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今から50年前の9月29日。
田中角栄総理大臣と中国の周恩来首相が日中共同声明に調印し、日本と中国の国交が正常化した。
歴史が動いたその時、日本の政治家や外交官は中国側とどのような交渉を行ったのか。
大平正芳外務大臣の秘書官として訪中した元外交官が舞台裏を語った。
(岩澤千太朗)
ぶっつけ本番の旅
「成算が無いまま中国に行ったんです。国交がないから中国政府と本当の話ができないんですよ。ちょっと表現が悪いんですけど、『ぶっつけ本番の旅』ですね」
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50年前、藤井は大平正芳外務大臣の秘書官を務めていた。
総理大臣の田中角栄や、外務大臣の大平正芳が訪中した際、大平と行動をともにした。
都内でインタビューに応じた藤井は、記憶の糸をたぐるように語り始めた。
「ジェットコースターに乗ったような気分でしたね。はじめは国交正常化できないかもしれないと。本当にダメで振り落とされてしまうかもしれないと。それが振り落とされずに無事に戻れたという感じですね」
訪中前に遺書も
1972年9月24日夜。
田中をトップとする訪中団の一行は、出発を翌日に控え、羽田空港近くのホテルに宿泊した。しかし、そこでの食事会は…
(元外交官 藤井宏昭)
「会話はあんまり無いですよ。笑い声なんてほとんど無く、みんな沈うつな気分で飯を食べた。本当に国交正常化がなるのか分からなくて、暗い気持ちだったんですね」
藤井によると、国交正常化ができるという確証が持てない中、大平は、訪中前に遺書までしたためていたと言う。
「中国で何が起きるか分からないという気持ちもあったのかもしれないですね。命を賭してというのかな。遺書を書くことで大平さんは、自分の気持ちを吹っ切らせる効果があったのかなと」
訪中を決めた瞬間は
この2か月前の1972年7月、田中が総理大臣に就任。
田中は、翌月の15日、中国訪問を正式に発表する。
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田中はなぜ、訪中を決断したのか。
決断の前に、公明党委員長の竹入義勝が独自のルートで中国の首相・周恩来と会談し、その内容が政府にもたらされたことが大きいと言う。
藤井は、中国が日本に戦後賠償を要求しないとした点が重要だったと、証言した。
「『竹入メモ』って当時言われてましたけど、一番大きなところでは、『中国は賠償金は取らない』って書いてあるんですね。田中さんのところに大平さんはすぐ飛んで行ってね。それでメモを見て『うん、行こう』となったわけです。僕は総理の秘書官室かどこかで待って、帰りの車で大平さんから『もう(訪中を)決めたぞ』って」
当時の国際情勢は
藤井が「ぶっつけ本番の旅」と表現した、田中と大平の中国訪問。それは、激変する当時の国際情勢のなかで、日本政府が、なんとか主導的に東アジア外交を進めようと打ち出した、リスクをはらんだ賭けとも言える一手だった。
中国訪問に至った当時の国際情勢として、藤井が1つ目に挙げたのが、いわゆる「ニクソン・ショック」だ。
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日米関係は盤石と思われていた中で、日本の頭越しに突然起きた米中の接近。
「日本が『置き去り』になるのではないか」などと、国内に大きな衝撃を与えた。
さらに挙げたのが、中国側=北京の共産党政権からの視点だ。
当時のソビエト連邦との、共産主義の国同士の「中ソ対立」のなかで、中国も日本との国交正常化を欲していたという。
ただ、この点は、当時、日本側にはあまり見えていない部分だったと振り返る。
アメリカへの根回し
こうした国際情勢の中で、日中国交正常化交渉のための中国訪問を固めた日本政府。
大平は速やかにある行動に出る。
それは、アメリカへの事前の根回しだった。アメリカは、大統領の訪中は果たしたが、まだ中国との国交は樹立していなかった。
(元外交官 藤井宏昭)
「アメリカより先にかなり重要な外交政策をやるのは戦後の日本では珍しいことなんです。だから大平さんはアメリカのニクソン大統領に仁義を切っておかないといけないと考えた。緻密な方ですから。『北京にまっすぐじゃなくてアメリカ経由で行くんだ』ってね」
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「大平さんは、往路は非常に緊張していたが、帰りは、よっぽど嬉しかったんですね、アメリカの了解が取れたって。鼻歌を歌ってね。何とかの第二国道っていう歌でしたね」
難航する正常化交渉
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藤井はその時の様子をこう回想する。
「周恩来首相が出迎えに来てくれましたね。それから儀仗兵もいましたけども、それしかいないという。出迎えとしては立派なんですけど、何というか非常に寂しいような」
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しかし、出ばなをくじかれることになる。
晩餐会での日中戦争に関する田中の発言に中国側が不快感を示したのだ。
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「田中総理は、日本は中国の人民に対して『ご迷惑をおかけした』ということを言ったんですが、翌日午後の首脳会談で周首相が『迷惑』っていうのは非常に軽すぎると。中国語で言ったら非常に軽いんだっていうことを述べてね」
さらに、具体的な交渉の内容でも日中間で大きな溝があった。日本と台湾との関係だ。
中国と国交を結ぶということは、これまで国交を結んできた台湾との関係を事実上、切り捨てることになる。
「最大の案件はやっぱり台湾です。中国は、日本と台湾が結んだ日華平和条約は『不法であり、効力を有しない』と言うんですよ。日本は『不法であり』というのは絶対に受け入れられない」
台湾をめぐり、表現ぶりをどうするのか。
協議は平行線をたどり、時間だけが過ぎていった。
雰囲気を変えたのは…
訪中2日目、9月26日の夜。
この日の外相会談でも大きな進展はなく、悲観的な気持ちで大平たちは報告を待つ田中の元へ向かった。
(元外交官 藤井宏昭)
「中国とは全くの平行線でらちがあかない。非常に絶望的な気持ちで、もうダメかもしれないという、一番苦しい時でした」
ところが、大平から報告を受けたときの田中の対応は、意外なものだった。
「みんな驚いたのは田中さんがいやに快活なんですよ。話を聞いても『そうか』という感じでね。それで誰かが『総理どうしたらよろしいですか?総理だったらどうしますか?』って聞いたんですよ。そしたら田中さんが『そこはお前ら大学を出た連中が考えろ』って」
藤井は、田中のこのふるまいが、訪中団の雰囲気を大きく変えたと感じた。
「田中さんの明るい態度と応対で、みんながぱっと明るくなったんですね。これは後で気づいたんですけど、田中さんは鋭敏な直感力で、利害と利害が対立してどうにもならない問題ではなく、言葉で解決できると考えたんじゃないかな」
車内で信頼関係を構築
9月27日、交渉3日目。
田中と大平は万里の長城に見学に向かった。車内で大平は中国の外相・姫鵬飛と隣り合って座った。
同乗した藤井は、2人がここで信頼関係を築くことができたと振り返る。
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(元外交官 藤井宏昭)
「会談の場合は大勢いて記録に残るから正式なことを言わなきゃいけない。だけど車に乗って隣にいると、いろんなことが話せて人間的な付き合いができるわけです。行き帰り合わせて4時間くらい『大使の交換をいつにしようか』とか、ずっとやっていましたね」
言葉による解決
台湾との関係について、どうすれば中国側と折り合えるのか。
交渉で中心的な役割を担った大平と外務省の事務方は、連日、知恵を絞った。
そして、外務省の事務方が考え出した1つの言葉をきっかけに交渉が大きく前進する。
(元外交官 藤井宏昭)
「『不正常な状態』っていう言葉がキーなんですよね。案を出したのは橋本さん(当時の外務省中国課長)。日本側の解釈は(台湾との)日華平和条約は有効だったけれども、中国全体と日本との関係では不正常だったと。中国の解釈は、今まで不正常な状態だったということは、日華平和条約は無効で、これから共同声明によって有効な関係を結ぶことができるのだと」
この言葉は、日中共同声明に次のように盛り込まれることになる。
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
日本と中国の双方の側から主張を通すことができる言葉が見つかり、正常化への道が開かれた。
共同声明に調印、台湾と断交
そして迎えた9月29日。
田中と大平、周恩来と姫鵬飛は、日中共同声明に調印した。
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日本と中国が国交を樹立した歴史的な瞬間だった。
藤井は、晴れがましい田中の表情とは違い、緊張した大平の様子を記憶している。
「大平さんは調印式が終わっても大役があって、非常に沈うつというか、緊張していました。毎日、朝から晩まで隣にいるから、その気持ちはすぐに伝わってくるんですね」
共同声明に調印したあとの記者会見で、大平は次のように述べた。
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会見場で、記者たちは慌てふためいたという。
(元外交官 藤井宏昭)
「日台の関係が切れたということを宣言したわけです。国交は断絶すると。記者は、会見でそういうのが出てくるとは思っていなかったから、とにかく騒然としていました」
大平には中国と国交を樹立したあと、間を置かず台湾との断交を表明することで、混乱を避ける狙いがあったと藤井は解説した。
「(台湾との関係は)中国との交渉では非常に重要な部分で、それを大平さんは記者会見でやっちゃおうと。日本へ帰ってやったら、また騒然としますからね。だから記者会見でやっちゃって『全部それでおしまい』っていうのが大平さんの気持ちでした」
本当の意味での正常化
だが、この段階ではまだ本当に“全部おしまい”ではなかったのだという。
田中と大平は、当時、台湾にいた日本人に危害が加えられるような事態が起きないか危惧していた。
調印した日の午後、訪中団一行は、人民公社を視察するため、首相の周とともに北京から上海に向かった。上海の空港に到着すると、藤井は大平の指示を受けて一行から離れ1人宿舎に向かった。そこで、外務省中国課の首席事務官に電話をかけた。
藤井:「台湾の情勢はどうだ?」
首席事務官:「いたって平静です」
携帯電話のない時代。
藤井は、宿舎の玄関で田中と大平を待ち構えた。
(元外交官 藤井宏昭)
「玄関の階段の前で待っていて、一行が現れるわけです。車を降りた大平さんに『台湾、いたって平静だそうです』とまず耳打ちしてね。大平さんがすぐ田中さんに同じことを言ったら2人とも本当に安堵して。これで国交正常化は成功したなって」
藤井は、このときが本当の意味で国交正常化を成し遂げた瞬間だったと力を込めた。
胆力と緻密さと知恵
中国での5日間を語り終えた藤井はこう続けた。
「非常に肝が据わった総理の胆力と、緻密で物を深く考える粘り強い外務大臣。2人の気があって一心同体でね。それから外務省の事務方の知恵。3者の呼吸がぴったり合った。ずいぶん長い間外交官をやったけど、本当にそれを感じた5日間でした」
さらに、藤井はもう1つ、忘れられないエピソードがあると明かした。
それは共同声明に調印したあと、北京から上海に移動した飛行機の中での出来事だった。
田中と周が首相どうし、隣の席に座っていた。
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「田中さん、疲れちゃったんでしょうね。眠りだしたんですね。大平さんに『起こしましょうか』と聞いたら、『いいよ、いいよ』と。周首相も、もちろん気付いて『寝かしておきなさい』と言っていました。それで大平さんと周首相が話をしていましたね」
豪放磊落な田中と寛容な周。
この2人だからこそ国交正常化を成し遂げられたのだと、藤井は感じたという。
今後の日中関係は
あれから50年。
いまの日中関係を藤井はどうみているのか。
経済を成長させ軍事力を増強してきた中国は覇権主義的な動きを強めている。
藤井は、日本は防衛力を強化するとともに、中国との対話が重要だと強調した。
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さらに、手元に準備していた、かつて仕えた大平の演説の一節を読み上げた。
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日本外交に求められるものは
インタビューは、休憩を取りながらおよそ2時間に及んだ。
藤井は、静かに、そして時に熱っぽく当時を語った。
言葉の端々から政治家や官僚の息づかいを感じ、取材した私は50年前にタイムスリップしたような錯覚に陥った。
そして田中の胆力と大平の緻密さを骨格とした日本外交のチームワークに思いをはせた。
日中関係は、いま尖閣諸島をめぐる問題や台湾情勢をめぐり、課題は多い。
50年前、先人たちは遺書をしたため並々ならぬ覚悟で中国との国交を樹立した。
そこに日中関係改善の糸口を探るとすれば、必要なのは、リーダーの胆力と、激変する国際情勢を冷徹に見極め、現実的な次の一手を見いだすチーム力なのではないか。
いまこそ日本外交の真価が問われている。
(文中敬称略・肩書きは当時)
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- 政治部記者
- 岩澤 千太朗
- 2016年入局。初任地は大阪局で2021年から政治部。“総理番”を経てことし8月から外務省を担当。ブルーベリー農家の長男で、現在、入局後3回目の肉体改造中。
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