うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

24年

2019年03月20日 | 記憶の断片

旧友たちがSNSであの日のことを語り合っていたので。

こういうブログを書く前は日記、というよりメモのようなものを書いておく習慣があった。ので当時のものを探してみたら見つかった。3月20日は書いていなかったが、21日(火曜日、祝日)にメモがある。この日は晴れて、暖かかったらしい。事件については軽くその内容に触れ、驚いた、としか書いていない。

20日は夕方外出して、夜遅く社に戻ったが、扉が閉まっていて家に引き返したらしい。今のようにオフィスのPCでウェブニュースを見るということはできなくて、外の様子は全く分からなかった。ただ、夕方になるとどこからか、なにか大変な事件が起きたらしいということは伝わっていた。

この前後、とても忙しい日々を送っていたらしい。日曜には3時間半しか寝ていない、月曜までは食事もまともに取れなかった、とある。土曜日は学生時代の先輩の結婚式で、横浜のほうに出かけた。これは覚えている。そのせいか、事件のことはこれ以上の記述はない。なんか忙しい、体調が悪いみたいなことばかり書いてある。。

以前書いたかもしれないが、この月の初めから新しい職場にいた。通勤に地下鉄は利用していない。前年の暮れに引っ越しをして通勤経路が変わったが、それまでは事件の起きた霞ヶ関駅を利用していた。もしタイミングが違っていたら、自分だって被害者になる可能性はあったかもしれない。

この年は自分自身、転居や職場の変遷と、慌ただしい年だったが、世間も1月の阪神淡路大震災、3月のこの事件、80円台に達する円高、フランスの核実験と、色々なことがあった。夏には(たしか未だに未解決の)スーパー強盗殺人事件が起き、11月にはウィンドウズ95が発売されて秋葉原がお祭り騒ぎになったり。

そんな時代の話だ。

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冷たい沼

2019年01月12日 | 記憶の断片

9年前の今頃、仕事を探していた。

前年春から続いていた仕事探しは、このときまだ終わっていなかった。暮れ頃にはかなり気が塞いでいたが、この頃は落ち着いていたように思う。

その1週間ほど前の正月3が日、いつも家族と行く七福神巡りで立ち寄った蕎麦屋に、財布を忘れてきた。

戻ってから気がつき、慌てて店の名を調べて電話をかけたら、預かっているという。翌日、菓子折りを持って蕎麦屋に行き、引き取ってきた。父は大笑いして、きっと今年はいい年になるよ、と言ってくれた。。

 

そんな年の始まりの、最初の就職活動先は、健康器具を製造販売する会社だった。経理職員(データ入力や書類記入等をする事務員)1名を募集するという。

郊外の私鉄沿線にある本社に行ってみると、100人以上の人がホールに集められている。皆応募者だが、顔触れは老若男女、様々だ。立派な紳士もいれば、主婦らしき人もいる。若い人はそれほど目立たなかった。

ステージに置かれたモニターは、商品の説明や利用者(年配の人たち)の喜びの声などを紹介するビデオが流されていた。そのうち会社の幹部の人たちがステージに並んで、なにやら演説をしたり、製品かなにかの実演を見せられたりもした。各地に不動産を持ったり、飛行機のリース権?を所有したりと、かなり裕福な会社であるようだった。
数時間してようやく一人一人の面接が始まったが、僕は「OOさんは・・、なにか質問はありますか?」と聞かれただけだった。来訪したのは午後の早い時間だったが、終わったのはもう日の暮れるころだった。

そのころのメモを見ていると、自分がどう感じたかということは書かれていない。どこに行ったとか、世間をにぎわしていたニュースとかを記録しているだけだ。ただ、自分が今まで接したことのない世界を見たな、という驚きのような感情は、心に残っている。

今の仕事を始めたときにも、似た感情があった。この年の冬はかなり寒く、仕事に通い始めたその日の夜には雪が降った。その後も数回、4月を過ぎてからも酷く寒い日があり、雪になった。そのせいもあり、この頃のことを思い出すと、冷たく濁った沼に、体を沈めていくような、そんな印象がある。オフィスの壁も、窓から見える風景も、地下鉄の通路も、皆どこか薄汚れて寒々しかった。

今こうして色々思い返したり、メモを見直したりしていると、9年も昔のことだとは思えない。しかし、実はそうやってメモを手にするまでは、ほとんどのことは忘れていた。あの頃はまだ旧宅にいたし、鳥たちもいなかった。

その頃のことを思うとただ、「冷たい沼」という言葉が、最初に心に浮かんでくる。

 

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くっくっく・

2019年01月05日 | 記憶の断片

記憶の中の床屋さんというのは、今日みたいな冬晴れの明るい日差しの中にあって、中に入るととても暖かかった。

たいていはだれか先客がいた。その間に漫画が読めるのが楽しみだった。「ジャンプ」を毎週買うなんてできなかったので、床屋でまとめて読んだ。自分で週刊誌を買うことは大人になって「モーニング」だったか「スピリッツ」だかをちょっと買った以外なかったな。。家では妹の買った「LaLa」とか読んでたけどあれは月刊か。。あ、塾に通っていたころ「チャンピオン」を少し買ったか。

「ハレンチ学園」は読んだという記憶はあるが、内容は思い出せないし、後の記憶と混ざってしまったところもある。「トイレット博士」「ど根性ガエル」「キン肉マン」なども床屋で読んだ。印象に残っているのはアラレちゃんかな。別に学校で漫画読んでないと話題についていけない、なんてことはなかったけど、アラレちゃんは仲の良い友達と話題にしたし、単行本も買っていた。

姉妹で経営している床屋だった(らしい)。家族構成がどうなっているのかわからない、というか、あまり考えたこともなかったが、年長の方は僕より一つ下の娘さんがいるようだった。一緒に仕事している、妹さんらしき方も、僕から見ればかなりのお姉さんだが、当時30代半ばぐらいだったんじゃないかと思う。

床屋で顔を剃ってもらうとき、くすぐったくて仕方がなかった。。テレビ「クールジャパン」で、日本では床屋がおでこを剃る、といって驚いていたが、おでことかはまだいい。ほっぺたとか、さわられるともう駄目である。つい「くくっ」、とか笑ってしまう。すると、その瞬間床屋さんが剃刀を浮かせる。顔を切ってしまうかもしれないからだ。迷惑をかけてるという気持ちがあるから我慢するのだが、またこみ上げてくる。。ひどいときは顔をあたる段階に近づいただけで「くっくっく・・」となってしまう。。

見上げると、床屋さんも一緒になって笑っている。「もう・・ダメでしょ」という感じだ。
このときの床屋さんとの不思議な関係・・、恋愛関係とかではもちろんないし、なんとも形容できない「共犯」のような、あの奇妙な親密さは、いまでも時々思い出す。

「くすぐったい」感じはいつごろなくなったのか、覚えていないけど、さいきん流行りの大手の床屋さんなんかは、顔を剃ってはくれないからな。。

あおいとり~。

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6.4

2018年06月04日 | 記憶の断片

29年前の6月4日はお隣の国で色々あった日ですが、ちょうどその時僕は青森にいました。

前から予定してたわけでもなく、普通の土日で行って帰ってくるという、ちょっと信じられないというか、無謀な旅でしたが。。

昭和から平成に変わったこの年は、世界全体が騒然とした年だったわけですが、個人的にも、この数週間前には友人の訃報に触れるなど、色々あって・・。

まあその後の人生では毎年なにがしか色々あったりしたので、この年だけどうということは今思うとないのですが。

とにかく、土曜日の朝になって急に思い立ち、衝動的に。。

この朝の新聞一面に「ホメイニ師死去」というニュースが出ていた気がするが、ウィキを見ると6月3日死去なので、記憶違いかもしれません(ちなみにホメイニ師とはイラン革命の指導者。今の人は知らないかもしれませんね)。

車に飛び乗って、東北道をひた走ったのですが、夕方までに到着してます。仙台から先は前後にほとんど車がおらず、なんというか非常に日本離れした道路状況を、それにふさわしい運転で(なんという回りくどい言い方・)走ったのでした。周りの風景が流れる中、リアの座席脇にある物入れがカタカタ音を立てていたのを、29年たった今でもなぜか覚えています。

青森、弘前付近にはいくつか小私鉄があって、それらを訪問しました。ので、手元に残っている写真はそんなのしかありません。

写真はストーブ列車で有名な津軽鉄道ですが、終点の津軽中里は時がとまったかのような長閑な駅でした。

こういうのは別のブログ(鉄道部)で書くものですが、話のついでなので。

この終端部のたたずまいに萌えてしまうのですね。。線路の両脇も丘になっていて、突っ込むような形で線路が終わっています。

丘の上の住宅はちょっとご愛敬。

 

この駅のことはだいぶ昔に別のところで書いたのですが、今でも不思議なくらい色々覚えています。

書きながら思い出したけど、この季節はリンゴ畑が白い花でいっぱいになって、とてもきれいだと何かで読んで、それを期待して行ったんだった。

確か高速の途中で畑を見ることができたが、写真は撮れなかった。

急にこんなことを書いているのは、ちょうど今日が4日だということもあるし、このときは実家暮らしで自分の車もあり、こんな風に車で出かけることが容易な環境だった、ということが頭にあるからでしょう。この後しばらくして環境が変わり、車とは無縁の状態が長く続くことになります。

今は再び手元に車がありますが、もうこんな無茶はできんでしょうな。。

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へいとすぴ~ち

2018年04月09日 | 記憶の断片

10数年前、短期間ご一緒した同僚の方が、ランチのときに話してくれたこと。

「このまえ、渋谷の住宅街を歩いていたら、上のほうから『すちゅ~ぴぃ~っど』という声が聞こえてきた。。上を向いたら、窓から顔を出しているちいさな外人の女の子と目が合った・・」

その家は当時、ちょっと注目されていたIT関係か何かの企業の社長さんの家だったらしく、そのあとはその社長の話題になった。

でも、印象に残っているのは、女の子から罵声?を浴びせられた、ことを、まんざらでもない、という表情で話してくれた時の、同僚の話ぶりだ。


その時の同僚さんは、今はさる会社の社長さんを務めておられます。一時期だいぶ苦労をされたようですが。。

まあお互い、色々な目にあうものですねえ。

 

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今昔

2018年01月17日 | 記憶の断片

東日本大震災は、このブログを始める間接的なきっかけとなった大災害だが、その前、23年前の阪神淡路大震災については、ここで取り上げたことがないと思う。

と言っても、阪神淡路は東北と違って、自分の住んでいたところでは揺れを感じることもなかったし、自分や知人たちが直接何か経験をしたというわけでもない。

当時の勤め先の大阪オフィスが、通信不通となったこと(電話も通じなかったが、たしか当日中に連絡はついたと思う。被災した人はいなかった。いちおう銀行だったのだけど、どういう業務の運営が行われたのか、覚えていない)、後から聞いた話だが、年配の知人が、配送のため阪神高速を走っているとき、地震に遭遇した(走行中揺れを感じた。荷物は届けられたが、ガソリン確保に苦労しながら2日ぐらいかけて帰京したらしい)、という話を聞いたくらいだ。

東京に配転されていた大阪出身の人が二人ほどいたが、これらの方々も家族は無事だった。単身赴任していた方は、ご家族と体験を共有できなかったことを残念に感じておられたらしい。

僕は新しい家に越したばかりだった。7時前ぐらいにテレビをつけたら、ただならない様子が映し出されていた。アナウンサー(記憶では松平定知氏のような気がするが、ざっと調べても当時朝のニュースを担当したという記述は見られない)が、ヘリからの空撮映像を見ながら「新幹線(の線路)が倒れています、新幹線が倒れいています!」と叫んでいたのが、耳に残っている。

首都圏ではその2か月後に起きた、地下鉄サリン事件のほうが直接的で、あれはいろいろな形で影響が残った。今思えばかなり騒然とした世相だったと思う。

今思い返すと、新しい土地での新鮮な印象と、そのころの世相を伝えるニュースやらなにやらが、一緒に思い出されてくる。昔のことのようにも、つい先日のことのようにも思える。

 

そういえばさっき、偶々4年前録画したドキュメンタリービデオを見たら、7年前の震災をビッグデータで分析する、という内容の番組だった。ビッグデータって、ほんの少し前はテレビや新聞によく出ていたけど、なんか妙に懐かしいな。今はもうすっかり、AIとかフィンテックとか、そんな言葉ばかり聞きますよね。

 

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ダイアナ

2017年08月31日 | 記憶の断片

別にファンだとか、そういう意識はしたことはなかったが、とにかくテレビをつければしょっちゅう取り上げられていて、すっかりおなじみの存在だった。もとより、婚約の頃からニュースを通じていきさつを知っている。遠くの親戚より近く、はないけど、いろんなことは自然とフォローしていた。

あの日、というか翌日だったのかな、たしか朝体調が悪かったのだと思うが、午後出社することになった。たぶん、出かけるまでテレビ等も見ていなかったのだろう。当時住んでいた最寄駅から昼頃の、空いた電車に乗ると、反対側の座席でスポーツ新聞を読んでいる人がいる。折りたたんでいるので全体が読めないが、どうやらダイアナさんの記事だ。が、断片的に「死」のような文字がちらついて見える。死んだ?いやだな、そんなこと、起きてほしくないなと、目をそむけた。全体の情報を知ったのはたぶん、その夜のことだったと思う。

空いている電車と、新聞を読む人、このシーンが妙に記憶に焼き付いている。

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あ・うん・・

2017年04月19日 | 記憶の断片

このムーミンはペーパーウェイトで、いつもオフィスの机の上にいる。

 

あるとき、何かの拍子にこのムーミンを床に落としてしまった。

ペーパーウェイトなので(中身は粘土か何かかな)重く、落とすとすこん、という音がする。

 

あ、しまった、という声をあげながら拾い上げる。

と、傍らにいた同僚と目が合った。

何かを言いたそうな目をしている。

 

こっちも何か言わなきゃな、と思うが、とっさに言葉が出てこない。

 

ようやく、

「・・・・・・・、かわいそう」

 

すると向こうも、

「・・・・・・・・・・・・・、いたい」

 

そこまで言うと、あとは二人で気の抜けたように笑った。。

 

ムーミンが彼女に乗り移って、しゃべらせたのかしら。。

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スチーム

2017年01月24日 | 記憶の断片

さっきブレーカーを飛ばした。セラミックヒーターとカーボンヒーター、ファンヒーターとオイルヒーター、電気ケトルをつけたうえ、電子レンジをかけたとたんにバシッ。そりゃそうだろう。。この家は40Aだが、実家は30Aで、気を付けないとしょっちゅう飛ばしてしまう。契約を変えないといけないのだが。。

中学の時、校舎はスチームヒーターだった。窓のわきに銀色のラジエターが設置してある。冬の朝、教室に入るときはまだひんやりしているが、やがてぽかぽかしてくる。ラジエーターの上に物を置いてはいけなかったはずだが、みんな弁当を置いていた。昼頃にはちょうどいい暖かさになっている。窓際の席にいる生徒の特権だった。もっとも、それをそれほどありがたがっていたという記憶もない。

スチームは音がする。ファンヒーターのようにボウボウいうのではなく、時折遠くの方からカンカンカン、という音がしてくる。金属パイプを通じて、温かい蒸気が通るときにパイプが膨張して音が出るのかもしれない。鉄道のレールの様に、遠くからの音が伝わってくる。そういえば小さい頃、遊び仲間とレールに耳をつけて、遠くの列車の「かたん、かたん」という音を聞いたことがあった。今なら良い子は絶対にまねしないでね、の世界ですけど。

この音は自然に出てくるものだが、人がわざとラジエータを叩いて音を出すことも、もちろんできる。なにしろいたずら盛りの頃だから、当然そういうことは思いつくわけだ。1年生の時だったと思うが、ある日、静かな教室で、モールス信号の様にカンカン、カカンという、明らかに人が叩いたような音が鳴り響いたことがあった。教室は階数で学年がわかれていて、蒸気パイプはたしか垂直に伸びていた。ということは、だれか上級生が叩いているわけだ。

近くの友達同士で顔を見合わせたが、結局応戦することにした。

翌日も、またその翌日もカンカン音がしてくる。そのうちうんざりして、誰も相手にしなくなった。上級生の癖に、大人げないなあ、と思った記憶がある。

社会人になって、一時期元旦(のちには大みそか)にオフィスに駆り出されることがあった。ビル内のほとんどのテナントは休業しているし、自分のところも出ているのは僕たちの部署だけだ。冷暖房は稼働しておらず、必要なら管理センターに申請する必要がある。上司が聞いたら、なんでもボイラーを焚く必要があるから結構高くつく、1日10万円はかかると言われたそうだ。さすがに目をむいてしまい、暖房なしで1日過ごすことにした。

最初はいいが、そのうちどんどん冷えてくる。家から電気ストーブを持ってきたことがあったが、机の下のコンセントにさしてつかっていたら、フロアの一部だけブレーカーが飛んでしまった。オフィス内の電気は、区画ごとにブレーカーが設定されているらしく、個々の容量は小さいらしいことがこの時わかった。

今のオフィスでは、全館共通の冷暖房が朝8:30から夜7:00まで、それ以外は別料金になる。休日も同様だ。冬はまだしも、夏エアコンなしはかなりきついという人が多い(僕は暑いのはけっこう平気)。エアコンの操作パネルにパスワードを入れて操作すると使えるようになるが、オフィス内の人たちはそのことを知らない(か、忘れている)。教えてあげてもいいが、乱用されるとお金がもったいないので黙っている。

 

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こども会

2016年08月01日 | 記憶の断片

本当に断片的な記憶だ。

 

小学校6年生のとき、町会かなにかのあつまりで、夏休み中の子供たちが集められた。

何をするのかわすれたが、大人たちも集まっていて、こども会(という名前だったかどうかもはっきりしない)の役員をきめるという。

僕と、同級生の女の子が指名された。大人だったらそんなことは聞いていないぞ、と言いたくなるところだが、本当に突然だったのでびっくりした。

ふたり、前に出てなにかあいさつなさい、という。

その頃すでにひねくれた悪がきになっていたはずだが、人前にでて話すなんてのは苦手だった。ので、これは困ったことになったと思った。

人前といっても、子供が10人だか何人だかわすれたが、たいしたことはないのだが。

とにかく緊張しながら前にでて、一声発したら・・、一緒に前に出た子も、僕と同時に話し始めていた。

 

しまった、話が重なっちゃった。。

ほんとうなら、ここでいったん話を打ち切って、彼女とどっちが先に話すか、話し合うべきだったろう。

しかし、僕はなんとなく意地を張ってしまい、彼女の声が聞こえないふりをして話しつづけてしまった。

彼女は二言三言はなしかけたが、すぐにはにかんだように笑い、黙ってしまった。

僕の話が終わると、彼女が照れたような調子で話し始めた。それを聞いている間、なんとなく間の悪い思いをしていた。

自分でもわかっていたはずだ。意地張って話し続けるなんて、しちゃいけなかっのに、と。

 

そういう、融通のきかない悪い癖は・・このときにきちんと反省して、直しておかなければいけなかった、はずなのだが・。

 

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だんす with

2015年06月22日 | 記憶の断片

中学、高校が男子校だったので、大学に入って同じ世代の女の子たちと一緒になったときは結構戸惑った。

 多感な時期に男女別学で過ごすというのは、それなりに人格に影響を及ぼすようだ。男子校って、気楽で楽しいのだが、なんだか子供感覚がずっと抜けないというか、がきんちょの延長でずっと過ごせてしまう、というところがある。そのまま大学に行くと、なんだか自分がひどく子供のような気持ちになって、内心萎縮してしまったりする。

 そうしたのんびり育ったという経験は、大人になってもどこかにその片鱗を残すようだ。社会人になってから出会った人でも、この人男子校出身かな、と思って聞いてみると、けっこうあたってたりして。前一緒に仕事していたた会社の子も、聞けば女子校出身で、なるほどね、と思ったりした。

 ふと思い出すのは、大学に入ったばかりの頃、合宿か何かで、夜みんなでフォークダンスを踊ったことがあった。ちゃんとしたものではなく、もしかしたら偶然誰かが思いついて口三味線か何かでやったのかも知れない。オクラホマミキサとか、マイム・マイムみたいなやつ。小学生の頃以来だから、どうやったのか全然覚えいてないが、すごく照れくさいのととてもわくわくして楽しいのがごちゃ混ぜになりながら、夢中で踊ったのを覚えている。

 昔の社会は、若い男女にそういう機会を与えることで、ソフィスティケートされた社交を身につけさせたのだろうね・・。ダウントン・アビーでも何度か、使用人も参加する舞踏会や、休憩中のダンス練習なんていうシーンがあったな。シーズン3の最後で、アンナが見事なリールを披露するシーンなど、とても素敵だった。

 今、ショパンのマズルカがかかっているけど、これももともと舞曲だ。マズルカやワルツ、スケルツォ、カドリール・・。踊るというのは、人々の心の自然の発露なんだろうな・。

 いにしえの世界の、人々の洗練された社交のことを思うと、現代の我々は果たしてどれだけ幸せなのかな、と思うこともある。自由になった分、辛く思えたり、粗野なやりとりをしなければならなかったりして、心をすり減らしながら、人生とはこんなものだろう、と思ったりしているのかも知れない。

アルも時々踊っている。止まり木の上を、ステップ踏みながら左右に体を揺らしていることがある。

 

 

 

 

 

 

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六本木wave

2014年10月15日 | 記憶の断片

地下鉄日比谷線の霞ヶ関-神谷町間に新駅ができるというニュースを聞いて、何となく昔のことを思い出していた。

仕事で外に出ることはほとんどないのだが、歩くのが好きで、昼休みや夜など、てくてく歩いてなじみになった街は多い。虎ノ門付近もずいぶん変わったろうな、と考えてたら、急に昔の六本木付近のことを思い出した。

六本木で働いたことはないが、その周辺にオフィスがあって、昼休みに六本木まで行って食事することもあった。もっとも、グルメ気分で行くのではなく、青山ブックセンターや、六本木Wave(CD店)に行くのが目的で、食べることは二の次だった。

ABCもそうだったが、WaveのCDも一風変わった品揃えで、眺めていて楽しかった。というか、買わずにみていたことの方が多かった気がする。何買ったか覚えていないな・・。DVDが出始めの頃、オペラのVHSが廉価で出たことがあって、発売の日にここで買った記憶がある。覚えているのは、スクロバチェフスキ指揮、ミネソタ管弦楽団のラヴェルのLPを見つけて、買おうかどうか、迷ったことがあった(CDで購入)。

一時期、静電型のスピーカーが置いてあった。普通のスピーカーのようにキャビネット(箱)がなくて、平たい板から音が出る。なぜかドヴォルザーク交響曲第9番の第4楽章(「家路」ではなくて、最後の盛り上がるところ)を歌詞付きで歌っていた。

Waveのあったあたりは今、ヒルズになっていて、もう昔の面影は全くない。比較的新しいビルだったけど。

2001年5月の六本木。最近は全く行っていないので、今と同じかどうかわからない。僕にとって六本木は普通の街で、おしゃれなところとはほとんど縁がなかった。

青山付近からみたヒルズ。01年12月頃。春から冬にかけて、こうしてにょきにょきと伸びてきた。

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夏の終わりの思い出

2014年08月04日 | 記憶の断片

Imgp0223
ペンタックスQ TOY LENS WIDE でHDRフィルターを使用

今頃の時期になると思い出すのは、20代の頃挑戦していた資格試験のことだ。
かなりのほほんと子供時代を生きてきて、受験戦争を知らずに(気がつかずに?)きたので、大人になってから勉強をするのはすごく大変で、結局ものにならなかった。

Imgp0220
上記と同様HDRフィルター使用 レンズは01STANDARD PRIME

今思い返すと若気の至りというか、周りの人たちを巻き込んで、仕事を休んだりして迷惑をかけていたし、余計なことばかり考えて夢見たりと、要するに恥ずかしい記憶しかない。

Imgp0184
この辺の何枚かはTOY LENS WIDEで撮影

試験前に数日休みを取って、日がな一日勉強しているのだが、ちょうど梅雨が明けて夏の盛りなので、息抜きに外に出ると青空と入道雲が広がっていて、子供に返ったような、なんとものどかな気分になることがあった。そんな余裕をこいている場合ではなかったはずだが。

Imgp0195

それでもとにかく頑張って、試験が終わるとだいぶすっきりした気持ちになれた。まあ、やることはやったと。はじめから失敗がわかっていて、終わると暗い気持ちになることもあったし、今度はうまくいったと思ったときもあったが、まあ、結果はどちらも同じだった

Imgp0196

良いと思ったときはほっとして、悪いと思ったときもそれなりに、試験後はすこしのんびりと過ごすようにしていた。既に夏の盛りが過ぎ始めようとする頃だ。

Imgp0198

試験後、昼過ぎに帰宅して、本屋に行って車の雑誌を買って、駅前のルノワールでアイスコーヒーを飲みながら、のんびり時間を過ごしたりとか、帰宅途中だったかな?大型レコード店に行ってCDを何枚か買って帰ったこともあった。

僕は本格的にクラシック音楽を聴き始めたのが大人になってからだったので、ベートーヴェンの交響曲全曲を知らなかった。CD時代になって、ボックスセットが安く買える事を知り(といっても1万円ぐらいはした。今は下手すると千円で9曲セットが買えてしまう。あれは絶対なにか間違ってるよな)、試験が終わったら全曲聴くことを目標にした。

名曲名盤なんて知識はなかったので、レコード屋で新しそうな朝比奈隆 大阪フィルの最新盤セットを買った。1万2千円で全曲と「レオノーレ」、指揮者へのインタビューCDがついていた。
毎日会社から帰ると、1日1曲ずつ、ラジカセを机においてゆっくりと演奏を楽しんだ。

Imgp0200

あの頃、リゾートや外国に出かけたり、珍しいものを見に行ったりしたわけではないが、それなりに夏の思い出として心に残っている。心に残る風景は、平凡な住宅街と夏空、夜になると賑やかになる駅前と、帰宅する勤め人たち、そしてちょっと社会から隔絶しいてる僕、だ。

Imgp0181

そんなことしか覚えていないんじゃあ、仕方がないよなあ・・。

Imgp0182









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夜の向こう側

2014年06月10日 | 記憶の断片

夕食後、自分の部屋の窓を開けていると、遠くからいろいろな音が聞こえてくる。虫の声。踏切の警報器の音、電車の通過する音、バイクの発進する音、誰かの話し声。
Img_0118

思春期の頃、夜の街には不思議な魅力があった。いつも見慣れた昼の世界とは違う、新しくて楽しいことがたくさんあるような、そんな気がして、外の音を聞いているだけでわくわくした。

夜、ひとりで外を出るなんて経験はまだあんまりなかった。

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道をどんどん進んでいくと、そこには何が待っているのか、知りたい気がした。

Img_0110

すこし大きくなってから、夜、本屋さんとかに行くようになった。子供の頃からよく言っている本屋だが、夜行くとまた違う感じがした。安部公房みたいな眼鏡をかけたおじさんが、いつも座っていたな。
本屋の隣はあの頃から喫茶店だったかな。そっちの方に行くようになるのは、もっと大人になってからだ。

そうだ、大人になってからは、夜パチンコ屋に行ったりしたな。500円くらい、ちょっとだけやる。全然勝たなかったけど、大人気分で出かけていた。

Img_0112
本当の?大人になって、勤め始めるようになると、夜の街は別に珍しくも何ともなくなる。
新しく住んだ街も、どちらかと言えば夜出歩くことの方が多かった。おかげで今でも、その街のことを思い出すときは、夜の風景の方がしっくり来る。

P6154714
今でも、出歩くのは夜の方が多いかもしれないな。





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おフランスなCM

2014年01月26日 | 記憶の断片
もういつのことだったか覚えていないが、10年くらい前だろうか?ラジオのCMでこんなのがあった。

やたらと女っぽい声の人が、
「Qu'est-ce que c'est?(ケスク セ?)」と訪ねる。若い男の子が、震える声?で、
「そ、それは、テレビの主電源スイッチ・・」 と、言うかいわないかのうちに、
ブチッ 

「うわぁぁあっ」

「Qu'est-ce que c'est?」
「そ、それは・・エアコンの電源・・」
ブチッ
「ぎゃぁぁあっ」

ナレーション「使っていない電源は消すくせをつけましょう・・」(細かな言い回しは違っていると思うけど)。

広告主はあの東京電力、だったと思う。フランス語の「ケスク セ」と、「消す癖」を引っかけただじゃれだが、妙にしなを作ったような女性が強引にも?次々と電源を切っていくコントラストが面白くて、なかなか気に入っていた。

もう一つ、これも10年ほど前、地下鉄の駅の看板。全体をちゃんと捉えた写真がなくて、かっこわるいのだけど:
Dscn6397
左に見える看板、読めますか?
一番上に、英語で BE COINTREAUVERSIALとあり、その下に、
「あなたはコアントロバーシャルな女?」
とある。コアントローはフランスのリキュールだけど、コピーは英語のようで、まあ、controversial と引っかけているわけだ。ちょっと気取りすぎの感じがないでもない。
Dscn6395
ただ、看板全体のセンスはかなり良くて、この一帯だけパリに来たような雰囲気を漂わせていた。
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