うさぎくん

小鳥の話、読書、カメラ、音楽、まち歩きなどが中心のブログです。

人生ベストテン

2016年09月19日 | 本と雑誌

角田光代 単行本発売は2005年。僕が買ったのは講談社文庫 2008年。 

角田さんは名前だけしか知らなかったし、今も代表作が何かすら知らない。書店で平積みされているのを見て、タイトルに惹かれて買った。

想像通りというか、全体に重くて湿度が高くて、暑くも寒くもないが動くと汗かいてと、今の天気みたいな雰囲気が全編に漂っている。

先日読んだ「コンビニ人間」のように、導入部を軽いテンポで誘うようなこともなく、最初から重いのだ。読みづらいというほどではないが、読者はすこしずつ、この小説の重さに身体を慣らしながら読み進むことになる。

 

日常と非日常、という対比がテーマなのかな、と思った。

日常、それも救いがたいほど中途半端で、先行きが見えず、疲労と倦怠の中、どこかに光明を見出したいと考えている主人公たち。

彼らは、その光明を、ある時は旅に求めたり、1日だけのデートクラブに求めたりする。非日常の世界だ。あるいは、新居を買って引っ越して、心機一転を図ろうとする。

この短編集では、主人公たちの多くが、そうした日常からの脱却に失敗している。それはそうかもしれない。非日常は求めれば確かに得ることはできるが、そのことが日常を直接変えてくれるわけではない。彼らは、現実を変えたいと思いながら、それを直接解決することをせず、そもそも現実をきちんと見ようともしていないのだ。

「飛行機と水族館」の主人公はそのひとつの例だ。非日常をそのまま日常に持ち込んで、ストーカーまがいの行為に及んでしまう。

「観光旅行」の主人公は、日本人のいない全く違う世界で、自分を見つめなおそうと思っていたのに、レストランで偶然出会った日本人親子の痴話げんかにまこきこまれてしまう。

「テラスでお茶を」の安藤は、恋人とのこじれた関係、仕事上のトラブルなどを抱える日常を離れ、マンションを買って引っ越すことに希望を見出そうとする。しかし、案内された物件にはまだ人が住んでおり、彼らの日常がこびりついた部屋をいくつも見ているうちに、最初の興奮は失せ、次第に幻滅を感じはじめる。そして、案内をしてくれる若くて生真面目そうな不動産屋の佐藤に、逆恨みに近い気持ちを抱く。

日常と非日常を象徴的に表しているのが、「飛行機と水族館」の山下深雪の発言だ。

『ひとりで部屋でCDかけるでしょ。そうすると終わったときにしん、となるでしょ。私はあの感じが大嫌いなのね。』

 

なにも旅に出たり家を買ったりしなくても、日常のなかに非日常を見出すこともある。

仕事や用務などで一緒になった人が、自分となにか特別な関係であるかのように想う。そこにはなにか、今の自分とは違う、まったく別の自分がいるような気がしてくる。

この短編集ではそれが、頻繁に出てくる。「床下の日常」の岡田などは、客先の詮索をするのがが大好きで、プロ意識が足りないといつも怒られている。彼の場合は、自分の実人生自体が日常とは言えないものになっている。彼は自分の生活がまるで長い旅行のように思えている(思うだけで、どこかに行きつけるとは考えていない。その点、ここのほかの主人公たちとは異なる)。

『だって、たとえばここがイスタンブールでもかわりがないじゃないか。あるいはメルボルンでもリスボンでも台北でも、・・。そんなのもなんかいいな、と思うが、もちろん現実の僕らはどこにも行きつかない。どこにも向かおうなんてしてやしないんだから。』

内装屋見習いの岡田は、客先の不愛想な女に昼食を作ってもらい、テーブルをはさんで向き合いながら、思う。

『ふいに、目の前の女のことを何もかも知っているような錯覚を味わう。どういうことをすると彼女が怒るのか、とか、彼女が何を大事にして暮らしているのか、とか。彼女が過ごしてきた日々の細部をも、知っている気になる。嫌なのにそういえずピアノ教室に通った幼いころや、靴下を土埃に染めて走っていた、中学の部活の日々。シャツの下のどこにほくろがあって、下着の中のどの部分をどんなふうに触ると感じるのか、そんなことまで、逐一知っているような。毎晩、とめどない言葉を交わしながらこうして向き合って食事をしているような、言えと言われたら昨日交わした会話だって口にできそうだ。けれど、泣いている彼女を何と言ってなぐさめたらいいのか、それだけが思い当たらない。』

「テラスでお茶を」の安藤も、物件を案内してくれる佐藤に反感を覚えながらも、いつしか自分は彼と恋人同士であり、 一緒に暮らす家を探している、という錯覚に何度も襲われる。

それはもちろん他愛のない遊びのようなものだ。道路の白線を、谷川に渡された丸木になぞらえて落ちないように歩く、ようなものかもしれない。

だが、もしかしたら、現実の恋人や夫婦との会話などよりも、よりいっそう、自分の感覚の求める恋人や夫婦の会話に、純粋に近いのではないか、と思えたりもする。

「人生ベストテン」の仁川は、(偽)岸田に語り掛ける。

『例えばの話、隣に座った二歳年上の男性社員が、何気なくコーヒー入れてくれたりさ、私の落としたものをさっと拾ってくれたりするとね、ああ、なんか中学生のときみたい、って思うんだよね。中学生のときって、そんなことで人を好きになったりしたじゃない。
(中略)だからみんな、あんなふうに中年っていうぬいぐるみをかぶったみたいに見えるんだと思うのね。私は何もやっていないということを自覚していきたい。結婚したら、そういうことがわかんなくなるのがこわい。』

その瞬間、瞬間のひととのつながりこそが真実であり、たぶん、それが生活という根を持った瞬間に、様々なことがそこにぶら下がってきて、いろいろなことが見えなくなるという。。

ここの主人公たちは、そこで出会ったその場限りの相手を通じて、なにかを、整理しきれぬほどに絡み合った日常からは見えなくなったなにかを見ようとする。 

安藤は佐藤の生真面目さや、紋切り型の会話に時に苛立ちながらも、そんな彼との会話から自分自身が投影されているのを見つける。

『佐藤紀幸の模範的回答は私に気づかせる。私がたったいま語ったことなど全て嘘だということを。現実の佐藤則之が献身的聖人ではないのと同じように、私もまた、しゃかり気にがんばる敵の多いキャリア女ではなく、ただ流されるように日々をやり過ごしてきた怠慢な人間に過ぎない』

 

最初に、主人公たちの多くが、非日常に救いを求めようとして失敗している、と書いた。しかし、彼らはいずれも、最後にはそこから何かをつかみ、新たな一歩を踏み出そうとする。ストーカーまがいの行動をとって、あれは警察沙汰になったのかな、森本も、さいごには自分を取り戻したようだ。「観光旅行」の主人公も、ハシヅメ君に連絡する気になり、嫌だと思っていた親子と顔を見合わせて笑う。

彼らに幸多かれ、と祈りたくなるが、おそらく作者の同様の思いで筆をおいたのだろう。。

 

すいません、感想文にしては長ったらしかったですね。つい。。

外は台風の影響で雨。

音楽は、最初が松任谷由実、つぎがジャニス・イアンで、今はS&G。さいきんS&Gよく聞くな。

そういえば、松任谷由実の最後の曲はSeptember Blue Moonだったね。今の季節の曲だな。

 

 

 

 

 

 

 

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