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06:30 from Twitter for Android
おはようございます。綾瀬発・釜石応援プロジェクトに参加した一般ボランティアは、二泊目はホテルの大部屋(宴会室)でした。みんな疲れきっていましたので、ぐっすりと眠れたようです。 pic.twitter.com/Po8ANSg5
by ueda01 on Twitter
ボランティアとして活動するなかで、被災された方々とお話をする機会がありました。その内容の一部をメモとして記しておきます。
●隣の家の人に津波が来るから逃げよう、と誘ったのに隣の人は逃げずに災害にあってしまった。
●私は家の裏の階段をかけ登り逃げた。首まで水が来て流されたけど、金網の柵に囲まれたところで止まった。そこで12人くらいで夜を明かした。
●そのすぐわきに小さな社を祀ってある階段があるが、その階段に逃げた二人は流されてしまった。
●自治会の世帯が200くらいあったが、亡くなった方や戻れない方が多く今現在まだ60世帯にもなっていない。
●支援金、義援金など会わせて230万円いただいた。家は壁などはやぶれていたが土台と柱が大丈夫だったので修理した。約700万円かかった。修繕に対する行政からの支援金は100万円だけ。
●非常持ち出し袋を家族分用意してあったのでそれを車に載せ逃げた。ここまでくれば大丈夫だと思ったが、津波がすぐそこまで迫っていたので、車を置いて高いところにかけ上った。命は助かったが非常持ち出し袋もなにもかもが流された。
●被災後三週間子どもたちと連絡が取れなかった。お互いにもう生きていないな、と思っていた。
●おばあちゃんはその日デイサービスに行っていた。その施設でも二名が亡くなったが、おばあちゃんはデイに行っていなかったら絶対に逃げられなかった。運としか言いようがない。
●避難訓練はいつも3月にやっていた。寒いので本来の高台のお寺などの避難場所ではなく、途中の防災センターに避難する訓練になっていた。このため、多くの人が防災センターが避難場所だと勘違いしてここに集まってしまった。この施設の中で発見された遺体は70近く。しかし、もっと多くの方が窓などから流されていったことが、生き残った人の証言でわかっている。生き残った人は20数名。
●近所のおばあちゃんと逃げようとしたが、おばあちゃんが履いていく靴をなかなか決められず遅くなってしまった。津波に襲われたときおばあちゃんの手をずっとつないでいたが、いつのまにか離れてしまった。今でも靴を履くのに時間をかけてしまったことを後悔している。
●私は偶然生き残ってしまった。私のすぐそばで逃げていた人がみんないなくなってしまった。私は生きていていいのか、ずっと悩んできた。何度死のうと思ったかしれない。いまは、同じように仮設住宅で不自由している人をサポートする仕事について、がんばりなおすことができている。
その他にも多くの体験を聞かせていただきました。
復興の道筋が見えない中で、被災された方々は苦しみながらも、それを乗りこえるために必死に生きていることを感じました。傷ついた心に寄り添いながら、息の長い支援が必要です。
ボランティアはまだまだ必要です。
次回は、ぜひあなたも参加してみませんか?
綾瀬市社会福祉協議会などが企画するボランティアは、http://www.ayase-shakyo.or.jp/kamaishi-vboshu.pdf をご覧ください。