うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

ちょうどいい車

2017年07月22日 | 鉄道、車、のりもの

ボルボが普通のエンジン付きの車の販売を順次やめていきます、と宣言したり、フランスが2040年までにガソリン車を禁止する?と宣言したりと、自動車界の動力革命はここに来て一気に加速する様子を見せてきた。

ボルボはハイブリッドなどエンジン付きの車は継続するというし、トヨタなどでもしばらくはハイブリッドを中心に製品展開していくものと思われるが、他方新規メーカーのEV参入も増えてきそうだ。EVは従来とは業界とのつながりからして違うのだそうで、日本メーカーの優位性が失われパソコンや家電と同じ道をたどるのではないかと、テレビの経済番組などでは懸念している。

何度か書いたと思うけど、僕は20代のころ、かなり熱心に車に乗っていた時期があったが、その後20年以上にわたりほとんど運転しない時期が続いた(とはいっても、年に数回程度は運転していたが)。その間に自動車も、世の中が変わったのと同じように大きく変わった。

過去に色々な知識を持っていた分、「常識」が変わったことに対し驚いたり、違和感を感じるとも、運転を再開してからしばらくは多かった。

車といえば4ドアセダンが普通だったのが、すっかり様変わりしたのは、やはりいちばんの驚きだ。迷ったらとりあえずセダンを買う、という常識が通用しなくなった。

ふつうのセダンはフォーマルすぎると、屋根を低くしたモデル(4ドアHT)に人気が集まって、中にはかなり窮屈なモデルもあったのだが、そういう車はカッコいいとされていた。

それが今はそそり立つようなミニバンが人気なのだから、変われば変わるものだ。

この、トヨタ アクアは、わりと昔のセダン風に低いポジションに座る設計で、僕なんかにはとても空間的に落ち着く。

全長4mそこそこの小型車なのだが、その割には室内は広々としている。

日産ノートなど、外観からは信じられないくらい車内が広くて、なんとなく不安になるほど?だ。あの車を見ていると、セダンが少数派になった理由がわかる気がする。

そういえば、昔は4ドア+ハッチゲートというモデルは人気がなかったね。シビックもファミリアも、一番人気は3ドア、次が4ドアセダンだった。3ドアはクーペと共に姿を消してしまった。

なぜ、プレリュードみたいなパーソナルクーペがなくなってしまったのか、不思議といえば不思議だ。

表向きは(!?)進歩した現代の車に関心を示したりしているが、本音の部分というか、もし昔の車がごく普通に手に入るなら、そっちのほうにより惹かれるものを感じる。。

写真のような車はちょっと古すぎるが、’80年代半ばから90年代前半ぐらいの車なら、別に何の気構えもなくふつうに乗れるはずだ。

なのだが、どうも中古市場などでは、そうした時代の車はあまり残っていないらしい。

むしろ、60年代のスバルとかブルーバード、箱スカなどのほうが、たくさん残っているようだ。

あれほどたくさん見かけたファミリアとか、リトラクタブルライトのアコードとか、検索してもほとんど引っかからない。プレリュードも2,3代目は見かけない。3代目なんて、人気あったのにねえ。。ただ、走り屋さんは乗らなかったというのはあるな。多少どてっとした運転感覚があれだったけど、あまり気負わずに乗れるし、普通に荷物は積めるし、一応4人は乗れるし、ダメなんですかねえ、今は。。この車見てから、最近の車見ると、やっぱりため息が出てしまう。。

別にEVでも3Dプリンタで作ってでもいいから、どこかで復刻してくれないかしら。。

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管理人

2017年07月22日 | 日記・エッセイ・コラム

 

「私がどうしてそんなものを集めているか気になりませんか?」と管理人が僕に訊ねた。

「この街じゃ誰もそんなものに興味を持ったりはしません。この街の人間は誰もものになんか興味を持たないんです。もちろん生活に必要なものはみんな持っています。鍋や包丁やシーツや服なんかはね。でもそれだってあればいいんです。用が足りればいいんです。それ以上のものは誰も求めたりはしません。ところが私はそうじゃないんです。私はこういうものにとても興味があるんです。どうしてかは自分でもよくわかりません。でもこういうものにひきつけられるんです。こみいった形のものや美しいものにね」

彼は枕の上に片手を置き、もう一方の手をズボンのポケットにつっこんでいた。

「だからほんとうのことを言えば、この発電所の事も好きなんです」と彼はつづけた。

「ファンやいろんな計器や変圧装置なんかです。私の中にもともとそういう傾向があって、それでここに送られることになったのかもしれません。あるいはここに来て一人で暮らしているうちにそういう傾向がでてきたのかもしれません。ここに来たのはもうずっと昔のことなんで、それ以前のことはすっかり忘れてしまいました。

だからときどき私はもう二度と街に戻れないんじゃないかっていう気がすることがあるんです。私にこんな傾向がある限り街は私を受け入れてはくれないでしょうからね」

(「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」下巻より 28『楽器』

 

楽器を探していた「僕」は、門番に教えられて森の入り口にある発電所を訪れる。

管理人はほっそりとした若い男で、こざっぱりとした服装をしていて、小声で話をする。一緒に来た図書館の女の子によると、

「あの人はうまく影を抜くことができなかった人なの。ほんの少しだけど、まだ影が残っているの・・だから森の中にいるの。森の奥に入れるほど心も強くないけれど、街に戻ることもできないわ。気の毒な人」

なのだという。

 街の住人は「影」を切り離され、死なせることにより「心」を失う。「影」をうまき切り離せなかった人は街に住むことが許されず、森の住人となる。

冒頭の発電所の管理人は、心を完全に切り離すことができなかったため、街と森の中間地帯である発電所に住んでいる。

心を失った住人は誰も傷つけあわず、欲望も持たない。他方、喜びや愛情などを感じることもない。楽器は残されているが、音楽も存在しないようだ。「僕」は手風琴を手にして、コードを押すことまではできたが、メロディは思い出すことができなかった。管理人は楽器を集めてはいるが、それは楽器の姿が美しく思えるからで、楽器を道具として使うために集めているわけではない。

管理人はそれでも、楽器の「もの」としての美しさは理解できるようだ。街の人は実用のため道具を使うが、ものそのものには興味をもたない。

心の失われた世界ー誰もが満ち足りて平和で、年も取らない。でも、恋愛や音楽や物欲はない世界。

管理人は望んでこの街に来たのか、そこはわからない。唯一、「僕」の隣室に住む大佐は、自ら影を捨ててこの街の住人になることを選んだのだという。かつては軍人としての生活に生きがいを感じていたが、今はもうそのころ彼を駆り立てていた名誉や闘争心などを思い出すことはできない。

「しかし心を捨てれば安らぎがやってくる。これまでに君が味わったことのないほどの深い安らぎだ。そのことだけは忘れんようにしなさい。」

 

今回再読してみて、発電所の管理人が「モノ」にある種の執着を見せていることに改めて気がついた。「街」の人々は、人間同士の愛憎からは解放されている。音楽も心の高揚を促すものだが、それもない。そのうえ、物欲もないわけだ。

オリンパスとペンタックス、どっちがいいかとか、やっぱり今買うならハイブリッドかしらとか、高校生の頃欲しかった漫画がヤフオクに出てるとか、煩悩に悩まされることはないわけだ、この街の人たちは。

それは良いことなのか、寂しくつまらない人生なのか。

そいつは難しいところだ。

 

 

「ヨコハマ買い出し紀行(14)」より再掲 今が幸せでそれがずっと続くなら、その方が良いに決まっている。

一番切なく感じるシーンのひとつだ。

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