高見順という時代―没後50年―/川端康成と高見順
激動の昭和を生きる
かつて高見順という時代があった、という中島健蔵の名言の通り、彼は激動の昭和を常に文壇の中心選手として疾走し続けた巨星である。
昭和の初頭、大学在学中に左翼活動を始めるが検挙されて転向。
その後、時代の苦悩を饒舌体で綴った「故旧忘れ得べき」が第一回芥川賞候補となり、文壇にデビューした。
浅草に生きる人々を共感をもって描いた「如何なる星の下に」に代表されるように、転向後の彼は、陋巷の庶民の姿を独自の散文精神で綴っていくことになる。
戦時下に陸軍報道班員としてビルマに派遣されるが、一方で彼は「文学非力説」を主張して全体主義の悪風に立ち向かった。
しかし敗戦後は、時代に翻弄された自身の生き方を悔恨と共に振り返り、苦渋の道をたどることになる。
自身の生きた時代とは何であったのか、を執拗に問い続ける中で、長編「いやな感じ」や評論「昭和文学盛衰史」を著し、自ら「高見順という時代」を総括していくのである。
すでに病魔に冒されていた彼は、詩集『死の淵より』を残し、読者に深い感銘を与えてこの世に別れを告げたのだった。
今回の高見順展は、没後50年を機に、あらためて彼が昭和という時代をいかに生き、自らそれをどのように総括しようとしたのかを見つめ直すことにねらいがある。
そしてそれは同時に、彼が晩年、その設立に心血を注いだ日本近代文学館の成り立ちを問い返すことでもある。高見順自身が収集に努め、館に寄贈された数多くの貴重な資料を通し、あらためてその文学精神をたどってみたい。
(編集委員 安藤宏)
開館時間 | 午前9:30~午後4:30(入館は4:00まで) |
観 覧 料 | 一般200円(20名以上の団体は一人100円) |
休 館 日 | 日・月曜日、第4木曜日(10月22日、11月26日) |
編集委員 | 荒川洋治・安藤宏・池内輝雄・宮内淳子・武藤康史 |
主な出品資料
第一部 生い立ち
「おれは荒磯の生まれなのだ」と高見順は詩に書いたことがある(「荒磯」)。
高見順が生まれたのは日本海に面した漁港の町、福井県の三国町であった。近くに東尋坊の絶壁がある。
明治40年(1907)生まれとされているが、明治39年とも言われる。
本名は「高間義雄」だったが、高等学校のころ一字改めて「高間芳雄」とした。
「高間」は母の姓。
高見順は自分の父親について「私を彼女に生ませた、彼女の夫ではない私の父親」という書き方をしている(「私生児」)。
父親はそのころ福井県知事だった阪本釤之助(もとは「坂本」だったが、釤之助は「阪本」と書くことを好み、この用字が通行)。
知事として何度か三国町を訪れるうち、この地で評判の美人だった高間古代と結ばれ、高見順が生まれた。
その翌年、高間古代は老母と幼い息子とともに三国町から東京市麻布区(現在の港区)に移り住んだ。和裁の仕事で生計を立てつつ、一人息子を厳しく育て上げることになる。
後年、高見順は「幼時の恥」「暗い出生の翳」「私の恥づべき素姓」といった表現をよく使った。「私は父親が欲しかつた」とも書いている(『わが胸の底のここには』)。
しかし生涯一度も父親と顔を合わせたことはない。
(武藤康史)
少年期を回想した自伝的小説「わが胸の底のここには」の原稿、関東大震災の様子を描いた旧制中学の頃のスケッチのほか、旧制高校の受験体験記が雑誌に載り、初めて原稿料をもらったことを書き留めた学生時代の日記などを紹介。
第二部 描写のうしろに寝ていられない ―文壇デビュー―
高見順は高等学校時代、ダダイズムを初めとする欧州前衛芸術運動の影響を受け、同人誌「廻転時代」を発刊した。東京帝国大学英文学科に進学後、「高見順」のペンネームで小説を書き始め、プロレタリア文学の担い手として「大学左派」「左翼芸術」等の雑誌を舞台に活動している。卒業してコロムビア・レコードに就職後も非合法運動を続けるが、検挙され、拘留中に妻に裏切られる事件なども重なって、虚無にさいなまれることになる。やがて転向を経て昭和8年(1933)、新田潤、渋川驍らと「日暦」を創刊。その活動は、転向作家たちの拠点となった雑誌「人民文庫」へとつながっていく。
この時期、左翼崩れの若者たちの悲哀を綴った「故旧忘れ得べき」を発表。これが第一回芥川賞候補になり、一躍文壇の注目を集めた。この長編は「書き手」が直接顔を出して小説の進行を解説していく特異な文体で知られ、やはり同じ時期にデビューした太宰治、石川淳らの饒舌体とも共通している。昭和11年のエッセイ「描写のうしろに寝てゐられない」は、まさにこうした新世代のマニフェストとして象徴的な意味を持っており、写実的に「描く」ことをめざす旧来のリアリズム文学への反逆の宣言でもあった。
ダダイズム、マルキシズムなど西洋の最新思潮をくぐり抜けた末に、高見順はポストモダンの旗手として、江戸戯作の伝統にも通じる豊かな語りの文体を再生してみせたのである。
(安藤宏)
太宰治らとともに昭和10年の第一回芥川賞の候補となった「故旧忘れ得べき」の原稿や芥川賞の選評を中心に、文壇に登場するまでの高見を紹介。
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