わたしのPTAに対する今の思いを、綴ってみました。
注:以下、“PTA”は、「単位PTA」、の意味で使います。
わたし自身、本部役員を経験しています。その忙しさや取られるエネルギーたるや、時給をいただきたいほど。通信費だって、自腹のケースは多いです。まぁでも、ボランティアだっていいんです。無償で働くたのしみもあります。でもそこに生きがいを見出すと、やたらタイムコストをかけたがる人がでるのも事実。「いっぱい残業する人がえらい」の延長線のよう。あるいは、自分が満足するまで頑張ってしまう。
任意団体の癖に、PTAってなんだかエラそう。PTAに関しては5年間勉強してきましたが、いまだに不思議団体です。理念と目的は美しいですよ?でも、実 態はどうなんでしょう。最近ようやく、PTAを「利用している側」の意図が透けて見えてました。その説明責任のなさ、法的位置づけやPTA運用/会計をグ レーにしておいて、無知な保護者をいいように使っている側面だって、あるのです。せめて説明責任を、行政や各段階のPTA協議会側に求めたいです。
ただし、PTAには、「ご縁をつなぐ」、つまり 「関係的貧困を解消するひとつの手段である」、という、現代社会のおおきな問題点を解決するひとつのソリューションである、という今日的意義を見出すことができます。(もっとも、ご縁つなぎの場は、今の世の中、山ほどあります)
また、「学校を閉じた場にせず、開かれた場にする」という意義も見出せます。
ですから、わたしは、PTAの存在と活動意義は否定しません。理念通りならば。
問題は、PTAに関わる個人個人には、いろんな方がいらっしゃるということ。あたりまえのことですが、これが、苦労の種でもあります。ある程度までなら 許容できます。そして、その葛藤が、人として成長する原点でもあると思います。その結果として、会員個人個人が、家庭のあり方をいい方へと変え、社会へ関 心が向いていけば、PTAを仕掛けたGHQとしては万々歳でしょう。
論外なのですが、PTAを、私利私欲を満たすことに使う輩も存在するようです。この“輩”とは、個人のみならず、教育行政、議員を含みます。PTAが苦しくなる原因はここにあると思っています。
わたし個人は、「本音と建て前」「言外の意」「嫉妬」というものがどうしても苦手です。かったるい。どうして世間やPTAでは日本人特有のこういうものがまかり通るのでしょうか?
言葉にできない思い、フィーリング、勘、こういうものもとても大切だと思います。
けれど、共同作業では全部本音で、ドライにクールに、疑問や意志や思いを言語化し、伝え合って協力していければいいのに、と思います。
変な風に日本的なものには、疑問だらけです。どうして、変化に伴う「予測不可能な事態」や「問題提起をトラブルの元」ととらえるのでしょうか?どうして、「トラブル」を避けたがり、表面的な「平等」を重んずるのでしょうか?
本当に不思議でなりません。