写真はイラン
ペルセポリスから車で小一時間ぐらいに位置する
石切り場のある村。
此処から、ペルセポリスの大きな石が運ばれたといわれている。
ブラームス/ハンガリー舞曲 第6番 Brahms: Hungarian Dance No.6
ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms 4 ブラームス/ハンガリー舞曲 第6番
ヨハネス・ブラームス Johannes Brahms
生誕 1833年5月7日
出身地 ハンブルク( ドイツ連邦)
死没 1897年4月3日(63歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国
ウィーン ジャンル
ロマン派音楽
1843年 - 1897年
1862年にウィーンを初めて訪れた後、ブラームスはウィーン・ジングアカデミー(ドイツ語版、英語版)の指揮者としての招聘を受けウィーンに居着くことになる。
1869年までには活動の本拠地をウィーンに移すことを決め、1871年にカールスガッセ4番地へと移り住んだ。
この時期の間にブラームスは1868年に完成した『ドイツ・レクイエム』などの作品で高い評価を確立した。
1865年には母が、1872年には父が死去している。
ウィーン移住からおよそ10年後の1876年に、19年の歳月をかけた『交響曲第1番 ハ短調』(作品68)を完成させた。
この作品は後に指揮者のビューローをして「ベートーヴェンの10番目の交響曲のようだ」と語らしめた。
他の3つの交響曲は、それから比較的短い間隔で書き上げられ、第1番から間もない1877年には『第2番 ニ長調』(作品73)が、1883年に『第3番 ヘ長調』(作品90)が、そして1885年に最後の『第4番 ホ短調』(作品98)が、それぞれ発表された。
ブラームスは1878年から1893年までの間に8回イタリアを訪問し、気持ちの良い地方を探して夏の間に作曲した。
1889年12月2日、トーマス・エジソンの代理人の依頼で『ハンガリー舞曲第1番』とヨーゼフ・シュトラウスのポルカ・マズルカ『とんぼ』を蓄音機に録音した。
これは史上初の録音(レコーディング)とされている。
またこのときのピアノ演奏で、初めて自身の老いを自覚したと言われる。
翌1890年、57歳になり意欲の衰えを感じたブラームスは作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿を整理し始めた。
(Wikipedia)
誰しもが聴いたことがあるであろう、ブラームス/ハンガリー舞曲 第5番 Brahms: Hungarian Dance No.5
シュメリングとは『ハンガリー舞曲集』を編曲した人