乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

『マノン・レスコー』アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ /動画でわかる《マノン・レスコー》

2024-10-27 | クラッシック音楽

動画でわかる《マノン・レスコー》

 

『マノン・レスコー』アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ /動画でわかる《マノン・レスコー》

 

 

 アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ (Antoine François Prévost d'Exiles、1697年4月1日 - 1763年12月25日)は、フランスの小説家。

 

 カトリック教会の聖職者であったため、アベ・プレヴォ(Abbé Prévost、僧プレヴォ)と短縮して呼ばれることが多い。  

 

 人物・生涯 エダン(フランス語版)にて弁護士の子として生まれた。

 

 イエズス会学校で学び、幾度か聖職を離れて軍に入隊したり、逃亡して外国へ行った経験が、高名な小説『マノン・レスコー』の土台となった。

 

 また著作家として、15世紀以降のヨーロッパで出版されたあらゆる紀行文をまとめて『旅行の歴史』を出版した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『マノン』あらすじ

2024-10-27 | クラッシック音楽

3分でわかる!バレエ「マノン」|新国立劇場バレエ団

 

『マノン』あらすじ

 

 

『マノン』

  原作はマノン・レスコー

 フランスの貴族アベ・プレヴォーによる1731年の小説『マノン・レスコー(Manon Lescaut)』。

  正しくは『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』といい、7巻からなる自伝的小説集『ある貴族の回想と冒険』の第7巻に当たる。

 

  ファム・ファタール(男たちを破滅させる女)を描いた文学作品としては最初のものといわれ、繊細な心理描写からロマン主義文学の走りともされる。  

 

 この作品に基づくオペラ(歌劇)としては、マスネによる『マノン』の他、プッチーニの『マノン・レスコー』も有名。  

 

 なお、マスネによる歌劇『マノン』の音楽は、バレエ『マノン』では一切用いられていない。

 

 バレエでの音楽は、元ダンサーのレイトン・ルーカス(Leighton Lucas/1903-1982)により、マスネの他の楽曲が編曲・アレンジされたものが用いられている。

 

 

 

 あらすじ・ストーリー

 

 パリ郊外の宿屋に一台の馬車が停まった。

 中から降りて来たのは、ひときわ美しい少女マノン。

 家庭の事情で修道院に入るため、途中で立ち寄った宿屋だった。  

 

 宿屋にいた若き学生デ・グリュー(グリュウ)は、この美少女マノンにたちまち一目惚れしてしまい、二人で駆け落ちしようと彼女を説得する。

 

 マノンも優しいデ・グリューに心を開く。  

 マノンに惹かれたのはデ・グリューだけではなかった。

 好色な老富豪ムッシューG.Mはマノンの兄レスコーに彼女の身請け話を持ちかけ、大金と引き換えに兄レスコーの同意を取り付けた。

  しかし、ムッシューG.Mと兄レスコーが話している間に、マノンはムッシューG.Mの財布を抜き取り、デ・グリューと駆け落ちする。

 しばらく二人は同棲を続けるが、デ・グリューの留守中にムッシューG.Mが現れ、大金でマノンを説得し、愛人として連れ去ってしまう。

  ムッシューG.Mのパーティー会場で、マノンとデ・グリューは再会する。

 

 マノンを説得するデ・グリューに、

「カードでイカサマしてムッシューG.Mの金を巻き上げられれば一緒に行く」

と答えるマノン。

 だがイカサマは見破られてしまう。  

 逃げるマノンとデ・グリュー。

 しかし荷造りの途中でマノンが警官に捕まってしまう。

 

 アメリカに流刑になるマノン。

 デ・グリューはマノンを追ってアメリカに飛んだ。

 

  ニューオルレアンの刑務所に送られたマノン。

 美しい彼女はすぐに看守の目にとまった。

 看守がマノンを口説いている所へ踏み込んでくるデ・グリュー。彼は看守を刺してしまい、マノンを連れて逃亡する。

  ルイジアナの沼地に逃げ込む二人。

 疲れ果てたマノンは倒れ、デ・グリューの腕の中で静かに息絶えるのだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ 1 ネトレプコが迫真の演技『マノン』

2024-10-27 | クラッシック音楽

プリマ・ドンナ・オペラの最高峰!ネトレプコが迫真の演技と絶唱で大女優を絶唱

 

 

ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニ 1

 

(伊: Giacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Puccini、1858年12月22日 - 1924年11月29日)は、イタリアの作曲家。

 その作品である『トスカ』、『蝶々夫人』、『ラ・ボエーム』などのオペラは今日でも上演の機会が多いことで知られる。

 イタリアのルッカに生まれ、ベルギーのブリュッセルで没した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 『マノン』/ JOSÉ CURA, " Manon Lescaut " -- Teatro alla Scala. 1998

2024-10-27 | クラッシック音楽

JOSÉ CURA, " Manon Lescaut " -- Teatro alla Scala. 1998

 

 『マノン』/ JOSÉ CURA, " Manon Lescaut " -- Teatro alla Scala. 1998

 

 

『マノン』 あらすじ(Wikipedia)

 

第1幕  

 デ・グリューとマノンの出逢い フランス、アミアンの宿屋。

 この宿屋に、放蕩貴族のギヨーは友人のブレティニや高級娼婦達と食事をしに立ち寄る。

 しかし、宿屋の主人がなかなか食事を運んでこないので腹を立てている。漸く食卓が整ったところに、1台の馬車が到着し、ブルジョワ達の群衆の中からマノンが降り立つ。

 マノンはその享楽的性格から修道院に入れられることになっていたが、彼女自身はその運命を既に諦めていた。

 

 マノンは、迎えに来た従兄レスコーに対して、この心情を表すアリア「私はまだぼうっとしています」を歌う。

 

 マノンの美しさに目を奪われたギヨーは、金と身分にものを言わせてマノンを連れて帰ろうとするが、レスコーに阻まれる。

 レスコーはマノンに節操を守るように説教し、自らは友人達と賭け事をするためその場から離れる。

 

 そこに、父の元へ向かおうとしていた騎士デ・グリューが登場し、マノンの美しさに目を奪われる。

 ためらいがちにマノンに話しかけたデ・グリューは、マノンの修道院入りの話を聞くと、それを思いとどまらせて、2人でパリに行くことを提案し、マノンも同意。

 

 2人は憧れの街パリへ逃れる。(以下、楽譜上省略可能)そこに登場したギヨーとレスコーはマノンが駈落ちしたことに怒り、集まった群衆はまんまとしてやられた2人を笑い飛ばす。

 

 

 

 第2幕

 パリ、ヴィヴィエンヌ通りのデ・グリューとマノンの家。

 2人は、貧しくとも愛情に満ちた生活を送り、デ・グリューは、マノンとの結婚の許しを求める手紙を父に記す。

 そこへ突然、マノンを我が物にしようとするブレティニと、彼に買収されたレスコーが現れる。

 レスコーはデ・グリューとマノンとの仲を認めたふりをし、デ・グリューが書いた手紙を満足げに読み上げる。

 その間にマノンはブレティニーから

「貧しい生活とおさらばして、贅沢な暮らしをしよう」

と誘惑され、さらにデ・グリューがその夜実家に連れ戻されることになっていることを知らされる。

 

 奢侈を求めるマノンは葛藤を抱えながらも、デ・グリューとの別れを決意。

 

 ブレティニとレスコーが一旦その場から離れ、デ・グリューは手紙を出すために不在にする。

 彼女はアリア「さよなら、私たちの小さなテーブルよ」を歌う。

 

 デ・グリューが帰宅すると、マノンが泣いている。

 彼は、その涙の理由が分からず、アリア「夢の歌」を歌い、彼女を慰める。

 

 そこへ父親の配下が現れ、デ・グリューを連れ去ってしまう。

 

 マノンは窓辺に駆けより、「私の可哀想な騎士さん!」と絶叫する。  

 

 

 

 

第3幕

 

第1場

祭りで賑わうクール・ラ・レーヌ。

 ブレティニの目を盗んで、レスコーと3人の高級娼婦たちが遊びに繰り出している。

 そこへ女王然として登場したマノンは、その美しさを群衆に讃えられる。ブレティニは、ギヨーの

「自分からマノンを奪わないでほしい」

との懇願を退け、金に物を言わせてオペラ座のバレエ団を呼び寄せ、マノンを誘惑する。マノンはここで群集を前にアリア「私は全ての道を歩く」、「甘い愛に誘う声に従いましょう」を歌う。

 

 ここで現れたデ・グリューの父親、伯爵とブレティニの会話から、デ・グリューがサン・シュルピスの神学校にいることを知ったマノンは、友人の話とごまかしつつ、デ・グリューが自らのことを愛しているか尋ねるが、伯爵はデ・グリューがマノンのことを既に忘れていると述べ、マノンは衝撃を受ける。

 マノンはバレエもろくに見ず、デ・グリューの元へ向かうためその場を立ち去る。  

 

 

第2場

 サン・シュルピス大聖堂。

 デ・グリューはマノンとの思いを断ち切るために信仰に身を捧げることにした。

 だが、マノンへの思いは断ち切りがたくアリア「消え去れ、優しい幻影よ」を歌う。

 

 そこへマノンが登場。

 それに驚くデ・グリュー。

 彼はマノンのかつてのよりを戻す願いに耳を貸そうとしない。

 しかし、マノンが「あなたの手を握ったことを思い出してください」という「誘惑のアリア」を歌うと、心が溶かされてしまう。

 

 第4幕

 賭博場ホテル・トランスシルヴァニ。

 共同生活を再開したマノンとデ・グリューであったが、マノンの相変わらずの享楽的な生活は変わらない。

 そのためデ・グリューは亡き母の遺産をとうとう使い果たしてしまう。

 

 マノンはデ・グリューに賭博で金を稼ぐことを提案し、ためらう彼をホテル・トランシルバニアの賭博場に連れ出す。

 そこにはギヨーがいて両者は賭博で対決。

 

 幸運にもデ・グリューは賭博でもギヨーに勝利するが、それに腹を立てたギヨーはデ・グリューがいかさまをしたとでっち上げる。

 

 2人は哀れ、警察に逮捕される。

 

 第5幕

 ル・アーブルへの道中。

 捉われの身となったマノンとデ・グリューであったが、デ・グリューは父親の力添えで自由の身となる。

 しかし、マノンは売春婦としてアメリカに売り飛ばされることになった。

 

 マノンの奪還を試みるデ・グリューであったが、レスコーから

「兵が集まらなかった」

と聞かされ愕然とする。

 

 マノンの奪還が絶望的となり落胆するデ・グリュー。

 それに同情したレスコーは流刑船の関係者を買収し、両者の逢瀬の場を用意する。果たして。

 マノンとデ・グリューの逢瀬は実現したが、マノンは衰弱して明日とも知れぬ命であった。

 

 2人は熱い抱擁を交わし、変わらぬ愛を確かめ合うが、マノンは将に息絶えようとしていた。

 デ・グリューは

「この手を握ったわが手を思いだせ」

と叫びマノンを励ますが、マノンは空しく息絶える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チェコの歴史

2024-10-27 | 資料での旅

 

チェコの歴史

 

歴史(Wikipedia)

  古代〜中世まで 古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。

 その後ゲルマン人が定住したが、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。

 

 7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配、続いてアバール人が支配者となった。

 

 9世紀前半、スラヴ人が大モラヴィア王国を建設した。

 

 大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。  

 

 カレル4世時代のボヘミア王冠領 西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国(チェコ語版、英語版))。

 

 907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配を受けることになった。

 

 10世紀後半からカトリックが普及した。

 11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。

 

 12世紀のオタカル1世の時代にボヘミア王の称号(Duchy から Kingdom に昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。  

 

 13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。

 14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。

 

 ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。

 

 首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。

 この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。  

 

 15世紀にはヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」とみなされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱が起きた(フス戦争)。  

 

 その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。

 

 チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。

 

 この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。

 

 なお、チェコ史においてハプスブルク家の支配は長年「暗黒時代」とされてきたが、これには旧体制を否定しようとする新生の共和国、続く共産主義政権のプロパガンダが多分に含まれており、「暗黒時代」史観はもはや過去のものとなっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チェコ共和国

2024-10-27 | 繰り返し記号 memo

 

チェコ共和国

 

チェコ共和国(Wikipedia)

 通称チェコは、中央ヨーロッパにある共和制国家。

 首都はプラハである。  

 国土は東西に細長い六角形に近い形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。  

 

 

概要

 国体が常に激しく変化して来た歴史を持つ国家の一つである。

 かつてはチェコスロバキアと呼ばれた共産主義体制国家の構成地域であったが、1989年からの革命によってその体制が崩壊したことから、1993年にチェコとスロバキアへ分離して現在の同国が成立した。  

 NATO・EU・OECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。

 

 国名

 正式名称(チェコ語)は Česká republika(チェスカー・レプブリカ)。通称は Česko(チェスコ)。

  英語での公式名称は Czech Republic[6]であった。

 

 チェコ外務省が1993年に提唱した通称にラテン語風の Czechiaがあり、チェコ政府は2016年4月14日に公式にこの略称を英語圏および国連に向けて使用することを発表したが、現在一般的に使われているとは言いがたく、Czech Republic をそのまま用いることが多い。

 

  ドイツ語では Tschechische Republik。

 

  外務省統

 表記はチェコ共和国である。

 通称チェコ。かつての外務省書類などではチェッコという表記が使用された。

  かつてひとつの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは Czechoslovakia である。

 これは1918年の建国時にチェコ民族とスロバキア民族によるひとつの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。  

 

 チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。プラハを中心とした Čechy、ブルノを中心とした Morava、さらにポーランド国境近くの Slezskoの3つの地方がチェコ共和国を形成している。

 

  ボヘミア地方を示す Čechy(チェヒ)をチェコスロバキア建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。

 

 歴史的に、チェコ語における Čechy、および英語の Czech では、「ボヘミア地方」のみを指す文献もある。

 そのため、特にチェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、Česká republika、Czech republic を用いる。  

 

 現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける Česko は、チェコスロバキア時代の通称 Československo から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィーンの観光、劇場、カフェハウス

2024-10-27 | 資料での旅

ウィーンの観光、劇場、カフェハウス

 

観光  

 カールス教会  シュテファン大聖堂  ペーター教会 宮廷文化の栄えたウィーンは18世紀末から20世紀初頭にかけて、数々の大作曲家の活躍の舞台となった。  

 

 また、かつては世界屈指の学問の都であり、特に19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの先端的な業績を生み出したほか、カールス教会など建築分野でも傑作が存在する。  

 

 宮殿、大聖堂 シェーンブルン宮殿 ベルヴェデーレ宮殿 ホーフブルク宮殿 カールス教会 シュテファン大聖堂 ヴォティーフ教会 ペーター教会 聖ミヒャエル教会

 

 

劇場

 ブルク劇場 ドイツ語圏で最高の格式を誇るとされる劇場

 

 

カフェハウス  Kaffee Alt Wien

 ウィーンのカフェハウスは、オスマン帝国によるウィーン包囲の際にトルコ軍が置いていったコーヒー豆をコシルツキーが発見したことに始まると言われる。

 19世紀にはウィーンのカフェ文化は文化生活の中心であった。

 多くのカフェは当時と変わらぬ姿で多くの観光客を惹きつけている。

 なお、ウィンナ・コーヒーは「ウィーン風コーヒー」の意味であるが、実際にはウィーンにこの名前のコーヒーは存在しない。

 

  ウィーンの代表的カフェハウスには以下のようなものがある。  

 カフェ・ゲルシュトナー (Gerstner):1847年創業。

 旧皇室御用達 (k.u.k.) でケルントナー通りにある。

 国立歌劇場内やウィーン楽友協会ホール内にも出店しており、コンサートの休憩時間に利用できる。

 美術史博物館内にも支店がある。

 

 カフェ・ラントマン:ウィーンで最もエレガントなカフェと呼ばれた老舗。

 1873年創業。東京の青山に支店がある。 ホテル・ザッハー:国立歌劇場の裏にある。

 ザッハトルテの元祖。

 

 カフェ・デメル (Demel):同じくザッハトルテが名物。旧皇室御用達。 カフェ・ハイナー (Heiner):旧皇室御用達。 カフェ・ツェントラール (Central):ペーター・アルテンベルク、アルフレート・ポルガー、エゴン・フリーデルなど多くの「カフェ文士」が愛用。

 

 ポルガーに『カフェ・ツェントラールの理論』なる文章がある。

 グリーエンシュタイドゥル (Griensteidl):フーゴ・フォン・ホーフマンスタールなど多くの世紀末ウィーンの文人・芸術家が愛用。 シュヴァルツェンベルク (Schwarzenberg):楽友協会やホテルインペリアルに近い。

 

 リング沿いにある由緒あるカフェ。 ショッテンリング (Schottenring):リング沿いで最も歴史のあるカフェであったが、建物改装を機に閉店。 アルト・ヴィーン (Alt Wien):内装など、店名の通り古さを感じさせる店。 オーバーラー (Oberlaa):歴史は古くないが、ウィーン市内に多くの支店をもつ人気のカフェハウス。

 

 ハヴェルカ (Hawelka):旧市街の中心部にあり、開店以来内装を変更していない。 カフェ・ムゼーウム (Museum):アドルフ・ロースによる開店当時の内装のままに復元されたカフェ。

 グスタフ・クリムトはじめ世紀末ウィーンの建築家や画家が多く出入りしていた。 ティローラーホーフ (Tirolerhof):自家製のアプフェルシュトゥルーデルが人気。

 

 カフェ・モーツァルト (Mozart):国立歌劇場裏。

 ブルクガルテンにあるモーツァルト像は、かつてこのカフェの目の前にあった。

 ブロイナーホーフ (Bräunerhof):ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが常連だった。

 

 カフェ・シュペール (Sperl) 美術館・博物館  美術史美術館  美術史美術館  ベルヴェデーレ宮殿  ウィーン軍事史博物館 ウィーンの歴史を反映して多数の美術館・博物館がある。

 

  美術史美術館 - コレクションの一部はエフェソス博物館などの分館にも展示。 ウィーン自然史博物館 ホーフブルク王宮内宝物館 - 美術史美術館の分館であり、聖遺物として聖槍(ロンギヌスの槍として知られ、さらに中央部に聖釘が針金で固定されている)や数々の聖釘がある。

 

 アルベルティーナ リヒテンシュタイン美術館 オーストリア・ギャラリー(ベルヴェデーレ) - ベルヴェデーレ宮殿の上宮にある。

 クリムトをはじめ、オーストリアの画家の作品を集めた美術館。

 レオポルド美術館 - エゴン・シーレのコレクションでは世界最大のもの。

 ユダヤ人の眼科医レオポルド博士のコレクションを、オーストリア政府が買い取り美術館にした。

 

 ルードヴィヒ財団現代美術館 ミュージアムクォーター (MuseumsQuartier) 内。 造形美術アカデミー絵画館 - 造形美術アカデミー(美術学校)の学内にあり、ヒエロニムス・ボスのコレクションを持つ。

 アドルフ・ヒトラーはこの美術アカデミーの受験に失敗した。 オーストリア応用美術博物館 (MAK) ウィーン軍事史博物館 ウィーン民俗博物館 ウィーン路面電車博物館 オーストリア演劇博物館 ウィーン犯罪博物館 エスペラント&地球儀博物館 エッセルコレクション - ウィーン北郊クロスターノイブルクにある現代美術館。Baumaxの創業者エッセルにより建てられた。 エゴン・シーレ美術館 - シーレの出身地トゥルン(ウィーン郊外)にあり、デッサンなど小品が年代順に並んでいる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィーンの鉄道

2024-10-27 | 資料での旅

 

ウィーンの鉄道

 

鉄道  

 ウィーン中央駅

 主要幹線はオーストリア連邦鉄道 (ÖBB) により運行されているが、民間の鉄道会社ウェストバーンもウィーンからザルツブルク方面に列車を運行している。

 

  かつてウィーンからは帝国の各方面にむけて個別に鉄道が敷かれたため、パリやロンドンなどに見られるようにターミナル駅が分散しているが、これは現代の国際的な旅客移動を考えると合理的ではなかった。

 例えばドイツ方面から東欧方面に乗り継ぐためには、西駅から南駅に路面電車で移動しなければならなかった。

 また、南駅も構内で東駅と南駅に分かれており、イタリア方面から東欧方面には直通できない構造になっていた。

 このため、全ての国際列車が発着する中央駅が建設されることになり、2012年末に暫定開業、2015年に全面完成をみた。

 

 周辺は再開発されオフィスビルや住宅、緑地、学校、商店などを含む複合施設街区が誕生した。  

 

 西駅からリンツ・ザルツブルク方面へ向かうオーストリア西部鉄道はEUからTrans european network (TEN) の指定を受けた路線であり、パリ - ミュンヘン - ウィーン - ブダペストを結ぶ欧州の背骨である。

 このため、高規格路線化の工事が順次進められている。

 

 2008年末の新車両の導入により最高速度200 km/hで運行されている。

 ラインツ・トンネルの工事完成後は、中央駅を経由しリンツ方面からウィーン国際空港まで列車が乗り入れるようになった。  

 

 また、ポーランド南部まで延びている軌間の広いシベリア鉄道をウィーンまたはブラチスラヴァまで延長し、ドナウ川の水運を利用してヨーロッパ各地までアジアからの貨物を運ぶ計画が進行中である。  

 

 

 市内の主要駅は以下の通り。  

 

 ウィーン西駅 (Westbahnhof):ドイツ、スイス、リンツ、ザルツブルク、インスブルック方面。

 地下鉄U6・U3が発着。

 市内最大の商店街であるマリアヒルファー通りに近い。

 

 

 ウィーン中央駅 (Hauptbahnhof):2015年に全面開業し、全ての国際列車、優等列車がこの駅に停車するようになった。

 ウィーン・ミッテ駅 (Wien Mitte):Sバーンの主要路線および、地下鉄U4・U3, 空港特急CATが発着し、チェックイン設備もある。

 地下鉄を含めた1日の発着列車数がオーストリア国内で最も多い駅である。 ウィーン・マイドリング駅 (Wien Meidling):ウィーン中央駅が開業するまでの間、南駅の機能は主にこの駅に移されていた。

 U6やWiener Lokalbahn, 路面電車62などが通じている。

 ウィーン西方面からウィーン中央駅に向かう列車はすべてウィーン・マイドリング駅にも停車する

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィーンの川と運河、森林と公園、気候

2024-10-27 | 資料での旅

 

ウィーンの川と運河、森林と公園、気候

 

以下、Wikipedia

川と運河

 

 市の中央を、北西から南東にかけてドナウ川が横切っている。

 かつては氾濫を繰り返したこの川は、19世紀に大規模な治水工事が行われたことでまっすぐな姿になった。

 

 旧市街に接してドナウ運河が流れており、こちらをドナウ川であると誤解する観光客も多い。

 

 ウィーン市街はドナウ右岸を中心に発展してきたが、左岸は地下鉄の延長工事が進行中で、新興住宅地として人口が増加している。

 

 

 森林と公園

 市西部はウィーンの森として知られる森林地帯になっている。

 散策路が縦横無尽に走っており、市民の憩いの場になっている。

 

 13区にあるラインツ動物園内には皇帝の別荘ヘルメスヴィラがあり、市民に開放されている。  

 

 元皇室の料地でヨーゼフ2世が一般市民に開放したプラーター公園があり、公園内には映画『第三の男』にも登場した観覧車がある。  

 

 墓地 ウィーン中央墓地は、帝国崩壊前に人口400万を想定して建設された巨大な墓地である。

 

 著名な作曲家の墓は一か所に集められており、訪れる日本人も多い。ウィーン市が所有しており、全て分譲ではなく賃貸である。  

 

 サンクト・マルクス墓地(ドイツ語版、英語版)にはモーツァルトが埋葬されているが、遺骨は所在不明のため、中央墓地に墓碑がある。グスタフ・マーラーの墓は中央墓地ではなく、妻アルマの実家に近い19区のグリンツィング墓地にある。

 

 

 気候

 ウィーンの気候はケッペンの気候区分によれば、西岸海洋性気候と湿潤大陸性気候(亜寒帯湿潤気候)の変わり目に位置する。

 夏は適度な暑さで、平均気温は22 - 26℃の範囲で経過。

 最高気温は30℃を超えることもあり、最低気温は15℃位である。

 冬は比較的寒く、平均気温は氷点下付近まで下がる。12月から3月にかけては降雪も見られる。

 春や秋はさわやかで、穏やかに経過する。  年間平均降水量は620 mm程度。

 ウィーンの森がある西側は市内で降水量が多い場所で、年平均降水量が700 - 800 mmになる。

 平坦な東側は年平均降水量が500-550 mmと、市内では乾燥した区域である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代のウィーン

2024-10-27 | 資料での旅

現代のウィーン

 

現代のウィーン(whikipedhia )

 1989年のベルリンの壁崩壊は、中欧におけるウィーンの持つ価値を蘇らせた。

 150万人を切っていた人口は特に外国からの流入により再び増加傾向にあり、2030年ごろには再び200万人の大台を回復すると予想されている。

 

 これは2004年に中東欧8か国が欧州連合に加盟したのに加えて、2007年にはルーマニアとブルガリア、2013年にはクロアチアが加盟、今後もセルビアをはじめとするバルカン諸国の加盟が見込まれるからである。

 

  ウィーンには中東欧の経済的中枢として多くの多国籍企業が進出するようになったが、旧共産圏諸国のインフラが整うにつれて、企業の拠点としてプラハやブダペストなどとの競合も厳しくなっている。

 このため2005年に法人税などが引き下げられた。  

 

 ウィーン市はバイオテクノロジー産業の育成に注力しており、Vienna Biocenter などを積極的に整備している。

 

 またウィーンに拠点を置く金融機関が活発な買収を通じて中東欧での業務を拡大しており、中東欧における金融の中心としての地位をワルシャワと競っている。

 

 他方、観光も相変わらずウィーンの重要産業である。

 ICCAによる2016年の国際会議の開催件数では、パリに次ぎ世界第2位であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィーンの歴史

2024-10-27 | 資料での旅

ウィーンの歴史

 

 

ウィーンの歴史(Wikipedia)

 古代ローマの時代、ウィーンはちょうどローマ帝国の北の境界にあたる位置にあり、ウィンドボナ(bona はケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。

 これがウィーンの地名の起源と言われている。

 

  ハプスブルク家の帝都  1683年のウィーン  18世紀のウィーン  シェーンブルン宮殿  1900年ウィーン国立歌劇場 中世にもドナウ川沿いの交易地であったウィーンが本格的な発展期を迎えたのは、オーストリアを治めていたバーベンベルク家が1155年にクロスターノイブルクからウィーンに遷都したことに起因する。

 

 1221年、ウィーンは都市特権を獲得した。

 

 1241年、ワールシュタットの戦いやモヒの戦いで勝利を収めたモンゴル帝国軍が郊外まで迫った。

 バーベンベルク家は13世紀半ばに断絶し、1278年よりオーストリア公となったハプスブルク家の支配下におかれた。

 

 14世紀、建設公と称されたルドルフ4世のもとで、ウィーンは大きな発展を遂げた。

 この時代にシュテファン寺院やウィーン大学が建てられている。

 

 やがてハプスブルク家は婚姻政策の成功により16世紀に入るとボヘミアやハンガリーを初めとする多くの王国を相続し、ドイツの神聖ローマ帝国の帝位を独占。

 

 16世紀前半にはカール5世のもとヨーロッパ最大のドイツ系の帝国を築くに至る。  

 

 ドイツ民族居住地域の東端に位置し、スラヴ文化やマジャール文化の影響も受けると同時にその立地は国防上の難点でもある。

 

 1529年のオスマン帝国による第一次ウィーン包囲など、ヨーロッパ全体を震撼させる事件もあった。

 しかし、ハプスブルク家の支配下で帝都ウィーンでは華やかな貴族文化が栄えていた。

 

 1683年にもオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を受けたが撃退、17世紀末からは旧市街の王宮ホーフブルクに加え、離宮シェーンブルン宮殿が郊外(現在は市内)に造営された。

 これが18世紀末から現在に至る「音楽の都ウィーン」の礎となった。

 

 18世紀末にはヨーゼフ2世によりウィーン総合病院(ドイツ語版、英語版)が開設され、プラーター公園が一般市民に開放されるなど都市環境が改善されていった。  

 

 19世紀半ばに産業革命を迎えたウィーンは、農村からの流入により急激に人口が増加した。

 1869年に63万であったが1910年には203万を数え、当時のヨーロッパではロンドン、パリ、ベルリンと並ぶ都会であった。

 

 1873年にはウィーン万国博覧会も開催。

 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は自ら立案して大規模な都市改造を行い、市壁を撤去し環状道路(リングシュトラーセ)と置き換えた。

 路面電車が導入され、歴史主義的建造物やモニュメントを街路に面して配した。

 

 現在のウィーン旧市街の外観はこの改造に拠っている。  

 

 オーストリア=ハンガリー帝国は多民族国家であり、支配民族であったドイツ人は帝国の人口5千万の25%余りを占めるにすぎなかった。

 

 帝国各地からの人口流入により、ウィーンの街ではドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・ポーランド語・イディッシュ語・ルーマニア語はもちろんのこと、ロマ語・イタリア語までヨーロッパのあらゆる言語を耳にすることができたと言われる。  

 

 帝国各地からあらゆる民族出身の才能が集まり、ウィーン文化はその絶頂期を迎えた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィーン  概要

2024-10-27 | 資料での旅

 ウィーン  概要

 

 

概要  (Wikipedia)

 

 ウィーンの位置

 左のアルプス山脈と右のカルパティア山脈(図にはほとんど描かれていない)の間を流れるドナウ川のほとりにあるため、交通の要衝でもある  

 

オーストリアにおけるウィーンの位置  

 ウィーン市街の遠景 左に国際機関本部の集積地(ウィーン国際センター)があり、ドナウ川をはさんで旧市街が広がる ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数か国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。

 

 マリア・テレジア女帝時代に栄えた市街は、フランツ・ヨーゼフ1世の治下で整備された。

 

 リングと呼ばれる環状道路とその周囲の街区は、ウィーンの近代化を実現するために、19世紀の後半にかつて旧市街を囲んでいたグラシと呼ばれる防御用の空地を利用して造られたものである。

 

nシュテファン寺院(シュテファン大聖堂)や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された。

 

 ここには旧王宮であるホーフブルク宮殿(現在は[いつ?]大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・ウィーン国立歌劇場・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、中央駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる。

 

 

 ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。

 ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(琥珀街道)である。

 そこはゲルマン系、スラヴ系、マジャール系、ラテン系のそれぞれの居住域の接点にあたり、歴史的に見ても上述のように、紀元前5世紀以降ケルト人の居住する小村であったところにローマ帝国の北の拠点が建設されたのが起源であった。

 

 

 オスマン帝国の隆盛時には西ヨーロッパからみてイスラム勢力圏への入り口にもあたっており、伝統的にも多彩な民族性を集約する都市として栄えた。  

 

 

 その地理上の位置は、かつて共産圏に属した東ドイツのベルリンや東欧スラヴ民族の国家チェコのプラハよりも東であり、第二次世界大戦後の冷戦時代にあっても、国際政治上微妙な位置にあった。  

 

 

 また、都心から南南西方面に離れた場所には、かつてウィーン会議の舞台となった世界遺産のシェーンブルン宮殿がある。

 これは、レオポルト1世が狩猟用の別荘として建てたものを、マリア・テレジアが離宮として完成させたものである。  

 

 

 現在のウィーンは、国際機関本部の集積地ともなっており、日本政府も在ウィーン国際機関日本政府代表部を置いている。

 ウィーンに本部を置いている機関は次の通り。  国際連合ウィーン事務局 (UNOV) 国際原子力機関 (IAEA) 国際連合工業開発機関 (UNIDO) 包括的核実験禁止条約機構準備委員会 (CTBTO) 国連薬物犯罪事務所 (UNODC) 石油輸出国機構 (OPEC) 欧州安全保障協力機構 (OSCE) 国際新聞編集者協会 (IPI) 国際ドナウ河保護委員会 (ICPDR) 2017年に発表された「世界の都市総合力ランキング」では、世界14位と評価された[5]。ヨーロッパの都市ではロンドン、パリ、アムステルダム、ベルリン、フランクフルトに次ぐ6位。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウィーン / ウィーン6選 おすすめの場所

2024-10-27 | 資料での旅

 ウィーン / ウィーン6選 おすすめの場所

 

ウィーン6選(NEWT)

 

ウィーン(Wikipedia)

 ウィーンはオーストリアの首都。

 9つの連邦州のひとつの都市州である。

 

 2017年1月1日時点での人口は186万7582人。

 

 ヨーロッパ有数の世界都市である。  

 

 第一次世界大戦までは、オーストリア=ハンガリー帝国の首都として、ドイツ帝国を除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半までは神聖ローマ帝国やドイツ連邦を通じて、形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。

 

 クラシック音楽が盛んで、過去にモーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなど、多くの作曲家が活躍したことから「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『熊野権現縁起絵巻』 4 観音菩薩に祈願する。  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

2024-10-27 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

『熊野権現縁起絵巻』 4 観音菩薩に祈願する。  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 

 

観音菩薩に祈願する。

5頁、6頁、7頁

 

 

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

 川崎剛志:解題・翻刻

 高橋修 :附説

 1999年

 96頁

 

 

『熊野権現縁起絵巻』 1  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年  川崎剛志:解題・翻刻  高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 2  十一面観世音菩薩  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 3  観世音のお計らいとおぼし召し、御喜びはきりなし  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年 川崎剛志:解題・翻刻 高橋修:附説

『熊野権現縁起絵巻』 4 観音菩薩に祈願する。  和歌山県立博物館蔵 勉誠出版 1999年

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大千穐楽と市川團十郎の楽屋入り

2024-10-27 | 舞台・音楽 雑感メモ

 

大千穐楽と市川團十郎の楽屋入り

 

 

 大千穐楽に芝居に行ったら、案の定、大賑わいで熱気むんむんであった。

 人々の拍手の爆発、大向こう。

 成田屋さんのはっぴをお召しになられた方々。

 

 私は松竹座の行帰りは楽屋入り口を歩くが、千穐楽は3、40人の方々が團十郎さんの入待ちをされていた。

 もうすぐだということだったので私も待つこと2分。

 大きな黒ワゴンの車から團十郎さんとご子息が下りてこられた。

 楽屋の入り口まで車が付いた楽屋入りを始めて見た。

 

 人々は

「團十郎さん、おめでとう」

「千穐楽、おめでとう」

と、黄色い声を放たれていた。

 

 大千穐楽

 そう

 この日で市川團十郎の襲名披露は、二年をかけて、すべて終える。

 

 いやーーー

 大千穐楽も良いものだ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする