お互いの顔には年輪が表れていた
10月の火曜日だったか、「今度の日曜日、遊びに行って良いだろうか」と突然に電話がかかってきた。25歳頃に同期入社で知り合い35歳頃に私の転勤により離れた、昼休み卓球で仲良しになった彼だった。
お互いの顔には年輪が表れていた
10月の火曜日だったか、「今度の日曜日、遊びに行って良いだろうか」と突然に電話がかかってきた。25歳頃に同期入社で知り合い35歳頃に私の転勤により離れた、昼休み卓球で仲良しになった彼だった。
猫の社会も、人の社会も厳しさに違いはなさそうだ
2月6日中国新聞のこだま欄に97才の松井千鶴子さんの文章が掲載されていた。ほのぼのとした、印象に強く残るものだったので、左記にメモして残すことにした。
ある日、裏戸を開けたら白と黒の毛糸を丸めたような子猫がいた。生まれて間もないので、つい牛乳を与えた。
何カ月か過ぎた。次にその猫が来た時、驚くほどスリムな美青年に成長していた。長い尾の先がL字形に曲がっていたので「エルジ」と名付けた。以来、再々訪ねてきた。
私が歩くと、じゃれついてきた。だが体には触れさせない。手を出すと、身をかわした。餌もねだらない。私にはそんな野生も好ましかった。
いつだったか、裏戸のところでエルジが前足を立てて座り、神妙な顔で私を見上げてきた。薄茶色のふっくらした雌猫が隣にいた。彼女が出来て幸せだったのだろう。
しかし日を置かずエルジは去った。体が倍近い灰色の雄猫と闘って敗れた。私は彼を「悪役」と呼んだ。悪役は、声を掛けると「げおっ」とどすの効いた低音で答えた。ただ、決して私の顔を見ようとはしなかった。
バス停へ行く途中、左手に草むらがある。ある昼、その奥で「げおっ」と声がした。悪役がゆっくり現れた。体中から流血していた。ハンカチを出すと、後ずさりして初めて私の顔をまともに見て、奥へ引き返した。そして二度と姿を見せなかった。
呉の里山の一軒家に暮らした何十年も昔の記憶である。野生の誇りと厳しさ、強く生きることを教えられた。
強く生きることを教えられたと結ばれている。97才とは私と30年弱の年齢差がある。大正生まれの方だ。さぞ、強く生きることを意識して過ごしてこられたろう、と目をつむり天井を見上げた。
転記文書 朝日新聞
自分はいったい、どんな老人になっていくのだろう。
初老を目前に控え、最近、とみにそんなことを考えるようになった。「面倒な」ジジイになるのは、なんとなく想像がつく。
自分が理屈っぽい性格であることは重々承知している。---。---。タクシーに乗って、行き場所を運転手さんに伝えた時、「お急ぎですか」と聞かれることがある。そんな時も僕の中の「面倒な」部分が首をもたげる。
「急いでないと言えば、どうするつもりなんですか。遠回りでもするおつもりですか。乗客が急ぎであろうがそうでなかろうが、最短最速のコースを探すべきではないのでしょうか」などとは決して聞かない。これも考えるだけである。
「いつもは、どの道を通って行かれますか」と尋ねられることもある。馴染みのコースをたどってあげますよ。というサービス精神だと思うが、そんな時も僕は「いつもって、どうしていつも僕がそこへ通っていると思ったんですか。いつもは電車で行っているけど、今日だけタクシーを使ったのかもしれないじゃないですか。それ以前に、初めて行く場所の可能性をなにゆえ否定しているのですか」などとは口には出さない。考えるだけである。
つまるところ、僕は脳内レベルでは限りなく「面倒な」おっさんなのである。口に出すかどうかは紙一重。そしていつの日か、自制が利かずに、つい言ってしまう時が来そうで怖い。
どこに出しても恥ずかしくない真性「面倒な」ジジイになるのは、時間の問題のようだ。
(三谷幸喜のありふれた生活800のひとつ。 朝日新聞)文のまとめ方などが参考になったので一部分だが、転記した。
堺市 阿蘇 由美子 (主婦 58歳) 朝日新聞2011年11月26日 ひととき
90歳の父は将棋暦80年。私たち3人姉妹は駒に触れることすらなく大きくなったが、孫は皆4、5歳になると手ほどきを受けた。
彼らが成長するにつれ、父が負かされる時もあり、そのたび「強なったなあ」とうれしそうに笑っていた。心中には一抹の寂しさもあったに違いない。
朝の散歩と夕方の青竹踏みを欠かさず、体力に自身のある父は自転車に乗り、どこへでも出かけた。元気で若い父が自慢だった。そんな父が春先から外に出ず、居間に座って居眠りすることが多くなった。
6月、父の体調とその表情から、父に将棋を習う最後のチャンスだと感じた。さっそく父の将棋教室を開講。生徒は私一人だ。
まずは駒の並べ方、動かし方から実戦へ。ハンディをつけた駒落ち戦でもまったく歯がたたず、父は「あかんな」を連発。しかし、「今のはええ手や」とほめられる日も出てきた9月、父が誤燕性性肺炎で入院した。そして11月5日。父は退院することなく亡くなり、将棋教室再開は永遠に不可能になった。
あちらで父と会った時、ハンディなしで対戦できるよう、でも、父より強くならない程度に精進したい。
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締めくくり部がおもしろい。
写真は自作の初キャベツ
そのなかの一つのブログを転載した。文字数が多過ぎるため掲載困難とのこと、少し字数を削っています。
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読書感想 | |
「司馬遼太郎が考えたこと」というシリーズの第11巻に「日本仏教と迷信産業」という文章が載っていて、おもしろいと思ったので紹介します。
ソースはかつて文藝春秋で連載されていた「雑談・隣りの土々(くにぐに)」というシリーズの第3回目だそうで、1982年に発表となっています。仏教におけるそもそもの教義や、どのように日本に入ってきたのか、またインドから中国、日本へ伝来する過程でどのように変質し、日本国内でも時代によってどう変わっていったのかということが書かれています。そして現代のいわゆる葬式仏教は本来の仏教とはほとんど無関係であるとし、一部の産業化した日本仏教をやや批判する内容になっています。以下、本文も引用しつつ紹介していきたいと思います。
インドを発祥とし、中国を経て6世紀中ごろに日本に公式輸入された仏教は「効きめ」主義の国家仏教だったといいます。「効きめ」主義というのは、つまり信仰の対価として個人の健康や一族の繁栄、国家鎮護を願うという発想で、もともと釈迦が始めた仏教にはそのような面はありません。原始仏教の目的はあくまでも自己の「解脱」で、前述のような現世利益を求める心とはいわば反対のスタンスであったと言えそうです。また、意外にも霊魂という考え方も本来の仏教にはないんだそうです。
ではなぜ、「効きめ」主義の国家仏教が入ってきたかというと、隋・唐時代の中国を経由したからです。隋・唐の仏教は国家仏教でした。また、隋・唐時代の仏教は、密教の影響が強く、中国にもともと存在した道教とも結びつき、しぜん呪術的な要素が濃くなったといいます。
つまり王や貴族が自分たちの死後の安らぎのためにお祈りする、またはさせるということで、解脱などということはあまり考えていません。この時点で原始仏教から大きく変質していると思いますが、ともかく日本に入ってきたのは最初からこのように変質した仏教だったわけです。
ちなみに王や貴族、つまり富裕層がなぜ密教に惹かれたかというのは、密教には即身成仏という考え方があるからです。本来の仏教はすべて捨てよ、人間の持つあらゆる煩悩を捨てよということですが、密教はそれらを全て所有したまま仏になる、つまり即身成仏するという体系ですから富裕層の願望に合致していました。何だか同じ仏教とは思えないほどの発想の転換ですね。
この「効きめ」主義の国家仏教はもともと天皇や公家のものとして受容されたわけですが、鎌倉期に入って庶民にも浸透していきます。その中で大きな役割を果たしたのが浄土系仏教です。法然が浄土宗を開き、法然の弟子である親鸞はさらにそれを純粋結晶化したような浄土真宗の開祖となります(これは後の時代に教団が形成されるようになってからそのように解釈されるようになったものです。親鸞自身は最後まで法然の弟子としてふるまい、新しい宗派を開いたとは思っていませんでした)。
親鸞の唱えた仏教は、もはや釈迦の仏教とは決定的に違うものになっていました。つまり阿弥陀仏という絶対者を設け、自力での解脱を諦め、より救済教的になったのが浄土真宗でした(自力での解脱を諦めたというと何だか自堕落に聞こえますが、これは親鸞が極限まで自己対峙して辿り着いた結論であり、ひとつの完成された思想です)。
自らが自らの力で成仏するという、つらい、たいへんな力が必要になるのですけれども、日本人はこういう厳しさをあまり好まないんですね。天然自然がいい、母性的なほうがいい、赤ん坊はいくら泣いてもお母さんがあやしてくれる、そういう雰囲気がいいというのが、日本における阿弥陀信仰の大きな成立要因になっていきます。
このように釈迦の仏教とは大きく異なる発展を遂げた日本仏教ですが、現在当然のように仏教の習慣と思われているもので、そもそも仏教とは関係がないことがいくつかあります。
そのひとつが戒名というものです。日本仏教は中国を経由したので漢字表現で、お坊さんは中国人でした。日本でも僧になると中国の名前をつけました。最澄とか空海とか法然とかですね。そのお坊さんが葬式を主導し始めたのが室町時代からといいます(正確には正規の僧ではなく、聖(ひじり)と呼ばれるちょっと胡散臭い人たち)。俗人が死ぬと僧になったということにして名前を付けたのが戒名の始まりだそうです。この戒名というものは仏典には存在しない日本だけの俗風です。中国風の名前をつけてもらって喜ぶのは釈迦の仏教とはまったく関係がない、とこの文章では指摘しています。
また、お骨に呪術性や聖性を感じるのも日本の特徴だそうです。先ほども出た聖(ひじり)というのは、諸国を歩き、弘法大師のご利益を売ってまわった人たちのことですが、この人たちの一番の営業品目が、誰か近しい人が死んだときにお骨を高野山へ持って行ってあげますよ、ということだったといいます。日本に特有のお骨信仰を広めたのは聖たちではなかったか、と司馬遼太郎は言っています。しかしこれも本来の仏教とは何の関係もありません。
さらに、日本では葬式仏教という言葉もあるように、人が死んだら出番みたいな感がありますが、そもそも釈迦は死について語らなかったといいます。
あるとき、ウパーシーヴァという門人が「解脱した人間が死ねば、どうなりますか。かれは存在しなくなるのでしょうか。あるいは常住なのでしょうか」とたずねました。
(中略)
「ウパーシーヴァよ、滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。ああだこうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされるとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまうのである」
死とはそういうものだ、とつき放しています。
司馬遼太郎はキリスト教と比較して、日本仏教に見られる論理的な脈絡のなさを指摘しています。いわく、キリスト教はゴッドというものを先に設定し、それに矛盾がおきないように分厚い論理を構築してきたのに対し、日本の仏教は神学的には矛盾だらけだが日本人はそれには頓着しない、と言っています。これはどちらかが優れているという話ではもちろんありません。単なる事実の比較ですが、いわゆる葬式産業がその上に乗っかって古代がえりしている、ということもこの文章では言われています(しかしこのくだりはやや意味が不分明です。オカルト的だという意味でしょうか)。以下の一文は、この文章における司馬遼太郎の気分をよく表している箇所だと思います。
日本の仏教史というものは、相当われわれ庶民を騙してきた、それもいろんな騙し方をしてきたなと思います。土俗と習合して論理的に変なところがいっぱいあるんですね。もっともそこがいいところだといわれれば、それまでですけれども。
このエントリは、だから日本仏教や日本は駄目だとか、キリスト教や欧米は素晴らしいとか、そういう意図で書いたわけではもちろんありません。また、特定の宗派を貶めたり持ち上げたりする意図もまったくありません。個人的には日本の仏教が庶民を騙そうが、葬式産業がそれに乗っかろうが、別にいいと思っています。もともと宗教を含む思想というものが壮大なフィクションなので、騙す騙されるという関係とは紙一重のものだと思います。
僕がおもしろいと思った点は、何気ない慣習を疑う視点と、「そもそもどうだったのか」という原理原則に戻ってみる姿勢です。こうした姿勢は問題解決に役に立つことが多いと感じていて、司馬遼太郎の切り込み方と語り口もあいまって、共感しながら楽しく読んだのでブログに書いてみました。日本人論の好きな日本人という傾向にもれず僕も日本人論が好きなので、外来の思想と土俗が対立せずに混ざり合っていく日本の面白さと、そういう精神的背景をもった日本人を考えるにあたって、示唆的な内容を含んだ文章だと感じました。
ただこの文章は1982年のものなので、その当時の現代といっても30年近く前の話になってしまっています。2009年現在、日本仏教やお葬式産業を取り巻く状況がいろいろと変わっている可能性はありますが、そのあたりについての知識がないのでよくわかりません。まあそんなに急に状況が変わる性質の話ではないとは思いますが。このエントリではかなり要約してしまっていますが、本文は司馬遼太郎らしく余談の多い(笑)文章になっていますので興味のある人は一度読んでみて下さい。
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仏教についての参考に。
無職 冷牟田 つる子 (福岡県岡垣町 88) 2011年11月12日 朝日新聞 声
去る9月、思いがけなくうれしいことがありました。私の米寿のお祝いを町役場から頂きました。
振り返ると、年を忘れて庭の仕事や着物の入れ替えなどに没頭し独り暮らしも大変でした。子供もなく、夫も天国へ旅立って21年が夢のように去りました。お祝いを仏様にお供えして報告しました。
後でお祝いの封筒をあけて見ると、「あっ!」と驚きました。「88歳を迎えたことをお祝いいたします。お元気で」。町長さんからの心のこもったお手紙が同封してあったのです。涙腺の弱い私は涙が出そうで困りました。加えて故郷の福岡県久留米市内に住む妹2人からもお祝いにと、それは見事な手提げが届きました。
私たちは共稼ぎのために駅が近いところにと、当地に家を新築したものです。住んで40年が過ぎました。高台にあって住みやすい所なのです。皆様から優しいお気持ちをたくさん頂いて、これまで元気で来られました。今さらながらうれしく思っています。感謝感謝の毎日です。
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内容のような老後を、一生懸命に毎日を過ごして、平均寿命の年齢近くを迎えることをつい願っていました。
おめでとうございます。
小倉 知子 (兵庫県伊丹市 家事手伝い 52歳)朝日新聞2011年11月4日 ひととき
認知症の両親をひとりで抱えている。毎日が戦争だ。老兵ながら、敵はなかなか手ごわい。思いもよらないことが次々と起こる。
先日、父が夜中にいなくなった。15時間後、少し離れた運送会社に保護してもらえた。迎えに行くと、どこで調達したのか傘を杖代わりに、破れたスリッパを履き、足を引きずりながら歩いてきた。昔の厳しい、シャキッとした父の面影は全くない。涙が出た。
2日後、何事もなかったかのようにニコニコと手を振り、母とデイサービスに出かけた。やれやれーーー。
このごろ、「まあ、いいか」が私の口癖。こぼしたら拭けばいい、汚したら洗えばいい。なくしたらまた買えばいい。ただそれだけのこと。でもストレスもたまるから、今度ヴィトンのバッグ買ってくれる?とうさん、かあさん。
介護は恩返し。「まあ、いいか」そうつぶやきながら、まだまだ私の恩返しは続く。たくさんの人に支えられながらーーー。
そろそろデイサービスから帰ってくる時間。夕飯は2人の好きなハンバーグ。「まあ、おいしそう。ごちそうやね」とうれしそうに笑う母の顔が浮かぶ。さあ、たくさん召し上がれ。
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暖かい文章。
写真は畑のキャベツ。
弁当業 石本 潤次 (宮崎市日向市 61) 朝日新聞2011年10月21日 声
お昼のバラエティー番組を見ていたら、沖縄出身のタレントが「沖縄では雪が降らないから、東京に出てきて初めて雪を見た。雪にシロップをかけて食べた」と話しているのを聞いて、4年前に亡くなった母を思い出した。
私が小学校2年生の時のことだ。朝、目が覚めると表がやけに明るい。窓を開けると雪が積もっていた。初めて見る美しい光景だった。器に雪を盛り、台所で朝食の準備をしている母に白砂糖をかけてくれるように頼んだら、大根おろしをイメージしたのか、しょうゆをかけてくれた。真っ白い雪に、濃い口しょうゆの真っ黒い筋が三重に輪を描いた。混ぜると泥水のようになった。
雪にしょうゆをかけて食べたのは私ぐらいだろう。間もなく母の命日が来る。墓参りの時に報告しよう。「楽しい思い出をありがとう」と。
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還暦クラス会で「感恩」の復習
鍼灸師 牧 了慈 (鹿児島県日置市 59)
47年前、小学校の卒業を間近に控えた授業中に、今は亡き担任の宮内五子先生がクラス全員に向かって、ある問いかけをされた。それは、校庭に建立されていた学校創立80周年記念碑に刻まれている文字についてだった。
その問いかけに答えられたのは、クラス40人の中で一人の女子だけだった。他の39人は、その場で校庭に確認に走った。そこには「感恩」と記されていた。感じの苦手な私に、読み方や意味など分かるはずもなかった。
母校を卒業し、社会人となり、級友と会うと必ずと言っていいほどあのときの「感恩」の話題がでた。そのうちに不思議なことに自身の中に「感恩」の文字が宿り、心の遺伝子として生き続けるようになった。
その後、学校は改築され、石碑の所在も定かではなくなったが、先日母校を訪れ、当時の話をしていたら、校長先生から校舎の裏にそれらしきものがあると伺い、早速確認に走った。それはまさに47年前の「感恩」そのものだった。その瞬間、全身が硬直するほどの強い感動を覚えた。
11月に行われる還暦クラス会で再開する仲間たちと、当時に帰って恩師の教えを復習できる喜びに、心から感謝したい。
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小野美沙子 主婦 66歳 大分県由布市 朝日新聞 2011年10月1日 ひととき
実家で母の洗濯物を取り込んでいて驚いた。「こんなにヨレヨレになるまで着こんでいたなんて」。フリル付のゆったりした母手作りのネグリジェは、私ももらって愛用している。おしゃれで読書家で手仕事好きの母。私が若い頃からスカートもワンピースもブラウスも手作りしてくれていた。どこかにひと工夫をして。だから自分のものもこまめに作っていると思っていた。
パーキンソン病を患う母の「作るのが生きがい」「着てくれるのがうれしい」という言葉をうのみにして、「ありがとう」と気安く受け取っていた自分のうかつさに気づき、申し訳なさでいっぱいになった。
自宅に帰ってさっそく寝間着作りにかかった。型紙は数年前に作ってもらっている。実物も私のものがある。大丈夫、すぐできる。ところが大間違いだった。見返しや襟付け、フリル付けはさっと見ただけでは理解できない。裏から見て表から確認し、2日がかりで何とか仕上げた。
買えば簡単に手に入る寝間着。でも、手作りには手作りの楽しみがある。そして縫い物には、ひと針をおろそかにしない母の生き方と、家族への思いが詰まっていることを知った。
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母、父の思い。
子供への思い。---。
写真はハクサイ