(『北野天神縁起絵巻〈承久本〉』より、道眞の死の場面)
菅原道真(菅原 道眞)
承和12年6月25日(845年8月1日)~延喜3年2月25日(903年3月26日))
菅公、菅丞相、天神、天神様
北野天満宮天神
墓所 太宰府天満宮
官位 従二位右大臣
平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。
しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。
死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。
現在は学問の神として親しまれる。
“平安朝きっての秀才”ということで今日では学問の神様だが、当時は普通の貴族であり、妾もいれば、遊女遊びもしているという伝承もあるが、定かでない。
とりわけ、在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れているとあるが、確信はつかめない。『大鏡』(岩波古典文学体系21)によれば、業平や道真が大山崎にそのような歓楽街があったかどうかは記されてない。業平は道真より二十歳ほど年上だと思うのでm、接触があったのかもしれないが、これも知らない。日本古典大辞典全集巻3では道真がについて書かれているが、伝承ではなく、史実が淡々と記されている。よって上のことには、全くっ触れられてない。
学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという伝承もある。
(矢を射れば百発百中は、縁起絵巻の中にも出てくる^^よ)
北野天満宮所蔵『北野天神縁起絵巻〈承久本〉』「平成記録本」全9巻 京都文化博物館 京の至宝と文化
乱読記録2012年97:『日本絵巻大成21 北野天神縁起「承久本」』解説/ 岩波古典『菅原文草 菅家後集』
『天神縁起の系譜』「北野天神絵巻」(承久本)から巻一、巻二 須賀みほ編
梅鉢紋
生誕地は定かではない
1;喜光寺(奈良市)の寺伝(道真は現在の奈良市菅原町周辺)
2;菅大臣神社(京都市下京区)説
3;菅原院天満宮(京都市上京区)説
4;吉祥院天満宮(京都市南区)説
5;菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)
6;菅原天満宮(島根県松江市)説
7;余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。
道真は幼少より詩歌に才を見せる。
貞観4年(862年)、18歳で文章生(もんじょうせい)
【文章生】とは
もんじょう‐しょう 〔モンジヤウシヤウ〕
大学寮で文章道を専攻した学生。
もんぞうしょう。もんじょうのしょう。(デジタル大辞泉の解説)
貞観9年(867年)には文章生のうち二名が選ばれる文章得業生となり、正六位下に叙せられ、下野権少掾となる。貞観12年(870年)、方略試に中の上で合格し、規定によれば3階位を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうというので1階のみ増して正六位上に叙せられた。翌年には玄蕃助、さらに少内記に遷任。貞観16年(874年)には従五位下となり兵部少輔、ついで民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877年)、式部少輔に任ぜられた。同年に家の職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)、従五位上に叙せられる。仁和2年(886年)、讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。仁和4年(888年)、阿衡事件に際して、藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。寛平2年(890年)、任地讃岐国より帰京した。
これまでは家格に応じた職についていた道真は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏に当時有力者がいないこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。
寛平3年(891年)、蔵人頭に補任。ついで式部少輔と左中弁を兼務。翌年、従四位下に叙せられ、左京大夫を兼任。さらに翌年には参議式部大輔に補任。左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任。寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止された(延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった)。寛平7年(895年)には近江守を兼任し、従三位権中納言に叙任。春宮権大夫を兼任。長女衍子を宇多天皇の女御とした。伊香具神社の社伝によれば、法華経や金光明経を手写して納経したという。翌年、民部卿を兼任。寛平9年(897年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とした。同年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。正三位権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。またこの年には宇多天皇の元で太政官を統率し、道真とも親交があった右大臣源能有(文徳天皇の皇子・宇多天皇の従兄弟)が薨去している。
醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反撥が表面化するようになった。
また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。
昌泰2年(899年)、右大臣に昇進し右大将を兼任。翌年、三善清行は道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。昌泰4年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥に左遷される。
宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。
長男高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。
この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて道真がそれに巻き込まれたとする説まで諸説ある。
道真は延喜3年(903年)、大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。
『北野天神縁起絵巻』に描かれた、清涼殿落雷事件
<菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。>
1;道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)
2:その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。
3:延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)。
4:それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。
これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。
清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)とは
清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)は、平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件。
平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。
こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。
やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。
芝居;『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等
『大鏡』(岩波古典文学体系21)、日本古典大辞典全集巻3ウィキペディア、絵巻物解説、デジタル大辞泉の解説など参考
菅原道真(菅原 道眞)
承和12年6月25日(845年8月1日)~延喜3年2月25日(903年3月26日))
菅公、菅丞相、天神、天神様
北野天満宮天神
墓所 太宰府天満宮
官位 従二位右大臣
平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。
しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。
死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。
現在は学問の神として親しまれる。
“平安朝きっての秀才”ということで今日では学問の神様だが、当時は普通の貴族であり、妾もいれば、遊女遊びもしているという伝承もあるが、定かでない。
とりわけ、在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れているとあるが、確信はつかめない。『大鏡』(岩波古典文学体系21)によれば、業平や道真が大山崎にそのような歓楽街があったかどうかは記されてない。業平は道真より二十歳ほど年上だと思うのでm、接触があったのかもしれないが、これも知らない。日本古典大辞典全集巻3では道真がについて書かれているが、伝承ではなく、史実が淡々と記されている。よって上のことには、全くっ触れられてない。
学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという伝承もある。
(矢を射れば百発百中は、縁起絵巻の中にも出てくる^^よ)
北野天満宮所蔵『北野天神縁起絵巻〈承久本〉』「平成記録本」全9巻 京都文化博物館 京の至宝と文化
乱読記録2012年97:『日本絵巻大成21 北野天神縁起「承久本」』解説/ 岩波古典『菅原文草 菅家後集』
『天神縁起の系譜』「北野天神絵巻」(承久本)から巻一、巻二 須賀みほ編
梅鉢紋
生誕地は定かではない
1;喜光寺(奈良市)の寺伝(道真は現在の奈良市菅原町周辺)
2;菅大臣神社(京都市下京区)説
3;菅原院天満宮(京都市上京区)説
4;吉祥院天満宮(京都市南区)説
5;菅生寺(奈良県吉野郡吉野町)
6;菅原天満宮(島根県松江市)説
7;余呉湖(滋賀県長浜市)の羽衣伝説では「天女と地元の桐畑太夫の間に生まれた子が菅原道真であり、近くの菅山寺で勉学に励んだ」と伝わる。
道真は幼少より詩歌に才を見せる。
貞観4年(862年)、18歳で文章生(もんじょうせい)
【文章生】とは
もんじょう‐しょう 〔モンジヤウシヤウ〕
大学寮で文章道を専攻した学生。
もんぞうしょう。もんじょうのしょう。(デジタル大辞泉の解説)
貞観9年(867年)には文章生のうち二名が選ばれる文章得業生となり、正六位下に叙せられ、下野権少掾となる。貞観12年(870年)、方略試に中の上で合格し、規定によれば3階位を進めるべきところ、それでは五位に達してしまうというので1階のみ増して正六位上に叙せられた。翌年には玄蕃助、さらに少内記に遷任。貞観16年(874年)には従五位下となり兵部少輔、ついで民部少輔に任ぜられた。元慶元年(877年)、式部少輔に任ぜられた。同年に家の職である文章博士を兼任する。元慶3年(879年)、従五位上に叙せられる。仁和2年(886年)、讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。仁和4年(888年)、阿衡事件に際して、藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。寛平2年(890年)、任地讃岐国より帰京した。
これまでは家格に応じた職についていた道真は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任することとなる。皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏に当時有力者がいないこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。
寛平3年(891年)、蔵人頭に補任。ついで式部少輔と左中弁を兼務。翌年、従四位下に叙せられ、左京大夫を兼任。さらに翌年には参議式部大輔に補任。左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任。寛平6年(894年)、遣唐大使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止された(延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった)。寛平7年(895年)には近江守を兼任し、従三位権中納言に叙任。春宮権大夫を兼任。長女衍子を宇多天皇の女御とした。伊香具神社の社伝によれば、法華経や金光明経を手写して納経したという。翌年、民部卿を兼任。寛平9年(897年)には三女寧子を宇多天皇の皇子・斉世親王の妃とした。同年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した。正三位権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。またこの年には宇多天皇の元で太政官を統率し、道真とも親交があった右大臣源能有(文徳天皇の皇子・宇多天皇の従兄弟)が薨去している。
醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反撥が表面化するようになった。
また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。
昌泰2年(899年)、右大臣に昇進し右大将を兼任。翌年、三善清行は道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。昌泰4年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥に左遷される。
宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。
長男高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。
この事件の背景については、時平による全くの讒言とする説から宇多上皇と醍醐天皇の対立が実際に存在していて道真がそれに巻き込まれたとする説まで諸説ある。
道真は延喜3年(903年)、大宰府で薨去し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名である。
『北野天神縁起絵巻』に描かれた、清涼殿落雷事件
<菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。>
1;道真の政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死すると、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)薨去)
2:その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)卒去)が次々に病死。
3:延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)。
4:それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御した。
これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。
清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)とは
清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)は、平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件。
平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。
こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。
やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。
芝居;『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等
『大鏡』(岩波古典文学体系21)、日本古典大辞典全集巻3ウィキペディア、絵巻物解説、デジタル大辞泉の解説など参考
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