昔はグレープとかかぐや姫とかはそんなにぴんと来なかったのですが、月日が流れ、色々な経験をしてくると、時折妙にあの世界が懐かしく思えるときがあります。
特に夜の国道を車で流しているときなんてのは、昭和歌謡とか70年代フォークはよくにあいますねえ。。前にも何度か書きましたが、夜中にトラックの間を縫って運転しているとき、北原ミレイ「懺悔の値打ちもない」が流れてきたときは、しびれました。。まるで風景が変わって見えるような。
北原ミレイさんの歌の女性はちょっと過酷すぎますが、神田川の女性は、貧しくて辛そうに見えて、ちょっと普通は得られないような幸せをかみしめています。
今手元にないと思うけど、村上春樹氏が昔のエッセイに、若いころ貧乏することは全然苦じゃなかったけど、最近の若い人はどう感じているのかな、という意味のことを書かれていたことがある。村上氏が若い子と貧乏の話をした時の、貧乏への世代的なギャップを感じた驚き、のような話しだったと思うが、ここで最近の若い人、というのは僕たちの世代のことを指している。村上氏ぐらいの世代の人は、若い時代の貧乏が苦にならなかったというか、それを懐かしむような感覚があるらしい。
かぐや姫の歌に「赤ちょうちん」というのがあるが、こちらもよく似た若いカップルの歌で、雨が続くと仕事せずにキャベツばかりかじっていて、そんな暮らしがおかしくて、あなたの横顔見つめていた、という歌詞がある。
じつはこの歌詞を改めて聴いて、うわなんだかすごく羨ましい感じ・と思ってしまった。いくら気持ちが若々しくても、じっさい見かけが若い感じでも、暮らしぶりが未熟というか羽目をはずした暮らし方をすることは、実年齢を重ねるとなかなか難しい。それなりの分別をつけていないと、社会の中で浮いてしまう。
まあ、そんな世間体をかなぐり捨てて生きられたら、それこそ本物なのかもしれませんが。。
かぐや姫の歌の出た時代、僕らは物心ついてはいたけど、当時はちょっと世代的に理解するのが難しくて(同じころ流行った天地真理とかチェリッシュなら受け入れられたけど)、そのあとも僕は素通りしてしまっていて、まあ今頃こうして聞きなおしたりしている。。
あの頃の若者たちのいた世界に、自分もいつか行くのかな、と思いながら、結局似てるけど違うところを通ってしまい、「いつか・・」という思いだけが残ってしまった感じがする。もちろんもう「いつか」は来ない。。んですねえ。。
今の若い子たちの歌を聴くとき、その歌詞に出てくる人たちの世界に「自分もいつか」という気持ちを持ちえないところが、昔の若者の歌をきいたときとの違い、かもしれませんね。