食べ物日記   元気 一番

健康へ気配りしながら主に食事を!

言いまわし

2017-02-28 22:01:24 | 今日の出来事

 ことば選び

 先日、孫の卒保育園前の発表会に出かけた。長く通った保育園、ぜひ見ておきたいと思っていた。ところが、前日に「片親が風邪をひいた」との連絡。「でも来て欲しい」と。

 マスクをそして、心の準備をして出かける。会場に着くと、まもなく小さい園児から順に発表が始まった。年長の発表は2種類、劇と歌、合奏。終了時間は12時半頃だった。よくぞここまでできるように成長したものと、孫に出会ったとき「良くできたね」とついギュッと抱っこ。

 さて、風邪ひきさんは、しっかりしたマスクをして周りに気を遣いながら、話も少なめにカメラマンに徹している。発表会後の食事も店では一人離れて。家に帰っても、ことば少なに対応。気遣いのしっかり度合いは、私が気にする程だ。

 帰る時間となり、玄関前に皆で出て見送ってくれた。「今日はありがとう、しっかり見ることができたし、いろいろお世話になりました」。そして最後に、風邪ひきさん方向に「早く治さんといかんね」と。-----。

 「早く治るといいね」となぜ言えなかったのかと反省、あんなにも気を遣い配慮してくれたのに。自分の思いやりの無さを大反省。

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家庭でのエコ

2017-02-23 08:31:36 | 日本・世界・地球

 エコ

 私の家には土間があり、風呂用釜戸があり、煮炊き用の釜戸もあった。食台の半分は座敷からも使え、風呂も座敷から利用した。トイレは座敷用もあった。次に住む家では、冬の夜ふとんから出てトイレへは、寒さをあまり感じないものにすることが夢だった。

 設計へのエコ配慮は大きく、外壁の断熱、太陽熱温水器の利用、室内・床下のエヤコンによる暖房、追加の湯沸かしは灯油、に。そして太陽光発電。これらの設備を使い、夜中のトイレは夢が現実になっている。

 先日の朝刊に「地球教室 未来につながる環境教育を」「熱の性質を知ってエコで快適な暮らしを」との記事があった。「なるほど」と感じる授業の報告が目に留まった。それは第1、同じ温度なのに感じ方が違うワケとして、木の板と金属の板に触れて「どちらがあたたかい」との問いかけ。「木の板」、しかしサーモカメラでみると同じ温度。熱の伝導率の差を感じたのだ。第2、暑さ・寒さを和らげる省エネの工夫とは すだれ、緑のカーテン。これらによって温度上昇が大きく抑制される。また床をスリッパなしに歩くと、サーモカメラに床の足跡が温かく映る。これらの実験で、「体感温度」を変える工夫が大切だとわかる。

 「体感温度」への視点で見ると、エコアイデアの幅が、我が家庭でも広がりそうだ。

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役所の寺請け制度応援?は疑問

2017-02-21 21:43:45 | 社会・平和

 まるで寺請け制度

 世代を重ねてひとつ地区に住んでいると、そこに先祖代々のお墓がある家は多いのではないだろうか。私の家もその例だ。お墓は里山にあり、今では手入れが行き届かず、藪の中となっている。転勤族だった私は定年後に故郷に戻っているが、子供は定年までまだまだ長い。平均寿命時の私と比べても、差は10年を超える。そこで駐車場のある市の墓地へ移すことにした。

 抽選に当たり、区画を得ることができた時には家内とふたり喜んだ。市へ手続きをして、工事を実施。お寺さんの、お墓での遷仏式・入仏式も無事に終わり、お墓のお引越は完了した。「ひと安心だね」とまた喜んだ。

 さて、この過程において気に掛った出来事があった。引越前のお墓は、個人の里山にあり、家の者(今は私)が管理を行っている。お墓に生前の誰が埋葬されているかは管理している家の者しか知らない。ところが、その埋葬されている人名を「檀那寺で確認をもらって下さい」という。「檀家ではあるがお墓の管理は私。檀那寺は知らない」と言っても「確認の印がいるのです」。

 檀那寺では、説明をして印をもらったが、私には引っ掛かった出来事だった。まるで日本の江戸幕府にあった、「寺請け制度」ではないか。

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たくさんの事実

2017-02-18 23:04:58 | 社会・平和

 事実

 米大統領の選挙において、「「事実」を棚上げした言動があった」とニュースになった。その「偽事実」はスマホを通して短時間に「事実」として広がる。「偽事実」は民主政治の米国において多数決に影響を与えたと。

 「ポスト・トルース」「客観的事実」「オルタナティブ・ファクト」。これらは2月18日の新聞「偽ニュース対策」に取り上げられたことばだが、どのようにして私たちは「事実」を知ることができるか。事実と認識して後、正しい判断はできる。

 私たちは小さい頃より「噓つきは泥棒の始まり」と、嘘つきを「悪」として育った。そこに嘘つきを許容して、米大統領が選出された。多数決をも混乱させる「偽事実」をいかにコントロールできるかはこれからの大きい課題となる。とは言え、嘘つきを許容する社会は遠慮したいものだが---。

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ハゼノキ

2017-02-15 23:32:09 | 今日の出来事

 木の伐採

 通路に被さるようにハゼノキがあることに気が付いた。この場所をよく知っている人は「葉が茂る木であり、日陰をつくってくれる。そして紅葉も綺麗」と。

 通路であり、かぶれると怖いため切ることにする。時季は樹液が少ない冬、丁度今は2月、14日に行うことに。ネットで調べると、防具が各種書かれている。「えーい」と気合で以下の採用を決めて、運に頼ることに。

 面付きヘルメット。顔面のみ開いた頭カバー付きレインコート上部とズボン。ゴム手袋。ゴム長靴。

 道具はチェーンソー。倒れ方向決定用の引っ張りロープ取り付けには、梯子となる脚立そして、杭を打ち込んで支点とする。足場やその高さ調節には100㎜厚ブロックを6枚使用。

 そして家では、出がけに顔面と手全面にハンドクリームを塗る。作業終了後に手と顔とを洗う「食塩」を洗面所に準備。

 これだけの配慮をして作業にかかり、約8時間で伐採を修了できた。作業中にかゆみが出ることはなかった。しかし排尿は数回あり、都度手袋を外し、レインコートズボンを下げ、内ズボンの窓ジッパを下げて、濡れないように指でリード。その後服装を整える。したがってハゼ液と触れる可能性はある。

 ハゼかぶれ症状は接触して2日程度して出て来ることが多いという。不安は残っているが、考えられる防御はしている。待つことにする。(どんな防御をしてハゼノキ伐採をしたか、メモに残すことも目的にこれを記す。)作業途中、切株上での作業終了後、向きを変えようと踏み替えた際に滑り、1.5m程度の高さから墜落。擦り傷だけですみ幸運だったが、不注意だった。同じ不注意は厳禁だ。

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父の戦友の話が馬の話に

2017-02-10 22:57:19 | 社会・平和

 馬の話に

 幾年ぶりになるのか、計算がいるほどだが---。私が小学生時分だから、55年くらい前に訪れたことのあるお家を訪ねた。

 そこは父の兵役中を知る人が住んでいた家。現在は92才の奥さんと子供さん夫婦が住まわれている。幸運にも奥さんと話せる機会を得た。まだ大きな声の持ち主だった。「Tちゃんかいね」「はいそうですよ」「久しぶりじゃね---」「もう50年以上---」。

 「うちのお父さんは、Tちゃんのお父さんを戦地で知っちょるんよ。こわい、部下から恐れられた上司じゃったんと」「フーン。小さい頃、戦地で知った人と、ここで出会ったと聞いたことがある。そんな縁で、時々一緒にマージャンをやっていた」「うんそうそう。お父さん、働き者じゃったろう。牛もたくさん飼って」確かに、私がもの心ついた時には家にちち牛がいた。

 「うちにも牛が居たんよ。牛を使って田を耕すと足が遅くて時間が掛かった。うちのお父さんはそれを変えようと馬を飼った。Tちゃんのお父さんが、ここにきた時『おうちが倒れるのが先か、馬が倒れるのが先か。どっちかじゃのう』と言われた。うちのお父さんもよく働きよったよ」「そう---。」話すのが嬉しそうに見える。

 その日は寒い日だったが、縁側での雑談。寒さを理由に、相手を心配だとして話を終えた。がむしろ若い私が寒さには負けそうな程に、しっかりしていてお元気だった。口も回るが、熱い血もしっかり回っていることだろう。

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妹がフェイスブック

2017-02-08 22:34:24 | 今日の出来事

 妹のフェイスブック

 もの心ついた時には5人家族だった。両親と姉妹そして私。昭和35年に私は10才。私の家にも白黒テレビが入った。この時、戦後15年目。父も就職して5年程度経過の頃だろう。

 家には乳牛が3頭程度はいつもいた。兄弟3人で、稲刈り脱穀籾すりはよく手伝った。母はいつも牛の餌用の草刈りをしていたが、時おり私も手伝った。冬用の草として、サイロにも家族総出で踏み積んだ。牛の乳しぼりは、朝晩の2回。父が勤めから帰って後に行う。夕飯はいつも遅めだった。

 私は高い授業料にも拘らず、大学まで進学。他の兄弟も専門学校を卒業させてくれた。サラリーマンと乳牛と農家を、両親は父の定年まで続けた。定年後、父は4年で、母はその後1年半で他界。そのおかげで子供たちは成長し、3人とも親を超えて長生きし、子に恵まれ孫をも持つ身になっている。

 妹は数年前に、姉は昨年に、ご主人が他界されて未亡人になった。私は幸運にも夫婦で暮らしている。先日、妹と我々夫婦とで温泉に行った。その際、フェイスブック参加を「難しくはない。大丈夫だよ」と勧めた。子供さんが参加されているためもあるが、今日、開設されたページの近況報告を発見した。

 なんだか嬉しくなってすぐに、「これからもお互い、元気で過ごそう」と、返答を送っていた。

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お墓の引越し

2017-02-02 21:39:37 | 社会・平和

 お墓の引越に

 私の家にはお墓がある。もの心がついた時にはすでにそこにあった。時おり親に連れられてお参りしていた。

 学校を卒業してサラリーマンとなり、その後は里帰り時にお参りする程度だった。両親の他界後はお墓参り前に、先ず伸び放題の木の枝切りや、竹の子や猪により荒れる道を手直しすることからとなった。66才になった今、仕事で都会にいる長男夫婦がお墓を守り易いように、お墓の引越しを計画した。

 側まで車で行ける、日当たりの良い市の墓地だ。これで私としてはひと安心できる。父母は他界して今年来年に、33回忌を迎える。祖父の他界は66年前だが、お墓の手入れは凡そ65年ぶりだろう。祖父には子供がなく、祖母と家を繋ぐことに腐心されたという。

 10才で養女となった母は、戦中に養母が他界し、その後は養父と二人で戦後を迎える。23才で結婚、25才の時養父が他界する。終戦を70才で迎えた祖父だが、戦中の共同行事には母が出ていたと、お年寄りと話すと聴ける。祖父は、私が生まれて凡そ半年後に他界した。病気療養中だったが、私が泣く声に、「苦しかろう」と乳母車に乗せてかどをぐるぐる回り、子守をしてくれたと母。かどにはたくさんの乳母車の跡が残っていたと。

 私には長男がいる。しかし長男には男の子はまだできない。お墓を守る後継は孫の世代に不確実だ。子が考えてくれるだろうが、これまでに「家を繋いだ心」を、私は繋いでおかなければと、自分に言い聞かせる。こんなことを思いながら、お寺さんや石材店さんと、次の引越し手順を相談する。

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