムードの街の中で過ごしたようです。

遅れての
優勝おめでとうの記事でした。
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(10/24)中華屋さんへ。会社のことなど

2013年10月24日 09時55分21秒 | 東日本大震災
ほぼ日曜日ごとに
夫と出かけて、その都度
写真を撮ってくるのだが
撮りだめしてそのままの状態。

20日の日曜日。
この日は雨模様。
ネコの食糧を買いに行かねばならず
隣の市の名取に。
冬支度のための灯油も早めに購入。

お昼をどこで食べようか、となった。
ホームセンターのすぐ近くに
仮設市場「さいかい市場」があるので
そこにまた出かけた。
中華を食べよう、と
入ったところがここ。

もともと閖上(ゆりあげ)の市場で経営していた。
中国人がやっている中華屋。
私は五目焼きそば
夫は酢豚定食。
おいしかったよ。
キムチがサービスとして出たのだが
(キムチは通常食べないのだが)、食べてみたら
私好みの甘い味付けになっていておいしかった。
ギョーザも頼んだ。
肉厚の皮で、これまたおいしい。




豊華HP
というところです。

そのあと、市場の中のお惣菜屋や笹かまぼこ屋で品を買って
次に向かったのが
あの
日和山。

その日はお祭りがあって
神輿が出たはず。
出たはず、というのは
あいにくの雨と風で
どうなったのかがわからない。
東京からわざわざ出店の人たちが来て
いろいろと子どもたちのために出店していたけれど
すごい風と冷たい雨。
なんだか可哀相だったね。

寒い中、芋煮汁がおいしそうだった。
あったまるね。



その前日。
突然朝に
知人から電話。
なんと10年ぶりに会う。
仙台から浜松に行ったのだけれど
ほぼ音信不通の状態だった。
仙台に遊びに来たので
「姉さん(と私を呼ぶ)に連絡してみようと思って。」と
連絡をくれたのだ。
私の行きつけの喫茶店で待ち合わせ。
事前に「私、ふけたよ。」と言っておいた。
彼も「こっちもふけたよ。」と言っていたのだが
会ったら
本当にふけていた。
きっと街ですれちがっても
すぐにはわからないくらいにおっさんになっていた。
太ったし、白髪になっていた。
私よりずっと年下なんだけれど。
それはともかく
昔の共通の知人たちの消息を知る。
亡くなった方もいたし、女性にお金を持ち逃げされた人もいた。
彼は実家が
津波被害にあった県北の海岸沿いの町出身なのだが
高台に家があったため、津波の被害から免れたとのこと。
地震のときも実家に帰らなかったらしい。
浜松では会社の居心地が良く、仕事が楽しいと言っていた。
就職するのが難しい今、大事にしたい職場だね、と言った。


さて、昨日。
元の職場の上司から電話があった。
上司、といっても
新しく赴任してきた人。面識はある。
Iさんがやめるので(ちょうど前日にIさんからメールあり。11月中旬日付の
退職願いを出した、とのこと)、その代わりに
トモロッシさん、来てくれないか、ということだった。
彼は
私の退職理由、過程は伝わっていなかったので
詳細をこちらから伝える。
彼(ら)は
私が辞めた理由は
Iさんとの確執と思っていると思う。
両親の手術云々というより、本音はそれだろうという観点から
「Iさんがやめるので(仕事がやりやすくなるでしょう。)・・・」という
ニュアンスがあった。
いやいや、違う。
それも否定できないが(Iさんのパワハラは、お客さんの前での罵倒は当たり前、その他に、ガンガンイヤミを言う、など。私は2月3月、それで半ノイローゼ)、
仕事以外に関しては
寧ろ、彼女にゲラゲラ笑わせてもらったし、情けのある人で、ずいぶんお世話にもなっているのだ。
職場を離れた今、いい距離感でお付き合いしている。

Iさんが辞めたとたんに
私が再度働く、というのはできるわけがない。
会社は
私が辞めた時点で(いや、辞めると6月に言った時点で)
正社員をなんとか確保するとか
それがまだ無理ならば、他の部署、支店から呼び寄せるなどしなければ、
忙しくて
機能しないところなんだ、あそこは。
3ヶ月経っても
全く変わらない状態に、Iさんも体力消耗、Eさんも同じく(彼女からも電話あり)、
良い条件も揃えずに
またやってくれ、と言うところが
従業員を大事にしていないと私は見ている。
辞めてまだ2ヶ月も経っていない。
これが1年とか2年とかなら
自分も落ち着いているだろうから
少しは考えてみようか、となるが
今のところ
皆無、そんな気持ち。
勤務のことで、いろいろと不備なところがあり
それを改善してくれたのがIさんでもある。
詳しくは書かないが
ブラック?と言いたいくらいだ。
私は世間知らずなので(教員くらいしか経験なし。世の中の会社の仕組み全く知らず)、
Iさんにいろいろと教えてもらったくらいだ。
Eさんは
残念ながら、会社に疑問を抱いても
表立って争うのがいやな人なので(その点、会社としては扱いやすい。Iさんはあの通り
気性が激しいが、言うべきことはかなりストレスになりながらも言っていた。が、会社側としてはトラブルメーカーに見ていると思うから、今回の退職についてはすんなり受けたのだと見る)、
「会社の方針だから、仕方ない。」
「私たちは会社の駒なのだから、やれと言われればやるしかない。」という考え。


今は
あの
2時半、3時半起きの
9時就寝の
時間の強迫からの解放。
でも、未だに4時半前には起きているけれど。

土曜日に
Iさんに会いに行く予定にしていたが(古新聞も受け取りたいので)
上司に会いたくないしなあ・・・
外で会いましょうか。


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(10/8)駅の裏通りへ

2013年10月08日 17時24分37秒 | 東日本大震災


お昼前に
用事があって、仙台駅の東口の通りに行った。
うちから東に自転車で10分もかからない。
こちらに来るのは滅多にない。
実家に帰るときなどたまに車で通るくらい。

駅の東口というのは
以前は、私の好きそうな
狭い幾つかの商店街通りがあった。
住宅の密集していた部分があり、そこに高校時代の親友が住んでいた。
立ち退き、開発が始まって何年も経つ。
それでもまだ、開発の途上である。
あちこち空き地があり、拡張された道路は使用されていない所もある。
これからどんどん大きなビルが建っていく。
比較的早くに
開発が終わって新しい街に変身した通りがここ。


この道の先に
楽天球団が活躍する球場がある。
駅に近くて大変便利。
この通りは
自転車と歩行者の通路が分かれていて
非常に互いに歩きやすい。
これが、仙台駅西口(こちらがメイン)側になるとそうはいかない。
お互いに危なくて、ストレスがたまる。


今、金木犀の盛り。ケヤキやこの金木犀など
杜の都仙台にふさわしい並木通り。
今日は日差しが強くて、10月の気温にしては非常に高い。
半袖で十分であった。


ここは、アンパンマン館。正式な名称はわからず。
全国から子供連れでやってくる。
土日はいつも賑わっている。
今週末も連休なので、賑わいそう。
隣に文字通り、アンパンマンのパン屋がある。




次に目に入ったのは
この病院。
昭和のイメージそのもので
私の大好きな佇まい。
こういう館をいつまでも残していただきたい。
先年の地震で、古い建物に打撃を与えたこともあり
次々と
解体されていく家。
しかし大地震に耐えた古い建物もある。大事にしていきたいね。

次の写真は
閲覧注意なので、嫌いな人は観ないでください。
何かって・・・
うちの二階のベランダに蜂の巣ができたので
撮りました。
朝に気づく。
蜂が1匹、巣の裏側に止まっていた。
お昼はいなかったので、この暖かさでどこかに飛んでいったのだろう。
もしも
明朝、戻っていなければ撤去します。
いたら、しばし延長。
冬を越すには心許ない場所。
雨にも濡れるし、風も当たる。

いつもなら
サンルームの軒下に毎年の如く
巣を作り、幾つもの巣を小さいうちに撤去していたのだけれど
今年は1個もなし。
サンルームに取り付けた、Pちゃん用の黄色いハンカチが蜂除けだったりして。








さてさて、
先週の土曜日に
元の職場に
北海道から送られたメロンを持って行ってきました。
Iさん、Eさんとは1ヶ月ぶりの再会。
そこで聞いたのは
Iさんが辞める意志を持っていること。
そして今日のメールのやりとりで
昨日、上司に伝えたとのこと。

彼女が辞めるのを早めたのは2つの明確な理由。
1つは
私が辞めたあとの補充の見込みがないこと。
見込みがない、というより、会社側に、新規採用の熱心な取り組みが見えないこと。
私が辞めるのを延長したのは
辞めるまで次の人を真剣に見つけてほしい、ということがあったから。
それだけ、忙しい部署なのです。
私の代わりに、他の支店(という表現がふさわしいかどうか)から
来てはいるが、あくまで手伝いなので、代わりにはならないこと。
その現状に会社が慣れているようで、きちんとした補充ができていない。
その過程の説明も一切彼女たちに無し。
その不満と実際の疲労が積み重なっている彼女。
1つは
彼女とEさんの関係。水と油。これは私がいたときから。
私がいなくなったことによって、ますますそれが激化したこと。
合わないものは合わない、という結論。
Eさんも同じく。

中心であるIさんがこれから辞めるのはスムーズにいかないはず。
私の時でさえそうだったのだから、なおのこと揉めそうです。
それに関連しての話(書類の件)があるので
再び週末に行くことになるかも。
今週末は夫が久しぶりの3日間の連休なので
スケジュールがどうなるかわかりませんが。





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(10/1)地震の夢

2013年10月01日 22時20分16秒 | 東日本大震災
10月に入った。
衣替えの季節であるが
半袖で過ごせるほどに暑さを感じる。

そして今日は
やたら眠かった。
早く起きて遅く寝るからか
日中、身体がだるく
午後寝をする。
夢を見た。
地震があるんだ。
長い長い揺れで、倒れそうなテレビを押さえていた。
そして
地震見舞い客が来た。
ハルというネコ。
ハルは、うちにいるネコたちの母親。
近所のネコ好き夫婦の家の方がいいと言って
うちから出ていったネコ。
その夫婦が引っ越したときも連れていかれた。
だからずっと会っていないし、もしかしたら
死んでいるのかもしれない。
そのハルが
お見舞いに来てくれた。
それから
私の実母が来た。
実母はもうとっくに死んでいる。
その母親が夢の中に現れ
私は実母の説明を誰かにしていた。
夫が地震の渋滞に巻き込まれていた。
私は
小高い山のような所に昇ろうとするのだが
山の地肌に足を取られ、ズルズルと落ちる。
昇れないわ、と言って簡単に諦めている。

脈絡のない夢だったが
ハルや
実母が登場して
夢は何を知らせているのだろう、と思った。

夢から覚めて
義母に
「地震、あったか。」と尋ねた。
地震はなかった。
夢の中だけの出来事だった。

夢は
よくこのような午後寝に見ることが多い。
夜中の夢はほとんど覚えていない。



父から電話があった。
「北海道に行ってきて、カニを買ってきたから
旦那の会社の帰りに取りに来るように」と。
いつのまに、父、北海道に行っていたのだろう。
不在の間も
母が一人で過ごしていたことになる。
80歳過ぎて
2度の手術をして
父はまだまだ、一人で北海道に遊びに行けるほどに元気である。
生きているうちに
動けるうちに
好きなことをしておきたい(おそらく、北海道のいつもの友人らとゴルフ)と
思っているのだろう。


今週末、動こうよ、トモロッシ。
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(9/30)おいしいお蕎麦屋さんへ

2013年09月30日 11時01分47秒 | 東日本大震災
今日で9月が終わる。
私の長期休暇(?)も終わり。
いや、もう少し延長しよう。
なにしろ
やろうと想定していたことがまだ終えていないので。
夫の北海道旅行あたりの中盤は
自分自身、かなりのんびりしていた。
少しずつ手をつけていない清掃などやってはいるが
まだまだ遅々として進まない。
就寝が働いていた頃よりも少し遅くなった。
時間を気にしないでテレビを観ていいんだ、と思って
バラエティ番組とか観ていた。
Mステも途中まで観た。
修二と彰のVTRが出る、ということでそれまで頑張って観た。
いろんな懐かしいグループの映像が流れたけれど
チェッカーズの映像が一番良かった。
カッコイイ、他のものとは違う、と思った。

山Pの金田一のドラマも観た。
意外に面白かった。
山Pはこういうのがいいね。
恋愛ものは自分の中で急にトーンダウンする。
だから、月9のドラマは結局観ることはなかった。


どんなに遅く寝ても、
習慣は根付いていて
4時前後に目が覚める。
5時には夫が起きるので朝食のあとに
30分くらい
ダイジローに胴輪をつけて
の散歩に出る。
ダイジローが便秘気味で、体調不良だったことが続いた。
暑さが残っていたのもあるが。
身体を動かさねば、気分転換させねば、と思って

庭に出してみたんだ。
喜んでね、じっとしていたり、ゴロンとしてみたり
草をかじってみたり・・・
おかげで体調が戻った。
便秘もほぼ解消された。
それ以来
ダイジローは
朝の散歩を要求する。
仕事をしていたときは
こうしてのんびりと時間を使うこともできず
ネコたちの相手もしていなかったなあ、と反省。
二階にいるネコたちは
私たちといる時間が長いので、相手もできるが
ダイジローは一階にいる唯一のネコなので
私が寝る時ぐらいしか相手ができなかった。
ごめんね、ダイジロー。


元の職場に行く、と言っていながら
うちを出るのはせいぜい、近所のスーパーへの買い物くらいで
ほとんど街の中に行っていない。
「トモロッシさん、来ないね・・・」と
Iさん、Eさん話していたそうだ。
そうとは知らず
昨日の朝、Iさんにメールをした。
「行かなくてごめんね、メロン、北海道から送られてくるから
それを持って行くね。」と。
午後に
そのメールを見たIさんから返信。
「ちょうど、Eさんと、来ないねえ、と話していたところだ。」と。
一ヶ月か・・職場を離れて。
行けば、何の話で盛り上がりそうかというと
私が
まだ夫に
職場を辞めたことを伝えていない、ということかな。
夫も義母も
この長期の休みについて
全く触れてこない。
わかっているのだと思うが
全く疑問の言葉も出さない、それが彼らのクオリティ。
私の両親だったら
追及され、説教され、罵倒され・・・・

今月の日曜は
夫の北海道旅行を除いて
遠出をした曜日だった。
被災したところを巡ったり
おいしいものを食べに行ったり
事前にネットで調べることが楽しみだった。
これまでの
日曜も仕事で、夫とはすれ違いだった日々の取り戻しのようなものだった。

先週は
岩沼(名取市の隣の市)の田舎家屋の蕎麦屋を目指したが
閉店していて
結局、名取のビール園のジンギスカン食べ放題に。





夫はその前の週に
札幌でジンギスカンを食べたばかり。
曰く
「札幌の方が美味しかった。ここ(名取)のは初めから味付けをしていて
濃い。札幌のは生のを焼いたので味わうことができた。」とのこと。
それでも
スタッフの気配りや笑顔など、満点だった。

その日は
以前行った閖上というところにまた足を伸ばした。





お彼岸ということで

お花が生き生きと飾られていた。



有名な蒲鉾屋の工場跡。
別な所で再開しています。
ここの笹かまぼこが一番好きだ。
名取、閖上等、今少しずつ活気付いてきています。


そして昨日。

夫は前日(土曜日)に
「明日行くところ、決めておけよ。」と言ってくれたので
早速
ネットで検索。

選んだのは
県南、角田(かくだ)の田舎家屋の蕎麦屋。
角田は、数年前に「はやぶさカプセル展示」を観に行ったところです。
ここは正解だった。
おいしいし、環境も私好み。





これ、個人宅の庭です。
2千坪あるそうです。

私たちは
全然、蕎麦通じゃない。
蕎麦の食べ歩きのブログを見ていると
麺のコシがどうの、つゆがこうの、とあるけれど
私たちは批評するほど食べてもいないし、訪れてもいない。
とにかく
おいしさとサービスが良ければそれで良し、の人間なので
自分たちに合った店にたどり着ければいいな、と、それくらい。

まだお昼前(11時過ぎ)だったので
先客は1組。
私たちが食べている間、帰るころにポツポツと来る。




中はこんな感じです。
いろいろと細かいところをチェックしたかったけれど。


中から庭の眺め。

そして


蕎麦はもちろんのこと、添えられた小鉢料理(きんぴら、ほうれん草の胡麻和え)も
おいしいし、杏仁(自家製ブルーベリージャム載せ)がおいしくてお替りしたかった。
天麩羅もアツアツで、量も多くて、夫に一つやった。
これで1300円(写真は夫の大盛で1800円)。

私がここを選んだ目的の一つは

写真、撮りまくり。
私たちの相手をしてくれて、そのあと家の裏の方に消えていきました。

何よりも
静かでのんびりとしていて、自分の田舎で食べている気分がよかったね。
年越し蕎麦もここに決めた。ネットで販売しているとのこと。
義母を連れてきたいね、ここ。
養蜂もやっていた。
もっとゆっくりとじっくりと眺めていたかった。
仙台に帰るまで
いろんな蕎麦屋の前を通ったけれど
車が駐車場に並んでいて、繁盛しているなあと思った。
きっと、おいしいのだろう、評判がいいのだろう、と。
でも私は
この隠れ家のような
のんびりと緑や花々を眺めながら食べるところがお気に入りです。

ということで
来週はどこになるのだろう、と考えています。
寒くなってくると
出かけるのも億劫になるので
来月いっぱいは
紅葉など楽しんでみたいと思います。


昨日行った蕎麦屋のホームページ
空海工房 壽庵
コメント (2)
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(6/9)名取の閖上(ゆりあげ)へ

2013年06月09日 22時12分55秒 | 東日本大震災
閖上・・・ゆりあげ と読みます。


久々のブログである。
日曜日に休みが取れたので
夫とともに
被災地に行ってきた。
先月にも
夫と休みが重なったときに
三陸、石巻、女川へと足を延ばした。
私たちはボランティアができない身だが
こうして
貴重な、休みが重なったときに
できるだけ
被災地を巡って
祈りを捧げ
そこで食事や買い物をしたりしている。
次回は
夫の仕事の関係でよく行っている
相馬(福島県)に行く予定である。

今日は
名取(なとり)の閖上へ。
名取は
月に1回、猫のフードの纏め買いをする所であり
津波の被害にあった場所。
そこより、より海に近い閖上という漁港に行ってきた。
夫は
「ここ、若い時に釣りに来た所だよ。」と言った。
そうだ、私たち、独身時代に夫や友人たちと釣りに来たんだっけ。

市場があった場所に
再び朝市が立ち
早朝からたくさんの人が訪れていた。
そこから車で2分くらいのところに
冒頭の写真の
小高い山がある。
日和山という。

青空になびく国旗が印象的だった。

今でこそ
写真の通り
階段の真ん中に手すりがつけられ(ここを訪れ、祈りを捧げる人々のために寄贈されたもの)、鳥居も立派になっているが
震災直後のこの場所の写真をご覧になってください。
グーグルで「閖上 日和山」で検索すると
当時の状況の写真が掲載されています。







お線香とライターがあった。昨日の雨にも拘らず、きちんと蓋がされて乾燥していた。

抜けるような青空。
こんな美しい空の下、そこにはたくさんの家があったはず。



そこから
新しい家が次々と建設されている名取の町へ。
「閖上さいかい市場」へ。
ここは
本来閖上で営業していた店が建ち並ぶ仮設の市場。
さいかい、とひらがなになっているのは
再開、再会を兼ねているから。
いろいろなイベントもあり
食べ物も豊富。
私がまず買ったのは
絵葉書。


この絵葉書で、三重県に住むブログ仲間に近況を報告したい。
父にもこの葉書で近況を報告したい。


閖上は
日本一の(世界一の)赤貝の産地。
というのを私は知らなかった。
赤貝の閖上ブランドです。
そこで
赤貝にぎりを無料で配られ、私は寿司類を食べないのだけれど
記念に食べました。
おいしかった。
そして
有名な「浜や」という漁亭へ。
ここも津波で流され
ようやく、この「さいかい市場」(や他のところでも)で再開したわけです。
昼食に贅沢な海鮮ちらし丼(夫)、私は大海老丼。

おいしくいただきました。

こうして
被災地が復興で頑張っているところに
ささやかな応援をしています。
もっともっと
お金と時間に余裕があれば
何度も訪れたい。



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(3/11)あれから2年

2013年03月11日 20時48分57秒 | 東日本大震災
昨日の暖かさが幻のように
今朝は
雪がうっすらと積もっていた。

今日は特別な日だ、と思いつつ
早朝家を出る。
あの時も寒かった。
突然の雪が降り出した。
空と陸と海が繋がっているかのように
大地震後の大雪は
今でも不思議な現象としか考えられない。
あの日、雪が降る予報だったのだろうか。
予報外の大雪、人の不安を更に煽るかのように
横殴りに視界を遮るように降り出した。
昨日の天候から
明日(今日)は寒いと予報であるが
雪は降らないだろうと思った。
が、今朝雪景色である。

今日のあの時刻、
私は街の中にいた。
大急ぎで県庁に行くところだった。
この日は
できるだけ記帳に、献花に行きたいと思っていた。
その時刻、間に合わなかった。
そして街の中で2時46分を迎える。
通りでは
黙祷の案内の放送が流れる。
行き交う人、お店の人たちが外に出て
皆立ち止まり黙祷を捧げる。
皆に刻まれているあの時刻の出来事。

急いで県庁に。
別の大きな所で
追悼式をやっているのだが
ここ県庁でも記帳、献花を受け付けている。

一昨日
夫とともに
亘理に行った。
ここは宮城県の南の海沿いの町。
暖かいところで
いちごの栽培が有名だ。
ここも大きな被害に遭った。
かつて
私が
将来老後住む場所として選択をしていた所だ。
南の方に行けば
適度な冬を感じて(豪雪は老後にはきついと思っていた)
仙台にも近いし、田舎暮らしを希望している自分には
適度な人口、など考えて
よく不動産情報を見ていた。
亘理、角田、丸森、川崎、大河原・・・今でも食指は動く。

夫は
海の綺麗なところがある、と教えてくれた。
河口のキラキラとガラスが光るような場所。
一瞬だった。
車の往来の関係で後戻りできなかった。
その後は
ずっと被災地を巡った。
復興には遠い。
ただただ
塩害の田圃と海沿いの家が無くなった跡地ばかりである。
ポツンと時折
祠のようなものが残っている。
それも不思議な気がした。
そこだけ無傷だった。
海に沿って防砂林が残っている。
頑丈な家々が流されて
弱弱しい樹木や祠が残っている。
ダンプが行き交う。
この日も国交省の幕をつけて、ダンプは走る。
風の強い日だった。

あれから2年、3年、4年・・と3月11日はずっと思うのであろう。





癒しのシンノスケの写真を。
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