食べ物日記   元気 一番

健康へ気配りしながら主に食事を!

農業の形

2019-05-23 09:54:41 | 予算の使い方

農業の将来

 ことばが面白い。担い手の高齢化は不安だbs農業は生涯現役だ。日本の女性活躍社会、共稼ぎ社会bs国連は「家族農業の(これからの)10年」に力を入れ、飢えや環境破壊に立ち向かう鍵という。規模の拡大を急ぎ儲けに走る農業bs九州の農家たちの小農学会は消費者とつながる場として旗揚げ。

 小さな農業は楽しい。大きくすると労働になる。農民作家山下惣一さんは、小農にこそ、未来を見て取ると。2019・5・14中国新聞「天風録」。

 将来の社会に、農業をどのように繋ぐのか。繋ぎ方、難しい課題だ。生活することが可能な農業を、目指すことが前提だろう。兼業も一つ。酪農も一つ。果実農家も一つだろう。私は、休祭日は休む条件にして、平均家庭の年間所得金額以上の収入があれば可能と判断して良いと思う。

家族農業は、核家族ではなく親も含めた家族の農業、老親は戦力にもなる。子育ても介護も家族が協力して行う。子供も介護の手伝いができる。

戦後すぐの70年前も、現在も、同じ社会情勢だろう。多くの農家が、専業の農家として暮らすには、収入金額が少ないこと。そのため、農家の子供たちもサラリーマンを目指す。専業農家の収入額を大きくする工夫にこそ、知恵を絞らなければ---。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地域の民主主義の活力を取り戻す

2019-05-17 22:58:41 | 社会・平和

民主主義 主権在民

 「まちづくりを人ごとにしない」これがキーワード。地域の民主主義を活性化する住民集会「自分ごと化会議」が広がっているという。そこは生活上の問題や政策について話し合う場となる。

 また、愛知県の「若者議会」は年間20人ほどの若者(10~20代)がまちの未来を討議する。将来の担い手を育てる取り組み。地域の民主主義の活力を取り戻すため活動する人を増やすという。

 地域の民主主義のために取り組む人口を増やすことは、「臨時の政治家」の確保と質の向上につながる。彼らの中から職業政治家が育っていく。

 こうした活動の結果が投票率の低下やポピュリズムの台頭にブレーキを働かせてくれることに繋がるだろう。今年4月30日の中国新聞オピニオンの記事だが、なるほどと頷ける。必要性に同感している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

CF

2019-05-13 09:35:03 | 予算の使い方

 クラウドファンディング

 クラウドファンディング(CF)を始める。大内氏の氏寺、興隆寺、修復が必要なため目標額500万円を受け付けると中国新聞の記事にあった。

 CFを調べる。ネットでワンコインから参加できる支援の環の事。アイデアを持つ起案者が、専用のサイトを通じて、世の中に呼びかけ共感した人から広く資金を集める方法ですと。朝日新聞A-Portサイトにある。

 私も共用施設建設の際には利用できればと願う。しかし説明を読み進めると、目標金額を達成する場合も未達の場合もある。また達成するも、アイデアが未完成の場合もある。それぞれペナルティーも含めてルールがあるという。確かに、当然のことと理解できる。

 現在、我が地域には、子供がほとんどいない状態になり、地域名が同じ団地も子供は減りしかも、その子はそこに帰ることを期待できない状況ときく。また高齢者は車の運転免許証を安全のために返還する制度に替わり、避難所には歩いて行ける、近くに必要となっている。

 そんな状況の、対応策の一つにこのCFを利用することをさらに調べておきたい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の平成時代

2019-05-01 18:57:52 | 予算の使い方

 平成の30年

 今日「令和」の時代が始まった。この時代も平成と同じく戦争の無い時代であることを願いたい。

 さて、私の平成時代を思い起こしてみると、40歳頃に平成は始まった。仕事に集中できている時期に当たるだろう。平成2年に入社したK君が仕事に慣れた3年後に結納、半年後に結婚した。初めての仲人役、お相手のお家にも訪問することとなる。

 私は製造会社にお世話になっていたが、製造補助の部門から製造部門への移籍は幾年後だったろう。そこでは大きな真空ポンプを小さな物に変更できる。省エネと共に省スペースが可能となる。

 49歳には転勤、そこで2000年問題と出会う。コンピュータがどんな誤動作をするか心配されたのだが、幸いにも工場待機場所で事無くゼロ時を越える。数年後に出向し、石川県七尾市へ。そこでは液化プロパンガス備蓄設備建設に。付近には戦国時代の一向一揆ゆかりのお寺などがあり、休みの日には次々訪ねて歩いた。

 環境の変化で1年足らずで神奈川県と千葉県に工場のある会社へ。数年かけて、セメントの減水剤製造設備建設をする。住まいは船橋市。東京に近い場所であり、都会生活を経験することとなる。この時期に長男は就職し、勤務は東京駅の近くとなった。

 58歳頃に希望の故郷に近い勤務地へ。高圧ガスの資格が生きて、広島勤務となる。検査業務が仕事。瀬戸内海沿いの中国3県を普通以上に知ることができた。65歳を前にして退職。

 退職後には、介護の技術を知るため講習会へ。短期間だがアルバイトで経験もする。また長い転勤生活のため農地は荒れたが、少しでも利用できるようにと「農業入門塾」へ入る。平成30年には経験不足だが知識は豊かになった。

 平成に入る3年前には両親とも他界していた。令和元年の今、私は69歳。こうして振り返ると、ひとくちに言えば、私にとっての平成時代は、子供が10歳から40歳へと大きくなる時期だった。

私は今、人生の定年年齢85歳までの、令和の時代をいつも前向きに過ごしたいと思っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする