今日も
目覚まし5回分、気になりながらも起きられず
寝坊してしまった。
心落ち着ける暇もなく
職場に向かった。
昨日は
前日の訃報をかなり引きずった一日だった。
人の死。
そればかり考えていた。
野中のばらさんの死。
突然の死。
孤独な死。
残された猫たちの気持ち。
死因について情報もないし
次の「ねことも」が出ても
ただ1、2行訃報を伝えるだけかもしれない。
それにしても
死というのは
受け止める側の軽重がはっきりしている。
本来なら「死」ほど
厳然な哀しみはない。
他は、何かしら解決できるもの、克服できるものが多い。
借金をしても、病気をしても、職を失っても、失恋しても
生きていればこそ、解決できたり、克服できるものだ。
そのとき、そのとき、絶望的な思いをしても
生きていればこそ
糸口は見えてくるし
時の流れが解決してくれるはずだ。
しかし
死は
それで終わりである。
そして
死に様(よう)、その環境によっては
死の哀しみが倍増する。
先の震災の死、病気で亡くなった同僚、いろんな形の死を見てきた。
見ていてつらい死もあろう。
が
誰かの死を聞いて
あまりピンと来ないこともある。
同じ死でありながら
「そうですか」と言うだけのときもある。
誰かにとって
その愛するものの死は厳然とした哀しみであっても
誰かにとって
それは軽いものとして受け止めることも事実である。
私は今回の
のばらさんの死はショックだった。
漫画の世界でしか知らないはずなのに
それはこれからもずっと続くものと当たり前のように思っていたのに
あまりにあっけない、あっけない。
死ってこんなに簡単にやってくるものなのか。
自分は怖くなった。
自分は
死ぬのはもっと先だろう、と自分で勝手に思っているのだが
死は突然やってくる場合がある。
うちの猫たちが生命を全うするまでは
死ねない、死なない、と勝手に思っている自分。
いや、違う。
意に反して、死は突然やってくる。
急に
「城の崎にて」を思い出した。
今日は大分気持ちが落ち着いてきたが
現実に
あの3匹のネコたちの行く末が心配である。
はかないものだ、生き物って。
飼い主次第で、生き物も「生きること」を彷徨う。
ああ
だから、今、私はこの子たちを大切にしなくてはならない。
今日
父から電話あり。
大腸ガンの宣告。
首の手術よりも緊急性が高いので
急遽、首の手術の病院をキャンセルして
別な病院に入ることになった。
電話での一方的な話なので
事情をつかめていないが
明日からの連休、私は仕事を休めない身だ。
寝坊しないように
さあ、トモロッシ、もう寝なさい。
文章散漫、失礼。