宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

仏教なき仏教

2006年08月16日 | Weblog

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篤信の一人の老人が尊敬を込めて寺院の
周囲を右回りに回っていた。
ゲシェ(学僧)ドルムは老人に気がついて
声をかけた。
「私はあなたが巡っておられるのを見る事が
出来まして幸いです。しかしあなたはダルマの
修練をなされた方がよろしいでしょう。」

そこで考えた老人は移動し、経文を取って
読み始めた。
ゲシェ(学僧)ドルムは老人に気がついて
声をかけた。
「私はあなたが経文を読んでおられるのを見る事が
出来まして幸いです。しかしあなたはダルマの
修練をなされた方がよろしいでしょう。」

その老人は一番よい方法は何かと考え、一点に
集中して瞑想を始めた。
ゲシェ(学僧)ドルムは老人に気がついて
声をかけた。
「私はあなたがよく瞑想しておられるのを見る
事が出来ます。しかしあなたはダルマの
修練をなされた方がよろしいでしょう。」

老人に残された方法はありませんでした。
「ゲシェ、どの様にダルマの修練を為す事が出来ますか、
御教え頂けませんでしょうか?」
ゲシェは答えました。
「あなたが修練する時、あなたのマインドとダルマの間に
分離があってはならないのです。」
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西洋人の僧侶などで、仏教は宗教ではなく哲学そのもので
あり、悟りの彼岸に至るまでの単なる技法にしか過ぎない
ので、儀式や伝統を全て取り払うという姿勢で臨んでおられる
方々がいる事を知りました。彼らは積極的に「信の不要」を
説いていました。

形骸化しただけの部分を取り去ろうとする姿勢は革命的では
ありますが、一方で現在の高等教育を受けた西洋人が
全面的に何かに信を置く事が難しくなっております状況の
一種の表れの如くにも感じられ、また真に卓越した人物でも
ない限り、こうした「手術」は却って弊害や誤解をも生み出し
かねぬ様に感じました。
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