2日(火)。わが家に来てから今日で521日目を迎え、オヤツが遅いので、白ウサちゃんにかじりついている野蛮なモコタロです
この写真 ちょっと ソフトフォーカスっぽくね? ボケてるだけか!
閑話休題
昨日は息子の大学の卒業決定者が掲示されるというので、自分の目で確かめたくて 葛飾キャンパスに行ってきました またしても何を勘違いしたか常磐線/日比谷線の金町駅に行くべきところを町屋駅で降りてしまい、駅員さんに「〇〇大学の葛飾キャンパスはどっちの出口でしょうか?」と尋ね、「本当に町屋ですか?」と逆に尋ねられてしまいました 慌ててスマホで大学のアクセス情報を検索して金町の間違いであることが判明しました 我ながら「どーしてこうなんだろう 町屋でいいのか ちょっと待ちや!となぜ自問しなかったのか」と呆れました。さすがに金町駅から大学までの道順は2度目なので覚えていましたが
研究棟の9階の廊下に卒業決定者の学籍番号一覧表が掲示されており、息子の番号もあったので一安心しました 大学院への進学は内定しているので、あとはそれが正式に決定すれば二安心です
それにしても、1月には青砥の「かつしかシンフォニーヒルズ」に行くべきところを亀有(これも常磐線/日比谷線!)の「リリオホール」に行ってしまったり、どうも常磐線沿線には縁が薄いみたいです
も一度、閑話休題
昨日の夕食は、「サバの塩焼き」「生野菜とワカメとシャケのサラダ」「ホウレン草のお浸し」「アサリの味噌汁」を作りました あとは「マグロの剥き身」です サバは5切れで400円弱でしたが、脂がのってて超美味しかったです
最後の、閑話休題
村上春樹著「雑文集」(新潮文庫)を読み終わりました 村上春樹のことは解説しなくてもいいですね。要するに芥川賞も直木賞も受賞していないけれど世界中で作品が翻訳されているノーベル文学賞候補者です
この本は、デビュー小説「風の歌を聴け」新人賞受賞の言葉から、人物論、小説論、音楽の話、人生論など、多岐にわたる「文章」をかき集めた文字通り「雑文集」です
最初から「自己とはなにか(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」なんていう文章が出てきて、「いったい何のこっちゃ?」と面喰います これは、読者から「就職試験を受けたら『自分自身について説明しなさい』という作文の問題が出されたが、どう書いたらよいか?」という質問に対して、村上春樹が「自分は牡蠣フライが好きなので、牡蠣フライについて書くことで、牡蠣フライとの間の相関関係や距離感が、自動的に表現される。それはすなわち、突き詰めていけば、自分自身について書くことでもある」と答えているものです これを彼は「牡蠣フライ理論」と称しています
ここからは音楽に関する文章を中心にご紹介します
『ステレオサウンド』という雑誌に寄せた「余白のある音楽は聴き飽きない」というタイトルの文章では、
「オーディオ雑誌でこんなことを言うのもなんだけど、若いころは機械のことよりも音楽のことを第一に考えた方がいいと、僕は思うんです 立派なオーディオ措置はある程度お金ができたら揃えればいいだろう、と。若いときは音楽も、そして本もそうだけど、多少条件が悪くたって、どんどん勝手に沁み込んでくるじゃないですか いくらでも心に音楽を貯め込んでいけるんです。そしてそういう貯金が 歳を取ってから大きな価値を発揮してくることになります」
と書いています。これは身に染みて同感しますね
クラシック・コンサートについては次のように語っています
「ヨーロッパに住んでいたころ、クラシックのコンサートによく通いました。それでよかったなと思うのは、やっぱりレコードなどでは分からないことってありますよね。たとえばロリン・マゼールをローマで聴いて、『マゼールってこんなにいい指揮者だったっけ?』って本当にびっくりしました ジョルジュ・プレートルがベートーヴェンを振ったコンサートも見事だった レコードで聴くプレートルの印象ってなんかちょっと薄いめで、とくになんていうこともない指揮者だなあ、と思っていたんですけど、実演だとまるで違うんです 音楽が隅々まで生きて動いていて、それが目に見えます。そういうのって、コンサートじゃないと分からないですよね」
LPやCDで聴くと良いのに、生で聴くと大したことのない指揮者の方が多いような気がします まさにマゼールがそうでした。80年代だったと思いますが、東京文化会館で彼がクリーヴランド管弦楽団を指揮してブラームスの交響曲(何番か忘れた)を演奏したのですが、ちょちょいのちょい といった感じで指揮したので、何の感慨もありませんでした
また、CD録音でクラシック音楽を聴くことについては次のように語っています
「大編成のオーケストラもの、マーラーのシンフォニーなんかの最新録音を、CDで聴くとしますよね。そういうのって、本来うちのシステム向きではないはずなんだけど、不思議にひとつの世界に収まった音がするんです 本来はこんな音で聴く音楽じゃないんだろなと思いつつも、『それはそれ、これはこれ』という枠内で、ある程度納得して聴けちゃうんです」
確かにそういう側面はあると思います 意味は少し違いますが、私が独身時代に、自室でマーラーの交響曲をフル・ボリュームで聴いていた時は、ガラス戸がビリビリと震えていました 一戸建てだからできたことで、今住んでいるマンションで同じように鳴らしたら、途端に上下左右からのクレームの嵐に見舞われることでしょう
また、「音楽における空白」についてこんなことを語っています
「何て言うのかな、ビーチボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンのつくった音楽には空白みたいなものがあるんです 空白や余白のある音楽って、聴けば聴くほど面白くなる ベートーヴェンで言えば、みっちり書き込まれた中期の音楽より、後期の音楽のほうが より多く余白があって、そういうところが 歳を取るとよりクリアに見えてきて、聴いていてのめり込んでしまう 余白が生きて、自由なイマジネーションを喚起していくんです。晩年の弦楽四重奏曲とか『ハンマークラヴィア・ソナタ』とかね」
これを読んで、いま思ったのですが、村上春樹の作品にはヤナーチェクやベートーヴェンやバッハやシューベルトは出てくるけれど、モーツアルトは出てこないような気がするなぁ これはどういうことだろう? 村上春樹は強いてモーツアルトの音楽を避けているのか それとも私が知らないだけのことだろうか
音楽+文学論ということでは次のように語っています
「音楽にせよ小説にせよ、一番基礎にあるのはリズムだ。自然で心地よい、そして確実なリズムがそこになければ、人は文章を読み進んではくれないだろう 僕はリズムというものの大切さを音楽から(主にジャズから)学んだ それからそのリズムに合わせたメロディー、つまり的確な言葉の配列がやってくる それが滑らかで美しいものであれば、もちろん言うことはない そしてハーモニー、それらの言葉を支える内的な心の響き。その次に僕のもっとも好きな部分がやってくるー即興演奏だ」
これを読んで、なぜ村上春樹の作品に惹かれるのかという理由が分かったような気がします 要は文章のリズムです 彼の文章には独特のリズムがあります