20世紀の終わりごろから21世紀にかけて日本国内に現れた「自己責任論」。
これまでの人間社会を全否定するこの考え方がなぜ日本でもてはやされるのか?
このことについて、つらつらと考えてみた。
* * *
人々がまだ狩猟生活で暮らしていた時代、
比較的小規模な集団で、貧富の差などはなく、
お互いに助け合って生活していた。
その当時は、獲物を追い求め移動生活をしていたので病気やけがで動けなくなった人は置き去りにならざるを得ない時代でもあった。
しかし、
そういう時代ですら人々の中で「自分のことは自分で何とかしろ」という自己責任の概念は無かった。
そもそも、自然界の中では弱者であった人間が「できる限りお互い助け合っていこう」という考えのもとに社会を発展させてきたのだから、
自己責任と言って切り捨てることは「人間社会を否定すること」になってしまうのである。
農耕の時代が訪れ、大きな集団になり格差社会が生まれても、
根本的な考え方は同じ。
自然災害は「神の怒り」と信じられていたこの時代では、
権力層(支配者層)は神の怒りを鎮める『祭りごと(政治)』が主な役割で
自然災害や疫病が起きると「権力者がきちんと仕事をしていない」と見なされ、大きな政変のきっかけにもなったりした。
だから、
この時代の権力層も「自己責任」と言って民衆を突き放すどころか、
逆に動機はどうであれ「人々が安心できる国」を目指していたのである。
中世や近世の武家社会でもこれは同じ。
社会がだんだん細分化され複雑化しても権力層は「人々が安心して暮らしていける社会」を目指し、
それができなくなったときその支配体系が崩壊していった。
ところが、
明治時代から始まる近代から日本の様相が変わった。
「国」が民衆よりも優先され始めたのである。
そう考えるように教育が施され、
そのためには死をも厭わないようにさせていった。
* * *
この「国」とは詰まるところ「権力層(支配層)」のこと。
国そのものは単なる概念であり、そこに実態などないし、
敢えて定義しようとすれば「国=国民」のはずなのだが、
現代まで続く日本の権力層は「国」といい続け「国民」とは決して言わない。
まさに、ここに「自己責任論」の土壌が育っていったのだ。
つまり、「自己責任論」とは「国民切り捨て」であり、
「安心できる社会の構築を放棄した考え方」と断言できる。
つまり、「人間社会」そのものを否定している考え方なのだ。
こんな考え方が蔓延する国が栄えるはずがない。
自己責任論に黙って従っていたら、
近い将来国は必ず崩壊するだろう。