ウクライナの戦争について高名な政治学者が時折Twitterにコメントを書いている。それは役に立つことが多いが、その返信を見るとひどい誹謗中傷とか、仰せの通りみたいなものばかりだ。ものすごくレベルの落差が大きくて、議論にならない。
返信は制限できるのだが、学者さんによってはむしろコメントをもらいたいと思っている人がいるようで、なんというか、不毛な会話が繰り返されている。
良く知ってるわけではないけど、学術上の論争ならお互い文章を読んで解釈し、反論する論理を組み立てて、ということに一定の時間がとれる。裁判は時間を置いて何度か行われるが、あれもお互いに反論するのに必要な時間を持てる、という意義があるのだろう。
ふだんの会話にはそれほど考える時間はない。相手の呼びかけにすぐ反応しなければならない(できなければお互いに苦痛を感じ、会話が終わる)。結果、自分の意図した話にはならない時もあるが、なんとなくお互い納得、みたいな終わり方になることもある。
会話は録音でもしないと残らないが、Twitterなどは言葉が残るので厄介だ。
e-メールが普及しだしたころにもそんな話があったが、未だにこのへん人類は、言葉というツールを使いこなせていない気がする。
瞬間的、当意即妙に会話することと、考えて文章を組み立てることは、脳の使う場所がちがう気がするんだよね。というか、しゃべるのと同じ感じで文章書く、と言えば良いのか。