僕たちの天使

私の愛する天使たち、ネコ、山P、佐藤健君、60~80年代の音楽、バイクなどを徒然に語っていきます。

オトメちゃんが母親になっていました。

zooさん、お元気ですか。 もうご承知かもしれませんが、オトメちゃんが お母さんになっていましたね。市川動植物園のHPに 2013年、オトメちゃんがお母さんになっていたことが載っていました。赤ちゃんを抱いてカメラ目線です、オトメちゃん。こんなに嬉しいことはない。またブログを再開してくださることを願っています。 このブログの2014年8月4日の記事を読んでください。

(9/26)久しぶりに、元同僚に会う。ネコキャリーバッグ、good.

2019年09月26日 09時39分13秒 | 日常、仕事、認知症
さすがに4カ月のブログ空白期間を埋めるのは難しい。
順を追って、備忘録のつもりで書いていけばいいのだが
時間、出来事はどんどん蓄積されていく。
ここ数日書かなかった分だけでも、あれもこれもという気持ちになる。
他人から見れば、平凡な小さなことばかりだが。

今月は3連休が2回あった。
連休こそ、仕事が忙しい私である。
体力の衰えや、暑い日々を恐れる自分は相変わらずである。
しかも、風邪を引き、咳痰が止まらない。
肺の機能が半分ほどの感覚である。


体調不調の中、
昨日の仕事は結構スムーズに行き、自分なりに満足した。
そのぐらいの気持ち、もっとあってもいいくらいだ。
とにかく忙しい毎日なのだ。

その気持ちを一日持続させたい、というささやかな希望。
仕事を終えてから、同僚と一緒に、元同僚のお宅訪問というイベントが待っている。
現役の同僚の名をk子さんとしよう。
元同僚の名をm子さんとしよう。

k子さんは、私と誕生日が一日違いの人だ。
m子さんは、私の後から入り、6月に辞めた人だ。
私含めこの3人で、コードブルーやマスカレードホテルの映画を観に行ったりしていた。
夏には、おっさんずラブを観に行こうと約束していた。
ところが、彼女の事情により、惜しまれて6月に退職した。
昨年初め、夫を事故で亡くし、娘さんたちも独立していて、家にネコと彼女のみ。
娘さんの暮らす栃木や神奈川の方に行くと予定していた。
辞めてから一度、送別会をやったのだが、贈り物をきちんと決めていなかった。
漸く、贈り物が決定し、そして私達の仕事の都合と合致し、昨日彼女の所へ行くことになった。
自転車で職場から15分ほどである。

自宅そのものはわからないが、地理的に高校時代、大学時代、あの辺で遊んだなあと
懐かしい気持ちで東北大学構内を横切って、坂を下りていった。

家には、2匹のネコ。
ネコって、初めて訪問する人が怖くて、一目散に逃げてひきこもる。
うちのネコたちもそうだ。

途中、牛タン弁当を買っていった。

これは正解。

私のネコ遊びが始まる。

隠れていたネコが、ネコじゃらしにつられて出てくる。
そこからバタバタと始まる。
馴れたところで
プレゼントの「ネコキャリー」に入れてみる。




キャリーを背負ったm子さん。


これで、病院や災害時の避難、娘さんの所に行く時にもう1匹のネコを別なキャリーに入れて運べる。
両手が空くというのが心強い。
流行りの「宇宙遊泳?キャリー」。
うちでも欲しくなった。

話は一切職場のことは出なかった。
彼女が辞めたあとに、以前いた人がまた戻ってきたのだが
その話は全く出なかった。
うちの姑と私のやりとりに、また彼女は大笑いしていた。
腹の底から笑っている彼女を見て安心した。
また会おうね、と約束して、家の前でお別れするつもりが、ずっと一緒に東北大の構内を歩いて別れた。
いつかまた、3人で映画を観ようよ。

おっさんずラブは、13日に、k子さんと2人で観に行った。m子さんは都合がつかなかった。
その話もした。
私もk子さんも、あの騒々しい映画の中で眠ってしまっていた。
唯一笑ったのが、サウナの中での喧嘩だった。ひしゃくで、本気でぱこーんと頭を叩き、水を思いっきり飛ばした場面だ。
あとは、ストーリーが急ぎ過ぎ。
期待した「笑い」のツボが年をとった自分には合わなくなったのかもしれない。
跳んで埼玉然り。
それでも懲りずに、また何か興味のある映画があったら行こう、となった。

久々に、楽しんだ一日だった。






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(9/9)義母との毎日

2019年09月09日 21時18分46秒 | 日常、仕事、認知症
私が仕事で家を出る時刻は早い時で4時、遅い時で5時半。
3時には起きる。
夫は6時前後に出ていく。

朝のルーティンとして
猫たちのトイレ掃除や水の交換、食餌作り、義母の朝食の準備は
夫がやっている。
夫が不在の数日間、それらを私がやったのだが、
自分の支度とは別にそれらが入ってくるので、3時に起きてすぐにそれらを始める。
義母は寝ている時もあれば、夫のガタガタ台所の音でおもむろに起きて部屋をフラフラしている。
さすがに私の3時起きにはついてこない。
4時には出なくてはならないから、朝食をテーブルの上に置いて数時間後に義母は食べることになる。
猫たちは一辺にガツガツ食べないので、何時に用意してもあまり支障がない。
義母には、お腹が空いた時のために、菓子パンやら菓子を置いていく。
配給制。
菓子の袋を置いておけばいいじゃないか、となるが、残ったものを隠すので、そしてその存在を忘れてしまい、
何かの拍子に数か月後に出てくれば、それを口にすることがあるので、危険だと思い、数個置いておくことにしている。
一時(いっとき)、それらの菓子類が無くなれば、お腹が空いたのか、台所の戸棚の下段に置いてあるストック物を
荒らしたことがあった。ストック物なので、封を切っていないドレッシングなどが置いてあるのだが、ある日、
レモンのドレッシングが台の上にあった。封が切ってある。私が置き忘れたのかと思ったが、
いや、使用のものはまだ冷蔵庫に入っている。義母が何かの飲み物だと思い、開けて口にしたのかもしれない。
勿論、問いただしても、そんなことするわけない!と返ってくる。
これは気を付けなくてはと、それらを棚の上段に移動する。これがまた、私には不便なんだ。
どこにどう置いたかわからなかったり、取り出すのに背伸びをしなくてはならないから不便。
だしの素や砂糖類まで上にあげた。
これで安心と思ったら大間違い。
ラップ、業務用のラップを置いてあるのだが、それは食べ物じゃないので対象外だろうと思うのだが、
ある時やはり、ビリビリと段ボール製の口が破けていた。
どうしてこんなものを、と思って眺めると、その大きな箱の模様が、果物か何かの写真なのだ。
おそらくその写真を見て、食べ物が入っていると思い、力を入れて開けたのだろう。
これも、とがめたって、否定されるに決まっている。
そのくせ、冷蔵庫は絶対開けない。
冷蔵庫の方が色々食べるものが入っているのに、開けたことがない(と思っている)。

そんな義母と毎日戦っている。
昨日の頭に巻いたヒモを取り上げたので、今日は別なヒモ(贈答品に附いているもの)を頭に巻き、首にも巻いていた。
夫は「アミダババアみたいだ」と言ったので、
私はその姿を思い出して笑ってしまった。
若い人たちはわからないでしょうね、明石家さんま全盛の頃の姿。

なんだか、事象を述べて終わり、の文章になった。
3人のバランスについて書こうとおもったのに。
またも時間切れ。
寝る時刻が過ぎた。
トモがニャーニャー、寝床に行こう、と誘っている。

このテンプレート、改行がおかしくなるなあ。


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(9/8)夫、無事帰宅。

2019年09月08日 19時37分26秒 | 日常、仕事、認知症
夫が帰国した。
4泊したことになるのか。
無事帰ってきて安心する。
昨年はそんな思いしたのかどうか記憶にない。
いつもの夕食の時は
義母と夫が向かい合わせで食べるのだが
この数日、夫の姿を見ないことにいつ気付くのかと思っていたが
何も問われなかった。
昨日、漸く、「旦那がいないけれど、どうした?」と聞かれた。
「ベトナム。」
「ええ?!」
「ベトナムってわかる?」
「ソ連の方でしょ?」
「東南アジア。」
これで会話が終わった。正常ならば、目的とかいつ行ったのか、いつ帰るのか、あちらの気候はどうかなど
会話が成り立つのだが、それで終わった。
私も話し方がぶっきらぼうだ。
それよりも、義母の頭に巻いた、荷造り用のビニールテープとつなぎ合わせたみかん入れの網の方が気になる。
猫用の遊び道具として昔私が作ったものだ。どこから引っ張り出してきたのか、赤い物を見れば身に着けたくなるのか
頭に巻き付けていた。
「寝る時は危ないから取ってよ。」と話はそちらの方に行った。
夏バテにウナギを食べようと、九州産のウナギを買ってきて義母に夕食として出したのだが
「朝からこんなものを食べろって言うの!」となぜかご立腹。
「今、夕食でしょ。」
結局ウナギ、残した。先にフルーツやサツマイモを食べてしまうので主食は後回しにしているうちに
残してしまうのである。
ウナギ、焼き肉、天ぷら、揚げ物、こってりしたものが好きな義母なのにね。

その夫と義母と私のバランスについてちょっと書こうと思ったのだが
夫がネットをするというので、ここで中断。
また休みの日にまとめよう。
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(9/6)都会のカマキリとトンボ

2019年09月06日 09時21分54秒 | 日常、仕事、認知症
昨日と今日は仕事が休み。
夫は一昨日からベトナムへ旅行。
鬼の居ぬ間に洗濯。
文字通り2日間洗濯に費やす。
そして
梅雨辺りに庭の雑草取りをして以来、数カ月ぶりに
よく伸びた雑草を昨日の曇天下、手をつける。
東側の庭のほんの一部だけなので、南側や西側が終わる頃には冬になっているかもしれない。
あまり先を悲観せずに地道にやっていこう。
やらないより、ましだ。
今日は昨日と違って朝から暑い。
よって、風の出てくる夕方に着手しよう。
長い長い草を引っこ抜いていると、隠れていた蜘蛛や鈴虫たちが驚いて出てくる。
そしてカマキリも出てくる。
3匹ほど捕獲して、刈り取っていない樹木の下の草叢に放り投げる。
フワッと葉の上に降り立つカマキリ。
カマキリの生態については全く知識がない。
緑色、黄色っぽいもの、茶色と3色のカマキリたち。
擬態ってするのかな、カマキリ。
それとも違う種類?
見た目のいかつい姿よりも、小さい細い儚い姿のカマキリが結構愛おしくて好きだ。
うちの庭のどこかで子供を産んで大きくなったのかもしれないカマキリ。
今日のゴミ出しに、昨日の刈った草を少しずつ袋に入れていく。
紛れ込んでいるかもしれないのでね。

そして今朝はその庭でトンボが10匹ほど旋回している。
どこから来たのであろう。
今も2階の窓から眺めたがずっと旋回している。
こういう眺めも嬉しい。
都会のカマキリとトンボ。
日常の仕事や家事に追われると、それらに目が行くことも少ない。
が、こうして休みになると、それらの存在に気づかされるのが嬉しい。
あまりに心の余裕がない日々である。

もちろんカエルたちもどこかに潜んでいるし、梅雨頃、産まれた子ガエルが
庭でチラチラ姿も見かけているので今年も生命は引き継がれてたと安心している。

これから掃除をする。

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(9/2)New Year's Day - 令和になって初めてのブログです。

2019年09月02日 10時34分39秒 | 名曲
New Year's Day - U2


令和時代に入って初めてのブログ。
恥ずかしい限りです。

春が過ぎ去り、さあ令和時代に突入、心機一転、ブログを更新しようと
思っていたのが
初夏が去り、梅雨が去り、暑い暑い夏に突入していた。
その夏の猛暑の勢いも去りつつある9月、私にとって「惑いの季節」(3月と9月を18歳の時に命名した)に入って、いよいよ更新しようという気持ちになった。
18歳の頃は、夏が終わっていくのを9月の雨で実感していた。受験生は夏休みを勉強一色で、
充実させていたことだろう。
私は全くその実感がなかった。
今、年をとって、猛暑の収まりを見て、9月は有りがたい、行動の季節(とき)と思っている。
昨年の夏、義母の「熱中症」を心配していた。暑さの自覚が無く、重ね着をしては私達に叱られていた。2回ほど、その兆しがあり、幸い、私達が家にいた時だったので、事なきを得た。
老人の熱中症がニュースなどで取り上げられれば、それをよく義母に言い聞かせていたが馬耳東風であった。
が、その熱中症、この私に襲った今年。
街の中でよくそれに似た症状で具合が悪くなったと、ブログで書いてきた。
今年もそれだった。
家に辿り着く寸前だった。倒れるまで、何度も自転車を降りて、道路に転がった。
あと400メートル、300メートル、と倒れる寸前に自転車を降りては座り込んだり、寝転がったりした。
そしてあと100メートルでたどり着く、というところで再び、アパートの駐車場で座り込んだ。
このまま無理して自転車を漕いでいたら、意識が無くなって転倒して頭を打つ、という危機感は持っていたので、もうだめだと、降りた。
地面が熱い。日陰を選んでも、地面も空気も何もかも熱い。
すると、通りがかった人が声を掛けてくれた。一人が声を掛けると、次々と声を掛けてくれた。
「そのまま座っていて。私はこの辺に住んでいるので、自宅から何か冷やすものを持ってくるから。」と走り去った。
座ってもいられなくて、コンクリートの上に寝そべった。その間、色々な方が声を掛けては励ましてくれたが、答えること、声を出すことも苦しかった。
親子が戻ってきて、冷たい氷嚢や小型扇風機を当ててくれた。
座っていたのが、寝そべっていたので、「救急車を呼ぶ。」となった。
少し自分の事情を話した。何しろ、すぐその路地を曲がってまっすぐ行けば自宅なので、なんとしてでも帰りたかった。姑もいること。
自宅が目の前にありながら、帰れないつらさ。
皆で懇々と救急車の説得をしてくれた。
「病院に行かなくてもいいのよ、涼しい救急車の中で色々と手当もしてくれるから、今家に帰っても、倒れたら大変、専門家に診てもらいましょうよ。」と言われて初めて納得した。
そうだ、救急車の中で、何とか快復するかもしれない、そのまま自宅に戻れるかもしれない、と彼女たちのアドバイスに従った。
ほどなく救急車が来た。あのピーポーという音が近くで止まると、一体どこの家の人だろう、と一般に思うであろう。
何人かいたのだが、顔を見ることができなかった。
そして、救急車の中で隊員たちと会話する。血圧も図る。心電図も。
私は帰宅することを前提にしていたので、涼しい所に身体を横にして、意識もあり、言葉も発せられることをアピールした。
名前、年齢、「今日は何日?」の質問等に答え、日にちは1日間違えた。夫の電話を聞かれたが、携帯の番号がわからない、あとからわかったことだがうちの隣の方々が夫の会社に電話をしてくれ、事情を説明して夫を探してくれた。夫と電話で話したが、耳が聞こえないため、隊員の方が替わって話してくれた。「家に戻れるのか。」と聞かれ、「戻る。」と言った私。

そして電話を切って、しばらくして「もう大丈夫です。」と言って立ち上がったとたん、再び具合が悪くなった。吐き気と右腕がしびれてきたのである。こんなしびれ、今まで経験していない。またベッドに横たわった私を見て、隊員は「このままではだめだ、家に入っても倒れたままですよ。病院に行きましょう!」これ以上、隊員の責任問題になったら大変だ、具合の悪さはこれからどう変化するかわからない、病院に行く、と素直に従った。
そして、救急車は出発する。「Sさん(私の名字)、近所の方々、皆さん心配していましたよ。」と隊員に言われる。
病院は街の中で、他にも数名同じような患者がいた。
点滴と血液検査。そして身体を休める。動悸も落ち着いてきた。
やはり、あのまま帰ったら、事の重大さは誰にも分らない。
夫や姑の食事の準備もしなくてはならない。そのまま寝ていたら、疲れて帰宅した夫に「具合悪くて寝ていた」と言っても、ただただ、カチンと来るだけかもしれない。
病院で休んでいる間、自分の会社にメールで連絡した。翌日出勤だからだ。早朝3時に起きて、ハードな仕事をこなすことに自信がなかった。また、倒れたら・・・と頭をよぎる。
しかし、急なこと、しかも翌日は日曜なので、シフトをすぐに替えることが難しい。
それでも一応頼んでみようとなった。
上司は、自分も含めて2名でヘルプすると返事をよこした。だが、会社から遠い彼らの家では
早朝の出勤は難しい。タクシーで来なければならない交通手段だった。
そういうわけにはいかないので、とにかく家ですぐ休んで翌日早朝出勤することにした。
夫が病院に迎えに来た。
ごめんなさい、夫。仕事が忙しいのに、会社に迷惑をかけてしまって。

姑に、私が救急車で運ばれたことを説明してもわからない。
ただ、憮然とした表情はあった。
エアコンが切れていた(その日はタイマーセットし、帰宅したときには切れていた)。それも心配だったんだ。
翌日から、エアコンは四六時中点けっぱなしにするようになった。
遅い時刻だったが、最初に声を掛けてくれた親子の家に、病院から戻ったことを報告に行った。
自転車は自宅のいつもの置き場所に戻っていた。
誰が戻し、誰が夫の会社に連絡してくれたのか一切わからなかった。

そして翌朝、いつものように出勤した。
もう一人の同僚が、上司から連絡を受けていたようで、
「帰っていいよ、大丈夫だよ。」と言ってくれたが、
朝の準備のことは上司が来ても細かいところはわからないので、やれるところまでやることにした。
上司が来た。2人来た。なんと社長自ら来た。(敬語表現ダメですね。)
帰って休むように、と言われる。
まさか社長にまで伝わっていたとは。

翌月曜、火曜は続けて正規の休みなので、休息の日々とした。
その間、向かいの家に、あの日のことを聞きに行った。
私に最初に声を掛けて助けてくれた人のことも同じ町内会ということでよく知っている方だと言っていた。
自転車もその方が戻してくれた、夫の会社の電話も、うちの隣の方が(よく、うちの駐車場に夫の会社の車が停まっているので、会社名を覚えていた旦那さん)電話してくれた。
などなど、わかった。

隣の家にも挨拶に行った。ちょうど旭川の妹から例年送られてくる北海道メロンなどを持参して
あの日のことを説明した。

改めて、あの親子の所にメロンやら子供たちへの菓子やら持参したが、夏休みのせいか、ずっと留守だった。
ようやく連絡取れたときには、子供たちしかいなかった。
子供たちは私に小型扇風機やうちわであおいでくれたんだ。
「また、こういう人たちを助けられる素敵な大人になってください。ありがとう。」と御礼を言う。息子たちが、私がそのように言っていたことを率直に母親に伝えてくれたらいいのだが、
言葉少ない世代(中3)の子はどのように伝えたであろうか。

そして職場では。
私達が働いている場所2か所、エアコンが壊れているのだ。
そんな状態の所で仕事をしていた。
窓もない、風の流れがない。
あちこち開けて流れをよくしていたが、とても追いつかない。
扇風機も用意してもらったが、デスクワークでもない、肉体労働なのだ、
換気の悪い所でずっと働いていた。
アルバイトの私が訴えても、エアコンの工事は日にちがかかるから来年・・・などと言われていた。
いや、ここであなたたちも会議をするでしょう、精神で我慢して耐えられるものじゃない、人命にかかわること、などと言っても現状維持だった。
そんなときに私が倒れ、上司が私たちの代わりにヘルプに来て、おそらく汗だくで働いたことであろう、身をもってこの暑さを体験したであろう、エアコンの工事、急遽入ることになった。
調査して、一週間ほどで入れ替えるから、となった。
同僚曰く「Sさんのおかげでエアコン、工事決まったからね。」だって。
この同僚については後に詳細を。
彼女に何度か訴えて、上司に掛け合ってほしい、と頼んできたが、自分は別に大丈夫、という人で、壊れたら壊れっぱなしでも、会社にものが言えない人である。
それがこの言い方だ。
私が倒れたから、エアコンを交換することになった、というにはあまりに切ない理由ではないか。もっと、仕事をやる現場として、サービス業として、不快な空気のままにサービスを提供すること自体おかしい、夫にも言われる。
会社のエアコンが壊れていたことが直接の倒れた原因ではないが、もう一人の同僚も、仕事後帰宅しても、体調が芳しくない、と言っていたので、30℃超えた職場での仕事も一因であると思っている。
何より、私自身の体力の無さ。湿度に弱い身体。数年前にも仕事場で、倒れるのを予測して、自ら身体を横たえた姿を同僚が2回ほど見ている。
食事もきちんと摂っていないこと。早朝からの仕事なので、家を出る前には何も口にしていない。職場でも少し食べたり食べなかったり。遅い昼食は、よく行くパン屋でパンを買って姑と食べる日々だ。あの倒れた日も、パン屋で具合悪くなり、レジの前でしゃがみこんだ。汗が猛烈に出てきて、他のお客さんに迷惑をかける、と思い、店の人にすみませんと謝り、外に出たら暑さが襲い、木陰で休んだものの座った所すべてが熱かった。そう、そして救急車騒動である。

あれ以来、ちょっとした登りの道も自転車を降りる。
あれ以来、弱気な自分である。
あれ以来、同僚はエアコンが取り付けられるまで、私の背中に扇風機を持って当てる。彼女なりに気を使っているのだ。

あれから一カ月だ。
夏の暑い盛りだった。異様な暑さだった。
七夕も、自粛。いつもの盛大な飾りを観に行くこともしなかった。
人混みの中を歩くのも怖かった。
お盆になると母の墓参りや舅の墓参りも気になったが、今年は行くことが怖かった。
倒れた翌日は父の米寿の誕生日だったが、その祝いの言葉もなく、墓参りを別な時に、と
メールを送った。
お墓、蝉の鳴き声の響き渡る真夏の光景をよぎらせると、暑さに閉口している自分も想像できた。


長々と書いてしまった。
令和を丸4カ月過ぎて振り返ると、まずそのことが引きずるように出てくるのです。
相も変わらず、夏は庭の草取りはせず、ぼうぼうに伸びた雑草、樹木に、まもなく、まもなく、とつぶやきつつ、9月、雨が降る日に、雑草と戦うのです。

冒頭のU2のこの曲、80年代の衝撃の名曲でしたね。
新しい年の日々ということで。
来日したとき、83年でした、渋谷公会堂で観ましたよ。
その後、bigになり、来日公演の場所はドーム型になった。
このノリが私の原点。
























































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