自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

堂々川の歴史

2007-02-15 21:52:57 | Weblog
 歴史を調べると面白い。
最近「御野村郷土史」「潼々谷餘滴」「福山志料」のコピーを入手し,読めない文と文字をもじもじと追っている。
そこには栄枯盛衰も見え隠れしている。

明治20年代村と村が自分の土地だと主張し訴訟合戦になった。
江戸時代東中条村、西中条村、下御領村が示談で「貝谷と堂々谷」を境としたらしい。
谷間だからと言う理由でもなかろうが曖昧な妥協であった。
それが後に峯尾根か谷底か、どこが境かで周辺20数か村を巻き込んだ裁判になった。当時の裁判は廣島裁判所尾道支部で審議された。

風が冷たいのに、思い立ったら吉日とカメラ持参で山登りをした。
このような人を退屈男か馬鹿男と言うらしい。

堂々川六番砂留の横に記録を碑にしてある。
そして広い土地の中でも争点の1つ、鳶が迫砂留及びその砂留が作った広場である。







その砂留は昔は池であった。上記の資料から見ると慶応2年(1866年)にこの池は決壊したとある。
参考までに今でも砂が流れ出すので平成になっても砂留は作られている。
次の写真は鳶が迫砂留の上流に作られた砂留。



裁判の結果は中条村が勝訴したが中条村は金尾村長が原告であった。
当時の金尾邸跡、



金尾銀行とも言われたお金持ちで福塩線の湯田村駅まで他人の土地を踏まないで通れたといわれている。
この訴訟事件を今研究されている人によればやはり地獄の沙汰も「金」次第の気がすると話された。
つまり今?も昔も代わらず、お金が勝利したと言う。
豪邸の50メートル上流は深水川源流の看板があり、その上流らしきところにも古い砂留がある。





少し余談の話を付け加えるとこの豪邸には男の子がいた。
その男子は音楽が好きで太平洋戦争の前、東京へ出て音楽家になったそうだ。
音楽は当時の大金持ちの風潮からすれば家風に合わないそうで勘当された。
その人の娘さんが今はどうされているか分からないが、私の時代1世を風靡した踊りと歌で超有名な人である。
名前は教えてもらえなかったが水戸黄門にでている女性と同期とか。

もう1つ追加で
皆さん自分が住んでいる所は安全と思いますか。
実は私は自分の住んでいる現住所は安全と思い込んでいたのですが

1673年5月 大原池が決壊 
1863年5月 三反田池決壊
1866年5月 鳶が迫池決壊
1942年9月 長老塚池決壊

歴史を紐解くと大雨被害がでていました。