うさぎくん

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Condolences and homage

2022年07月16日 | 社会・経済


昨日もマレーシアのマハティール元首相が来日して、1週間前に凶弾に倒れた安倍元首相の自宅を弔問に訪れた。
海外首脳からの弔意表明は凶行の直後から相次いでいる。
ウクライナの戦争の影響で日本を非友好国と規定したロシアのプーチン大統領から、単なる外交儀礼を超えた弔電が送られて来た事も記憶に新しい。

安倍氏は生前いくつものスキャンダルを抱え、それを巡って国を二分する議論が交わされていた。一般市民の弔問は今日も続いているようだが、他方ネット上では刺激の強い言葉で故安倍氏を非難する投稿も続いている。

流石に政治家は ―一部の方の「失言」を除き― 節度ある発言をしている。安倍氏と対立することの多かった共産党の志位委員長も、演説で弔意を示すとともに「大変悲しく寂しい思いです」と述べている。このほか新興の少数野党の代表の人たちも同様のコメントをしている。

ネット時代でなければ、テレビなどで見る海外や一般の弔問客、与野党政治家のコメントなどが情報のすべてで、まったく酷い話だ、と思うぐらいでおわりだったはずだ(正直それ以上なにか関わることはない)。

ネット上で交わされる強い言葉を見ると、まず何よりも心を滅入らせられる。
人から殺されることを望む人はまずいないと思う。
誰であれ無念に思う死に方のはずだ。
まずはそれなりの敬意、弔意をもって臨むのが礼儀だろう。
たとえば何も言わない、ということであっても十分だ。

とはいえ、言葉というのは不完全なものだ。
刺激の強い書き方をした人が、その言葉から想像されるような過激な性格をしていることはまれだ(ネットで中傷コメントを書き込む人がごく普通の社会人だという話はよく聞く)。


Twitterで偶々読んだ話(すみません、通りすがりで読んだのでお名前わかりません)。

不治の病に侵された親友を見舞ったとき、ふだんは非常に聡明なその人から「もう死にたい」と言われた。
書きこまれた方(医師)は思わず「え!?」と言って相手の目を見てしまったそうだ。
その親友がそういう言葉を吐いたのはその時だけで、残り数か月は感謝の言葉とか、人生悔いなしというようなことを語るだけだったという。

「死にたい」という言葉には、亡くなられた親友が表現したい何らかの思いが含まれていたはずだ。しかし言葉として発した瞬間、そのコミュニケーションはどこかで破断してしまった。親友はその聡明さ故、相手の反応を見てそれを悟ったのだろう、と書かれていた。

その方は、ツイッターで見知らぬ人から酷いコメントをもらうことがあるが、今は安易にブロックしたりということはしないのだという。伝えたいメッセージは、それに相応しい言葉で語られるとは限らない、という思いがあるのだろう。

逆にというべきか、こんな書き込みも見た(こちらも誰だか忘れてしまいました。ごめんなさい)。
(今回の事件について)いつか熟年離婚したいと心に秘めていたのに、急に相手が不慮の事故で亡くなってしまったような気分だ、という方。なかなか、うまいというか。。
そういう気持ちのひとも、いるんだろうな。。

個人の思いとしては、今回の不慮の死はやはり痛ましい、非難されるべき事件であると思う。
また、故人の実績を本当の意味で棚卸して、功罪の評価をするのはもっと時間を置いてみないとわからないと思っている。今はいろんな方の利害が複雑に絡み合っている。すぐにではないが、いずれそういうのは、徐々にほどけて行くものだ。
その時を待つべきだ。

とはいえ、世間では既に安倍政権時代を振り返る作業は始まっている。

日経新聞では今週6回にわたり「安倍政治とは何だったのか」という連載を掲載した。とりわけ日銀と安倍政権の係わりの回が興味深かった。

平成10年の日銀法改正で(政府からの)独立性、透明性を強化されたはずの日銀だが、現総裁の就任以来「協調する日銀」政策が続く。記事ではそれを問題視する記述にはなっていないが、いずれはその評価がはっきりしてくるだろう。

コメント
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