早川文庫NV 2015年新装版
既に古典として定着している感があるが、ウェブで確認すると、日本でベストセラーになったのは割とさいきん(といってもここ数十年)のことらしい。。
まあ何にしても定評ある小説なのでストレートに感想も書きにくくて、初めから脱線するけど、最初にこの本を読んだのは25年前のことだ。今回のような文庫版ではなく、ローズピンクのベースに、おおやちきさんのセンシブルな花束のイラストが描かれた、ハードカバー版だった。おおやさんは、画集「絵独楽」を昔持っていましたけど、とにかく絵がきれいで・。今のイラスト界というか、まんが描く人たちのことは良く知らないのであれですが、語法は今と全然違っても、レベルの高さは今の人が見てもすぐわかるんじゃないかと思います。。その後の文庫版等でこのイラストが使われていないことを知った時は、ちょっとショックでした。
本は自分で買ったのではなく、同僚の子から借りたものです。貸してもらったというより、読んでみて、という感じで貸してくれたように覚えています。ちょうど少しずつ、読んでいる本やらCDやらの話をしては持ち寄ったりしていたころで・。借りたのは初夏から梅雨の初めごろで、なのでこの本について考えると、同僚の子のことや、駅からそのころ住んでいた小さなアパートに向かう道の、生暖かい夜の街の風景とか、当時ちょっと聞きかじっていたジャズのこととかを、思い出したりします。
夜道は、ちょうど小説の中でチャーリー・ゴードンが、不安を抱えながら何時間もさまよい歩いた姿にもつながっていきますが・。あの後半部分の、チャーリー自身も読者も皆わかっている結末に至るまでの、救いのない描写は、まさにその生温かい夜の風景のようです。森羅万象がすべて見てしまうような澄明な世界から(それこそおおやさんの絵の世界のようですが)、闇の中に足を踏み入れていく、行かざるを得ないというのは、どんな気持ちがするものなのか。
作者の視点は、本書序文で本人が触れているように「教養は人と人との間に楔を打ち込む」というところにあるので、チャーリーはどうしても残酷なまでの絶望に浸らざるを得ない。その過程では自分の経験や研究業績が、人類の進歩に貢献できるのではないかとか、下りのエレベーターに乗っていても、駆け上がっていればその場にとどまれるのではないか、と救いを求める発言もしているが、とにかくチャーリーは最期まで救われない。彼は退行期に読んだ小説「ドン・キホーテ」に、なにか暗示が隠されていることに気がつくのだが、自分自身のことについては思いいたらない。チャーリーは結局、彼自身の運命に楔を打ち込むことはできなかった。
本書が読者を魅了するのは、そうしたチャーリーのひたむきさへの共感だけではなく、読む人によって多様な受け止め方ができるところにもあるのだろう。チャーリーのような障碍ではなくとも、色々な形で社会に対し難しい対応を強いられている人たち、あるいは序文で作者が取り上げた読者のように、自分も今チャーリー・ゴードンのように、これまで獲得し成就してきたものを失いつつあるのだ、と感じている人たち。
後者はチャーリー(の人生)をより普遍的というか、多くの人が経験する人生が圧縮されたようなものとする捉え方なのかもしれない。運命に翻弄され、何かを獲得しそれを失うことは、なにもチャーリーだけが経験することではない。それに多くの場合、我々自身もゆっくりと、かつては獲得していたものを次第に失っていくものである(あまり触れる気はないが、それは今切実に感じている課題でもある)。
まだ書き足りないこともあるが、前半に余計なことも書いてしまい、まとまりがなくなりそうなのでこの辺で。