静岡県浜松市で起きた「運動会の大福中毒」 #1
小池 新 2020/06/07 文春オンライン
新型コロナウイルスの感染拡大では、当初一部で「バイオテロでは?」といううわさが流れた。5月5日付日経新聞朝刊には、イギリス・エコノミスト誌の「生物兵器、高まる懸念 防衛後手」という記事が載っている。そこでは、「生物学的な脅威に対して、米経済と世界経済が脆弱なことが明らかになった。このことは、もし生物兵器による攻撃を受けたら、その打撃はとてつもなく大きくなることを示している」というアメリカの研究者の談話を紹介している。
今回はっきりしたのは、感染症の怖さは、病状が悪化して死に至ることもあるだけでなく、社会を不安と恐怖に陥らせ、人々を疑心暗鬼にさせて自粛と萎縮で心身に大きなダメージを与えること。そして、同じようなことが84年前の日本で起きていた。
死者は44人 静岡県浜松市で起きた「運動会の大福中毒」
空前の出来事なのに、記録にも人々の記憶にもあまり鮮烈に残っていない。歴史の中にはそんな事件や事故もある。静岡県浜松市で起きた旧制浜松一中の運動会での食中毒事件などは、その典型だろう。「浜松市史(三)」によれば、大福餅を食べて発症した人は実に2296人、死者は44人というすさまじい規模。「浜松市民を混乱と恐怖に陥れ」「新聞、ラジオなどを通して全国に報道され、国民の耳目を驚かした」が、東京や大阪から離れた場所だったことと、直後に発生した「大事件」に話題を奪われたからか。しかし現場には、のちに細菌戦部隊として知られる陸軍「七三一部隊」のトップとなる人々らが大挙して駆けつけていた。
奇妙なことに、警察の正史である「静岡県警察史」の事件の記述もわずか6行で「1400人が中毒症状、38人死亡」とあるだけ。浜松市史も記述は簡略。浜松一中の後身である県立浜松北高の「浜松北高八十年史」が、当時の「校友会誌」の記述も引用し、毎年恒例の運動会の模様から具体的に記述している。
浜松一中は1894年開校。5年制で計20クラス。生徒数は約1000人だった。「天気晴朗、青空には一片の雲もなく、浜一中健児の意気、いやがうえにも上がった」「生徒も教師も最大のリクリエーションを楽しみ」……。ハイライトは「三方原合戦」を模して、剣道着と面を着けた生徒が2組に分かれて戦う「野仕合」。「運動会は最高潮に達するのである」と当時の生徒の1人は回想している。
解散前に生徒は、恒例の6個入り1袋の餡(あん)餅を受けとり、帰路に就いた。翌日の11日は月曜日で代休。校友会誌の「経過概要」には「11日午後5時ごろに至り、本校生徒及びその家族に中毒患者あることを医師及び家庭の両方面より知るを得たり」とあるが、「八十年史」によれば、同中の日誌には、11日午後3時ごろ、浜松市田町の医院から学校へ「5年生3人が中毒の疑いがあるが、心当たりは?」と電話してきたのが最初だという。午後5時ごろ、宿直の教師が校長に連絡して大騒ぎになった。
陸軍の防疫研究室も猛スピードで原因究明を進めた
七三一部隊研究の第一人者である常石敬一・神奈川大名誉教授の著書「戦場の疫学」(海鳴社)はこの事件について詳しく記述している。
同部隊の母体となったのは陸軍軍医学校「防疫研究室」。「七三一部隊などは実戦部隊で、防疫研究室が後方の司令部だった」(同書)。「当初は『戦役研究室』の名称で軍医学校防疫学教室(防疫部)に付属するような形だったが、いつの間にか全体を乗っ取る形になった」と常石氏は言う。「石井(四郎・元軍医中将)が全体を指揮しており、敗戦まで防疫研究室と防疫学教室は存在した」。同書によれば、その防疫研究室は浜松の事件に並々ならぬ関心を示し、石井をはじめ、細菌の専門家チームを現地に派遣。猛スピードで原因究明を進め、チームのメンバーが多くの報告書を残している。そこからも事件の動きが見える。ちなみに「戦場の疫学」は死者を46人としている。
石井四郎元軍医中将
同書によれば、「生徒の約3分の1が高熱、下痢、嘔吐などの症を惹起しあるも、右は三好野の大福餅による中毒ならん」と、浜松一中校長から浜松署に通報があったのは5月11日午後8時。午後11時ごろには、浜松署から静岡県に電話で報告があった。当時の緑川・県衛生課長がのちに医学雑誌の座談会で語ったところでは、技師を現地に派遣。12日午前5時ごろから大福餅の検査を開始した。
「三百名中毒 濱(浜)松一中で 四五十名重態」。初報となった1936年5月12日付東京朝日(東朝)朝刊の扱いは社会面2段だった。「【浜松電話】浜松第一中学校では10日、運動会を催し、大福餅6個ずつを全校生に配ったが、これを食した生徒、教員に中毒症状を起こす者続出。11日夜までに教師谷崎延、桜井実、伊藤豊次郎3氏及び4年生富田忠夫(17)ほか生徒4、50名の重態者を出した。午後11時半、学校当局の発表によると、中毒者300名に上る見込みで、あるいはもっと増加するかもしれないと言っている」。この時点で既に大規模食中毒だが、事態はその後エスカレートする。
大食中毒事件の初報(東京朝日)
5月12日に登校してきた生徒は338人で、欠席が662人。「無理して登校した生徒が85人おり、単なる中毒事件にとどまらず、重大なる状況に驚いたのである」(八十年史)。5月13日付東朝夕刊(12日発行)は「浜松の中毒患者 千名に達す 兵士などにも波及」の見出し。「12日朝までに浜松一中関係748名の中毒者と6名の死亡者が判明したが、一中のみでなく、市内の各中等、小学校児童らにも及び、各校10名内外。さらに浜松飛行第7連隊兵士26名、高射砲第1連隊兵士5名、浜松飛行学校生徒2名も中毒し、総数1千名を超えることが分かった」。被害は中学の生徒、教師とその家族だけでなく、陸軍兵士にも及んでいた。
当時陸軍軍医部衛生課員兼軍医学校防疫学教室教官の二等軍医正で、現地調査に従事、のちに関東軍防疫給水部、通称七三一部隊の第2代部隊長となる北野政次・元軍医中将の回想によると、東京の陸軍軍医部に連絡が入ったのは5月12日午後3時。「浜松部隊に食中毒患者約40人発生。うち20数人入院。発熱40度に達する者あり。重症者多数。兵士が5月10日に外出し、三好野で大福餅を食べたことが原因」という名古屋の陸軍第3師団軍医部からの電話だった。急を要するので、電報で浜松衛戍病院に検体を送付するよう依頼。13日午前6時、到着した検体の分離培養を始めた(「戦場の疫学」)。
大量殺人事件? 何者かが毒物を混入させたのか
さらに前述の東朝の初報記事には「大福餅を納入した同市鍛冶町76、菓子店兼喫茶店三好野こと木俣きぬ方の調査と、大福餅に用いた餡(あん)及び打ち粉の分析試験を行っている」とある。興味深いのは、この時点で早々と原因説を打ち出していること。「原因は緑青」の見出しで、「餡(小豆と隠元豆)、皮(餅)、打ち粉(デンプン)など分析の結果、異常なく、三好野で銅鍋を使用し、その銅鍋に発生する緑青によるものと推断されるに至った」とある。緑青原因説はその後も各紙に登場する。確かに1960年代までは緑青は猛毒とされていたが、一体どこから出た情報だったのだろうか。
そして5月14日付夕刊(13日発行)。東朝は事件の拡大を社会面トップで大々的に報じた。「凄惨!毒魔蹂躙の濱松 相次ぐ死者・已(すで)に三十八名」の横見出し。「疑問は遂に重大化 猛毒混入の怪事実 誤入か・計畫(画)的か」「激毒を裏書する症状」。これらの見出しで分かるように、報道は一気に、何者かが毒物を混入させた犯罪の疑いが濃いとの論調に。しかし、犠牲者の中学生の遺体を解剖した名古屋医大の小宮教授は「何事も申し上げられません」としか答えなかった。
「犯罪の疑いあり」と全面展開した東京朝日の紙面
同じ5月14日付夕刊で東日は“容疑者”を登場させている。「恨みの毒物混入? 元雇人留置さる」の見出し。「(浜松検事局は)13日払暁に至り、問題の大福餅を作った浜松市鍛冶町、菓子商三好野の元雇人有田寅雄(27)=仮名=を有力怨恨関係者として検挙、留置した」。記事によれば、この男は4月下旬に臨時雇いとして働き始めたが、「泥棒のぬれぎぬを着せられた」と憤慨。「4月30日、突然暇をとり、『この後始末は自分でやる』と放言していたといわれている」。また、「鉱物性毒物と決定」という見出しで、犠牲者の遺体を解剖した小宮教授が死体検案書を検事局に提出したと報じた。「鉱物性毒物であることは決定したが、その毒物が何物であるかは目下判然とせぬ」と。同記事によれば「13日午前11時までに判明した中毒患者1596名、うち重症患者100余名、死亡者36名に達した」という。数字は終始各紙バラバラだ。
5月14日付朝刊。東朝は「第三師団軍醫(医)部 濱松市へ急行 刑事八方へと飛ぶ」の見出しで、第三師団が軍医正ら18人を現地に派遣したことを報じた。面白いのは「浜松警察署では、当初以来刑事眼をもって事件に臨み、13日のごときは朝来異常の緊張を示し」、参考人として元コックほか13人を取り調べたと書いていること。別項で齋藤・静岡県知事が内務省へ報告に向かう列車の中で「毒物混入らしい」と語っていることと併せ、大量殺人事件との見方を強めて捜査と報道が過熱したことがうかがわれる。
「過失ではないかとの説が有力だ」
しかし、同日付朝刊の東日は「急派の本社救護班 直ちに活動開始」の見出し。「東日医局の医学博士」ら医師5人と看護師らを派遣したという“自社ネタ”だ。千人規模の患者の発生で、現地は医師不足に陥り“医療崩壊”が起きていた。新聞社に「医局」があったのにも驚く。ただ“本筋”の事件報道は朝日とだいぶトーンが違う。三好野の作業工程を紹介して「毒物混入のため外部から侵入することは非常に困難とみられている」と報道。齋藤知事の談話も「過失ではないかとの説が有力だ」となっている。同じタイミングで取材したはずなのに、どうしてこれだけニュアンスが違うのか。
注目は「軍醫学校でも急派」の小見出しの短い記事。「東京陸軍軍医学校では、浜松衛戍病院から13日早朝、大福中毒で収容中の兵士患者の吐瀉物及び食い残りの大福餅を送って来たので、防疫学教室の平野教官、薬学教室の草味教官は毒物の検出に努めている。一方、同日午後11時20分東京駅発列車で防疫学教室・北野二等軍医正、内科学教室・岡田三等軍医正は浜松に急行した」。「草味教官」とは、七三一の資材部第一課長を務める薬剤の専門家・草味正夫だ。
「戦場の疫学」によれば、実は北野が浜松に向かう5月13日午後11時すぎの時点で、検体からゲルトネル菌の免疫血清によく凝集するコロニー(単一細胞の塊)を発見していた。14日朝、浜松に着いた北野は、衛戍病院で患者の状態を見たうえ、現地の検査結果からも同菌による中毒と確信。午後4時、上司を通じて軍医学校長らに報告した。新聞や捜査当局がまだ毒物混入事件の見方を残していた段階で、既に原因に結論を出していたことになる。
丸1 日以上早く軍が「ゲルトネル菌による中毒」と断定できた理由
日本では浜松の事件以前に1931年5月、神奈川県での結婚披露宴に出されたカマボコで90人が発症。うち8人が死亡した事件をはじめ、ゲルトネル菌による食中毒が7回起きていた。うち陸軍では1933年に糧秣本廠で、1935年には京都府と鳥取県での演習で発生。中でも1935年10月、歩兵39連隊(姫路)が鳥取の小さな村で演習中、地元民が開いた歓迎宴会でタコ、竹輪、カマボコ、サバなどによる食中毒が起きた。兵士54人が発症、うち4人が死亡。民間人からも100人以上(うち死亡1人)の患者が出た。このときは、糧秣本廠での事件以後、準備していたゲルトネル菌の反応用血清が原因究明に役立った。そうした経験から、北野は浜松衛戍病院を訪れた際にも血清を持参。緑川・静岡県衛生課長に渡した。
「それにしても非常に素早い対応である」と「戦場の疫学」は評し、それは浜松の部隊が陸軍飛行第7連隊だったためかもしれないと書いている。1925年の宇垣軍縮を逆手にとって誕生した、当時日本軍では唯一の重爆撃部隊を持つ「虎の子」の部隊。搭乗員を養成する飛行学校も併設されていたが、今回の事件では、その生徒からも被害者が出ていた。万が一、隊員らを狙った犯行だったら、という危惧があったのは間違いない。
一方、静岡県衛生部の検査では、ヒ素、銅、青酸の化合物の反応は認められず、その他の毒物全般を4昼夜にわたって検査したが、金属化合物と有機物も検出されなかった。そして患者4人の糞便を培養して検査したところ、コロニーを発見。ゲルトネル菌の血清の必要を感じたので15日朝、浜松衛戍病院から入手。同日午後、定量凝集反応試験を実施し、ゲルトネル菌と決定した。つまり、県にはゲルトネル菌と確定するための反応試験に必要な血清がなく、軍から譲り受けたということ。北野が持参したものだったのだろう。軍の原因確定が県より丸1日以上早かったのは、血清を保有していたかどうかの差だった。
5月14日付朝刊段階で、読売は「濱松の中毒漸く愁眉を開く 毒物混入か、緑青か 原因・過失説に傾く」という見出しの記事を掲載している。内容は見出しで分かるように、事件の性格が分かり始めてきたというトーン。しかし、同記事によれば、東京到着後の齋藤知事らは、「問題の背後に犯罪がひそむというようなことはおそらくあるまい。いままでのわれわれの接している報告を総合すると、犯罪ではなく、どうも過失のようである」とはっきり語っている。別項で「一方に…犯罪説 八名を留置」の小見出しで三好野の経営者と従業員の取り調べを進めていると書いてはいるが……。
陸軍医務局長がラジオで「原因は細菌によるもの」と発表
5月14日、後続の軍医学校防疫研究室のチームが到着。チームの一員である軍医がのちに雑誌の座談会で語っているところでは、現地で聞いた情報では「原因は毒物」とする説が圧倒的で、細菌を考える者はいなかった。「戦場の疫学」は「被害のあまりのひどさに『毒物説』が言い立てられ、それで人々がパニックになっていた可能性が高い」としている。そのため、14日夜に小泉・陸軍医務局長がラジオで「原因は細菌によるもの」と発表。静岡県も15日深夜になって同様の発表をし、浜松市民らの動揺の鎮静化を図った。15日には、軍医学校防疫研究室主幹で、のちに七三一部隊を創設し初代部隊長となる石井四郎・陸軍二等軍医正が浜松に到着した。
5月15日付朝刊に東朝は事件を決定づける記事を載せた。「毒物はない(陸軍軍医学校発表) ゲルトネル氏菌を認むと」の見出しで「陸軍軍医学校当局14日午後7時15分発表」の内容を次のように報じている。「浜松市における中毒事件に関し、各方面の検索を行いつつあるが、陸軍において浜松並びに陸軍軍医学校において検索の結果、患者の糞便中よりゲルトネル氏菌と認むべき菌を証明し、これにより中毒の疑い濃厚となり、明朝(15日)にこれが確定し得る見込み。なお同菌以外の毒物は目下のところ証明し得ず」。
ゲルトネル氏菌は現在はゲルトネル菌と呼ばれ、サルモネラ菌の一種である腸炎菌。1888年、ドイツのゲルトネル氏が病気の牛の肉を食べて急性胃腸炎を起こした患者から発見した。「種々の齧歯類に広く寄生する。齧歯類の流行性下痢症状を起こすことがあり、またよくヒトの胃腸炎の原因となる」(「ドーランド図説医学大辞典」)。齧歯類とはリス、ネズミ、ヤマアラシなどのこと。一時犯罪説に走った東朝ではこれ以降、記事がぱったり途絶える。
「毒物はない」と報じた東京朝日
同じ5月15日付朝刊で読売も「食中毒菌から 陸軍が研究を発表」の見出しで、さらに詳しく経緯を載せている。「陸軍軍医学校当局では、かねて兵営内の大衆的食中毒の経験から、今回の大福中毒事件もその罹災者の病症経過、拡大状況などよりしてゲルトネル氏菌中毒によるものではないかとの見込みをつけ、北野二等軍医正より送付の浜松衛戍病院に入院中の兵士27名の糞便により細菌培養試験の結果、14日午後に至り3名、午後8時半に至りさらに2名の糞便中にはたしてゲルトネル氏菌を発見。現地において発見した1例を加えると6例になり、いよいよ同菌によるものとほぼ断定されるに至ったものである」。
記事はさらに、それまでの知見から、「今度の事件でも経過を見ていると、罹患者が最初から増えないという点で何かの中毒と直ちに分かったが、毒物中毒と違って、罹患者の症状が次第に激烈になっていくので大体菌による中毒、すなわちゲルトネル氏菌だなと見当がついたわけだ」という北野の談話を顔写真入りで載せている。
北野二等軍医正の談話と写真を載せた読売の紙面
同じ5月15日付朝刊で東日は「銅イオンも発見」という名古屋発の記事を載せている。小宮教授が「持ち帰った大福餅の黒餡の中から銅イオン(銅反応)のあるのを認めた」といい、同教授の談話も。「はたしてこれが毒物であるのか、毒物の中の一つであるか分からないが」「陸軍軍医学校発表の『ゲルトネル氏菌』を発見したというのは誰しも考えることだが、これが原因と断定するには、全治患者の血液の反応を見なければ的確と言い難い」と、どうも歯切れが悪い。この原因究明競争において、“劣勢”な状況が分かっていたのだろう。
「ゲルトネル氏腸炎菌によるものと決定す」
16日付夕刊で読売は「“犯人は鼠(ネズミ)”と 病原に新説起る」の記事を掲載。静岡県衛生課長の話として、ゲルトネル菌は「この病菌を持つ肉類を食したネズミが餡を保存してある釜の中を駆け回り、病菌を移植媒介し、餡がまたよく病菌繁殖の母体を務めたもので、現に三好野製餡所を調査した際、大きなネズミが数匹躍り狂っていた事実を発見したというのである」と伝えた。これが正解らしいことが後で分かる。
翌5月16日付朝刊で東日は「濱松中毒原因 軍醫学校の断案 ゲルトネル氏腸炎菌」の見出しで15日午後4時の陸軍軍医学校の発表を報じた。「今回浜松衛戍地陸軍部隊に発生せる食中毒の原因は、陸軍側における細菌学的検査の結果と、従来陸軍側における食中毒、健康診断のための検便成績等を総合判断し、ゲルトネル氏腸炎菌によるものと決定す」。有無を言わせぬ結論だった。
同じ朝刊の読売は発表内容をさらに詳しく書いている。軍医学校は、調査対象が兵士の中毒患者のみであると説明。「陸軍部隊の食中毒患者は、地方人(民間人)患者と同様、三好野菓子店調製の白餡以外の大福を食したる者のみなり。おそらく餡の中に病原菌が入って、時間の経過とともに菌が増殖して毒素を蓄えた後に起こりたるものなるべし」と分析している。さらに、兵士側から死者が出なかったことを踏まえてか、中学生らの発症の誘引と考えられる要素をこう述べている。(1)年1回の運動会のため、前夜より大福餅の準備をしていたこと(2)運動会による疲労(3)閉会後の弛緩など、精神的肉体的誘引が関係するところ多しと思う――。
その後、5月19日付夕刊で東日と読売は、「浜松事件の教訓 菓子製造者に注意」(東日見出し)の記事を載せている。それは梅雨時を前に、警視庁が菓子製造元の一斉検査を開始するとともに、「製造能力以上の注文を受けないこと」などの指示事項を通達したという内容。記事で東日は浜松の例を「大福餅の注文を受けた製造元が餡を製造して三昼夜、台所の端に置きっぱなしにしたため、ネズミが餡にたかって汚物を排出し、これを知らずにこね回し……」と細かく記述している。その後も、患者の発症、死亡は続いたはずだが、紙面には表れていない。その理由は5月19日付朝刊各紙を見れば分かる。
「舊(旧)主人の惨死體(体)に 美人女中姿を消す」(東朝)、「待合のグロ犯罪 夜會(会)巻の年増美人 情痴の主人殺し」(東日)、「變(変)態!急所を切取り敷布と脚に 謎の血文字 『定吉二人キリ』」(読売)。いまも高齢者の記憶に残る「阿部定事件」だった。いまのテレビのワイドショー並みの過熱報道の陰で、地方都市での食中毒事件はあっという間に忘れられた。
菌は何に付着し、それはいつ作業場で汚染されたのか
原因菌の発見後、軍医学校防疫研究室メンバーの関心は、具体的に菌は何に付着し、どのようにしてあれほどの“効果”を挙げたのかに移った。機関誌に発表された研究チームメンバーの報告から調査の概要を見よう。
三好野では5月6日以降、漉し餡の大福餅を紅白3個ずつ計6個入りの袋を1040袋製造した。運動会の分以外は、運動会と同じ10日の日曜日に店で販売。それとは別に潰し餡の豆大福を6日から製造・販売していた。兵士たちはそれも食べていた。原料や道具など、大福の製造過程で疑われるのは次のようなものだった。小豆、砂糖、塩、浮粉(打ち粉)、餡、餅、餡箱、粉箱、延べ棒……。計約200点以上が集められ、検査された。その結果、菌が検出されたのはサツマイモの粉である浮粉(デンプン)だけ。それも作業用の粉箱と大福餅にまぶされていたものからだった。では、粉はいつ作業場で汚染されたのか――。
三好野の食品を店で食べたり、購入して食べたりした人からの聞き取りの結果、5月6日から7日午前まで発症者はほとんどおらず、7日午後になって急激に出始めたことが判明。浜松一中で大福餅が配られた5月10日午後3時の時点で30人以上が発症していたことが分かった。「こうした情報がきちんと伝わっていれば、46人もの死者まで出す集団食中毒は防げた可能性が高い」と「戦場の疫学」は述べている。浜松一中と市役所にそれぞれ救護本部ができ、相互の連絡が悪くて情報が共有できなかったが、第三師団軍医部の救護班が到着してから統一されたとの証言もある、いつの時代も、非常時にこそ正確な情報の伝達が不可欠だが、民間だけでは限界があるということか。
最後はどのように汚染されたかだが、メンバーの1人の報告にはこうある。「三好野商店において入手せる斃鼠(死んだネズミ)=死後数日を経過=1匹より、天井裏において採集せる鼠糞(ネズミのフン)よりゲルトネル氏陽性」「浜松市内において捕獲せるネズミ102頭中ゲルトネル氏菌陽性なりしは8頭……」。結局、他の動物が感染源になったとは認められず、複数のメンバーがネズミのフンを経由してという点で意見が一致した。メンバーは「容疑者関係」についても、従業員の身辺からはじまって思想や交遊関係、不審人物などを調査。その結果、不審な点は見つからなかった。
「七三一部隊」を生む石井機関が、事件から学んだこと
「戦場の疫学」は浜松の事件を取り上げた章の最後に、軍医学校防疫研究室の調査結果と合わせたまとめを書いている。
(1) 三好野の食品がゲルトネル菌に汚染されたのは多分ネズミのフンが原因で、原因食品は3種類(漉し餡の紅白と潰し餡の豆大福)の大福餅だった
(2) それを食べた中学生を中心とするグループと、航空連隊の兵隊を中心とするグループが食中毒を発症した
(3) 中学生らのグループでは死者が46人も出たのに、兵隊のグループでは死者ゼロ。また5月9日までに大福餅を購入した人には死者はいないが、10日になると死者が多発している
(4) 製造過程検証のため、実際に三好野で大福餅を製造したところ、出来上がった餅もゲルトネル菌に汚染されていた。しかし、食べた職人は発症しなかった
(5) それは、食べた大福餅の量だけでなく、大福餅を製造してからの経過時間、すなわち菌の増殖期間と重要な関係があると考えられる
(6) 調査の結果、赤大福より白大福の方がより多くのゲルトネル菌が含まれていたことが判明。さらに店で販売した潰し餡の豆大福が最も汚染されていたことが分かった
(7) 浮粉であるデンプンを調べたところ、製造工場内の温度と湿度で、ゲルトネル菌が6時間に約500倍、12時間で1万倍以上に増殖することが分かった
(8) 中学生に死者が多かったのは、運動会で疲労が激しかったためと考えることも不自然ではない
(9) 研究グループの結論は「人為的な工作は必須の条件ではない。自然界の意識しない感染によっても本件のような多数の罹患をきたすことがある」だった
そして、のちに七三一部隊を生む石井機関(軍医学校防疫研究室を中心とした細菌戦ネットワーク)にとっての浜松事件の教訓として
(1) 情報管理の重要性
(2) ゲルトネル菌(現在鶏卵などの汚染で問題になっているサルモネラ腸炎菌)の感染性及び病原性の強さの認識
(3) 各種食物上での食中毒菌の増殖には相性があること
――などだろうとしている。
ここでは原因は大福餅としただけで、それ以上は追及されていない。しかし、辺野喜正夫・善養寺浩「新細菌性食中毒」は「さらに大福餅の材料について調べたところ、粉箱内や作業台の浮粉(とりもち粉=打ち粉)と、浮粉の付着または混入しているもののみからゲルトネル菌が検出されたので、浮粉が重要な因子であることが判明した」と明記している。
「細菌戦の兵器として使えるのか」を模索していた?
「戦場の疫学」は1942年ごろ、中国・広州での出来事について、当時、石井機関の1つ、南支那派遣軍防疫給水部員だった兵士の証言を紹介している。それによると、太平洋戦争勃発直後に、広州を制圧した日本軍部隊は、香港から逃げ込んだ中国人避難民を収容所に入れたが、あまりの人数の多さに苦慮。食物に細菌を混入させて殺害しようとした。しかし、チフス菌などを入れても効果がなく、部隊長は軍医学校に相談。1942年春、ゲルトネル菌を使って大量殺害に成功したという。
「加熱しても使える菌として広州でデータをとっていたようだ」と常石氏は話す。石井機関は同じ1942年、中国戦線の戦場で腸炎を引き起こす病原体を散布したが、誤って日本軍が足を踏み入れ、1万人以上の患者を出し、死者は約1700人以上に上ったという。常石氏の話では、この時は腸パラチフス、コレラ、赤痢の菌が使われ、ゲルトネル菌は使われていない。「腸パラチフスやコレラ、赤痢菌と比べると一般的ではなく、欠点などについて試験していたのではないか」と常石氏。
浜松でネズミを調査した軍医学校防疫研究室チームのメンバーは「ネズミの吸血昆虫の体内にはゲルトネル菌を認めなかった」と報告した。「戦場の疫学」は「ネズミにつくノミやシラミがゲルトネル菌を媒介するのであれば、それらの昆虫はこの細菌を兵器化するときには極めて重要な役割を果たすことになるためだろうか。(メンバーは)この点はもっと研究を続けたいとしている」と書いている。
石井らは、当初日本軍兵士に対するバイオテロの可能性を考え、石井自身も含めて大々的に現地を調査。その疑いがないと分かっても、今度は原因となったゲルトネル菌を細菌戦の兵器として使えないかという観点からさまざまな調査に手を伸ばしたと考えられる。そのことに気づいていた人間は陸軍内でもごくわずかだっただろう。
「浜松北高八十年史」には死亡した生徒と家族の名前が載せられている。罹病者は生徒883人(うち死亡29人)、職員21人、生徒の家族1161人(うち死亡15人)、職員家族51人。計罹病者2116人(うち死亡44人)という大惨事だった。6月9日には雨の中、慰霊祭が行われ、1周年の1937年5月10日には校庭の東南の隅に慰霊碑が建立された。
死亡した浜松一中生徒の名簿(「浜松北高八十年史」より)
【参考文献】
▽「浜松市史(三)」 浜松市役所 1980年
▽「静岡県警察史下巻」 静岡県警察本部 1979年
▽常石敬一「戦場の疫学」 海鳴社 2005年
▽「ドーランド図説医学大辞典」 廣川書店 1982年
▽辺野喜正夫・善養寺浩「新細菌性食中毒」 南山堂 1972年
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