私の家の前に、白い花の雪柳が咲いている。写真などで見るイメージ通りの綺麗なものだ。
調べてみると、花壇や公園そして庭木としても使われる。生育も非常に旺盛で耐寒性も耐暑性も持っている。三~四月に花が咲く。花言葉は「愛嬌」「気まま」「自由」「殊勝」と。
バラ科シモツケ属。シモツケとは下野国(栃木県)と関係があるのか。コチョウランのように連続して花をつけてみごとだ。
私の家の前に、白い花の雪柳が咲いている。写真などで見るイメージ通りの綺麗なものだ。
調べてみると、花壇や公園そして庭木としても使われる。生育も非常に旺盛で耐寒性も耐暑性も持っている。三~四月に花が咲く。花言葉は「愛嬌」「気まま」「自由」「殊勝」と。
バラ科シモツケ属。シモツケとは下野国(栃木県)と関係があるのか。コチョウランのように連続して花をつけてみごとだ。
木材を使って目的物を作ろうとする。その際には材料を必要な大きさに切断などの加工をすることが必要になる。電動鋸は材料部品を速く作り出す必需品の工具だ。
百九十ミリ直径の鋸刃を手動にて材料切断に使用。材料に先ず切断マーク線を付け、材料を固定して線に沿って鋸刃を手動する。
鋸作業台は台に鋸刃を取付けて置き、マーク線に沿って材料を動かして切断する。材料の固定作業が省略できる。時間短縮となる。
台の高さ、広さ、鋸刃の取付け要領などを考え、また市販の材料を調査して図面を描く。その後材料を購入してそれにマーク線を付ける。線に沿って電動鋸で切断し部品を作る。各部品を組合せてネジで止めてゆく。
この台製作は電動鋸を手動したが、これからは作業台が使える。物作りがさらに楽しくなる。「お父さん○○を作ってよ」「あらよ」。材料費はどっち持ち---。
新聞 憲法
違いについて知ることができた。朝日新聞の「声」欄(三月十五日?)に八十九歳の日野資純さんが投稿されたエッセイによってだ。
憲法第十三条「すべて国民は、個人として尊重される」が改正草案(自民党)は「すべて国民は、人として尊重される」と。「個人」は「国家」などの組織に対抗する概念で、「一人の人格」。「人」は生物学的な概念。従って人間性が軽視されている。このことの危険性を自覚すべきではと。
「個」の文字の有無が表記上の違いだが、個人を大切にする程度に内容上の違いがある。戦時を経験された方の「個人の生命を最優先する内容でなくなった」との指摘は気懸りだ。
私も、共感された方々と一緒に注視したい。
ヤカンで番茶をつくる。茶葉の入ったパックを準備した水に入れ、沸騰直前まで温度を上げてお湯をつくる。そして火を止める。私はこのようにして番茶を作ろうとした。
ところが時間を見過ごし沸騰させた。そのまま使わざるを得なかったため、添えられた食事はさぞ興ざめなものになったとおもう。反省して美味しい入れ方を調べた。
ヤカンに七十%約二ℓの水を入れ沸騰させ火を止める。約三十g番茶を入れる。十~十五分待ち、他容器に移し替える。又は茶袋を出す。とあった。(京都の一保堂茶舗)
どうも美味しくない番茶を私は長く入れていた。お年寄りが飲まれるため敏感にその味を感知されただろう。しかし黙っておられた。
人生経験豊かな人は大きいと頭が下がる。
イラストは介護無料イラストよりコピー
養護老人施設での快適さはどのように測れるだろう。私は介護者として施設に勤めているが、元気さが少なくなる被介護者(H)が出ているように感じるため考えてみる。
介護者の人数が増える、ぬり薬含め薬の使用者が減る、元気さが増す。これらの状態であれば快適な施設だ。この逆又は、身体不自由な人の歯磨きコップが汚れているなどは問題だ。
次にどうすれば快適さが維持できるだろう。介護者(K)は忙しい。規制があり、他施設も同様だ。多くのことを次々に行う。介護者リーダー(L)は、症状や介護内容の変化をメモしまた口頭でも引継ぎ等でK全員に伝わるよう繰り返し伝えることが大切だ。これはHへの心ある介護へと繋がる。ショートステイの現場ではHが短期間で入替るためその分速い伝達徹底が必要となる。一方、Kには多くのメモに目を通す纏まった時間が取り難い。
またKの昼の休憩は一時間だが、Hの食事始めはお口のための体操もあり忙しい。介護が行き届くよう皆で行いたい。分割休憩などの工夫も必要だ。
介護現場の快適さはLのリードによると言えるだろう。心を一つにしたKによりホールにはHの「笑顔の花」が咲くことだろう。L頑張れ。
イラストは「介護の無料イラスト」よりコピー
「ケ」の日の使い方を考える。「ケ」の日とはふだん、「ハレ」とは表だった日のこと。その違いは「ふだんのときも表だったときも」とのことばで理解できようか。
退職後の老夫婦が仲良く過ごす暮らし方は多くの「ケ」の日の過ごし方次第だろう。その考え方により、昼は手弁当一人食事生活としよう。これはサラリーマンのウイークデイ生活と同じだ。想像を進めよう。
手弁当は自分で作る。料理経験がないため、家内が料理教室の先生だ。料理ができるように私がなることは家内も歓迎すること。今も将来にも役立つ場面が多くなるからだ。これは一石二鳥の名案だ。
このことはウイークエンドが「ハレ」の日となることを示しており、二人で過ごす日。やはりサラリーマン生活の延長だ。
この想像は実行できる可能性が高い。どこで手弁当を食べるかが次のテーマとなる。有益なことにつながる場所が見つかればこれは一石三鳥だ。
写真はスイセン
母は十歳で養女となった。昭和十年のことだ。この年ころから昭和二十年終戦までそして戦後に日本社会は大きく変化する。
私が母から聞いたことまた一緒に生活したことで見たことは印象深く、家にとっても大切だと感じさせるものだった。
「お前はもう学校に行けなくなったので養女になるしかない」と養女先から戻れないように親から説明を受けている。養女先では六十五歳の養母と六十二歳の養父がいた。うまく居つかず三人目だ。九年後終戦の前年に養母が他界。十歳の転校生活も簡単ではなかったろう。終戦の一年後に父と結婚。その一年後より三人の子供ができる。私は戦後五年目の子供だ。同年養父も他界。戦前のお金の価値が無くなり、生活は父がサラリーマンとなった戦後八年目頃に安定する。
養母養父との生活の中母は悟った。養母は結婚の際田と共に入籍、養父のハワイに出稼ぎ中の姉から送られたお金で最大の田を購入、弟はハワイ帰り直後に家の瓦を購入したが結核にかかり他界。養父は大正二年その瓦を使って新築した。養女は家の存続を願ってのことだったと。
父母と一緒に生活した二十年間に、父は「私はここから離れられなかったが、お前の代にはこれだと考えることがあれば決心はして良い」。また母と三人の兄弟を集めて退職の時「退職金を四等分して、その金額を遺産とし分配する。了承して欲しい。金利はその時まで自分が使う」と。また母は先祖の思いを伝えてくれた。
母が四十四歳に私は大学に入り、五十歳に結婚をした。結婚前のことだが、遠くから夜中友人と三人で帰った際、時間にも関わらず世話しまた朝早くにも小言も言わず世話してくれた。そんな人だった。私の子は二人、母の孫は六人だ。母が五十九歳に父は肺癌で他界。私の妻と子はその後母が六十歳で他界するまで同居する。母はさみしさが紛れたろう。脳溢血だった。
母のやさしさや子供への思いは広い。そして言い残したいことは、発症の日に意識不明になったため推し量るのみだが、家のこと祖先のことは伝えてくれた。養父養母は母のその後の人生を「よくやった」と褒めている。と、私は独り善がりに思っている。
写真は河津桜
父は自分の人生をどのように感じていたのだろう。その後三十年の時が流れて、私もまもなく父の他界年齢を超え六十五歳となる。
二十歳前に志願して兵隊になり二十六歳に終戦を迎え海外から故郷に帰る。蓄えていたお金は価値のないものとなった。農業を手伝っていて、二十七歳に母と結婚。姓が変わる。二十八歳より三人の子ができる。三十歳の時私が生まれる。この時代は昭和二十五年に朝鮮戦争が始まり日本の景気は良くなってゆく。三十数歳にサラリーマンとなり家は兼業農家となった。これにより生活が安定してくる。私と一緒に暮らした二十年、小学校時代は飼い牛の餌用の草刈、米収穫時の稲刈りや脱穀などの手伝いをした。父が五十歳の時、私の大学合格に職場の人が家に集まり祝いの品を頂いた。父も嬉しかったのだろう。私は四年後に就職し、その二年後に結婚した。私の二人の子の下は、父には六十二歳時の孫だ。
肺がんで入院中に、見舞いの義姉たちがいる時、「まだ死なんよ」と冗談交じりに言って、間無しに他界した。
父は戦後の大きく変化した時代に生きて、生き甲斐は見つけたのだろうか。言い残したいことはあったのだろうか。同じ年数を生きて、ふと父と比べている自分がいる。
写真は道端のスイセン