季節を感じて暮らしてくるなかで
人々に伝わる様々な風習。
今はこんな頃なのだな。。
と、感じることもできるので
意識しながら暮らしています。
臘八節(腊八节)は
旧暦12月8日なので
2025年1月7日
春節は
旧暦1月1日なので
2024年1月29日
元宵節は
旧暦1月15日なので
2024年2月12日
臘八節や元宵節については
いままでに何度も書いていますので
そちらも参考にしてください。
こちらも参考までに
「北京観光」さまより
「臘八節」
臘八節は、中国においてとても重要な日で、この日になると、人々は五穀に落花生、栗、赤ナツメ、蓮子などを加えて煮詰め、美味しい「臘八粥」をこしらえます。
「臘八粥」のレシピ
材料:もち米、緑豆、小豆、氷砂糖、くり、はすの実、ユリ、山芋、ナツメ、白きくらげ、竜眼、クルミ等
作り方:食材を全部水で洗い、豆は一晩、こめは半日を漬けることが必要。豆を全部鍋に入れ、20分煮たら米を投入。とろみが出たらすこし待ち、氷砂糖以外を全部入れて煮込み、火を切ってから氷砂糖をいれると完成。
「人民中国」さまより
臘八節の早朝、どの家も臘八粥を作って食べる。これは、米、アワ、もち米、アズキ、ナツメ、ピーナッツ、クルミ、栗などを煮たもので、最後に砂糖を入れて食べる。臘八粥は甘くておいしく、栄養豊富で消化もいいので、年齢を問わずだれにでも適している。庶民の間ではこの日、作った臘八粥をお互いに贈りあい、鶏や犬、豚、牛にも食べさせ、庭の果樹の根元にもかける。これは果樹が臘八粥を食べると、来年必ず多く実をつけると言われているからだ。
以前は、臘八粥を食べる前に、まず仏壇や先祖の位牌の前に臘八粥を供えた。臘八粥を食べる風習は、臘月に先祖を祭ることが始まりとされている。また仏教が中国に伝わった際、お釈迦様が苦行のすえ飢餓に倒れ、臘八の日に羊飼いの娘が差し出した「羊乳の粥」を食べ体力が回復し、悟りを開き、道を得て仏となったという話が広く伝わったことから、庶民の間では、この日にお粥を作り、仏に供える習しが生まれた。
またこの風習は、アズキで邪気を追い払うことと関係がある。昔の人々は、アズキを銃の玉と見なし、アズキを撒いて魔除けができると思った。そしてアズキのお粥を食べることで邪気を払い、平安を祈ったのだ。その後、この風習は仏教とともに日本に伝わり、今でも、祝い事の席には赤飯が欠かせない。
臘八粥はもともと、アズキと様々な穀類が入っているだけだったが、その後、八種類のものを使って作られるようになった。東北地方ではマツの実、江蘇省、浙江省ではハスの実、北方では干し葡萄、南方ではリュウガンなど、各地の特産品を使うことで、臘八粥がより豊かなものになっていった。
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「CRI」さまより
臘八節は、英雄・岳飛を記念することと関係があると言われている。当時、朱仙鎮にいた岳飛は、部下を率いて金と闘っていた。1年で最も寒い時期となり、民衆は我先に岳飛に粥を差し入れ、岳飛の軍は、その粥をお腹いっぱい食べて戦いに臨み、勝利を手にして戻ってきた。この日がちょうど旧暦12月8日だった。岳飛がこの世を去った後、人々は彼を記念してこの日に雑穀や豆類で粥を煮るようになり、やがてそれが風俗となったのだという。
また、臘八節は「仏成道節」でもある。仏教の開祖であるブッダ釈迦牟尼が旧暦12月8日に悟りを開き、仏になったと伝えられている。仏教が中国に伝来した後、釈迦牟尼が悟りを開いた日を記念するために、各寺院では、この日に読経を行い、粥を煮て仏様に捧げた。この粥が臘八粥となったのだという。
臘八節の食べ物には、臘八粥のほかにも「臘八蒜」や「臘八麺」、「臘八豆腐」などがある。
たとえば、華北のほとんどの地域には「臘八蒜」を作る風俗がある。ニンニクの皮を剥き、中身を黒酢に漬け込み、小さな壺か密封容器に入れておく。しばらくすると、ニンニク全体が青緑色に変わり、ニンニクの香りと酢の香りが混ざり合い、餃子や和え物料理に大変良く合う調味料となる。
また、「臘八蒜」の「蒜」の字は、「算」と同じ発音だ。各商店はこの日に帳簿を締め、1年の収支決算を行い、損益を確認するため、「臘八算」とも呼ばれていたという。
「臘八豆腐」は、安徽省黔県の民間に伝わる特産品で、旧暦12月8日前後になると、豆腐を天日で干す風俗がある。このように自然光で干して作った豆腐は「臘八豆腐」と呼ばれている。
また、旧暦12月8日の前日に、たらいに水を汲んで中庭に置いておき、水が凍るのを待って、臘八節当日に氷の塊を取り出して砕くという面白い風習もある。この日にできた氷は非常に不思議な氷で、この氷を食べると、向こう1年間腹痛を起こさないと言い伝えられている。
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「人民中国」さまより
「元宵節」
思い出のちょうちん祭り
子どもの頃、立派なちょうちんを手に入れて友達に自慢するために、普段はやんちゃな子でも、元宵節の数日前からおとなしくお利口さんにしていたものだ。当時、私は動物の形をした車輪付きのちょうちんが喉から手が出るほど欲しかった。それを引いて通りを歩けば、みんなからうらやましく思われること間違いなしだからだ。そして兄たち男の子はといえば、関羽の刀や飛行機の形をしたちょうちんに目がなかった。だが、車輪付きのちょうちんは値が張るので、私は動物の形をした車輪付きちょうちんを一度持ったきりで、それ以外は毎年普通のちょうちんだった。たまたま近所に一人娘がいて、とてもかわいらしいお姫様スカートをはいて、黄色い毛がふわふわしたウサギの車輪付きのちょうちんを引いていた。周りの女の子たちは皆、それはそれはうらやましがったものだ。
ある年、わが家の数軒先にあるお金持ちの家の男の子が、青い軍艦型の車輪付きちょうちんを元気いっぱいに引き歩いていた。だが自慢し過ぎたせいか、その子が公園を走り回っているうちに突然、ちょうちんのろうそくの火が外側の紙に燃え移ってしまった。その子は大声で泣き出し、近くにいた私たちは皆ちょうちんを手にその子の周りに駆け付けた。ところが近づき過ぎたせいか、折からの風に吹かれた火は他の二人のちょうちんにも燃え移り、大騒ぎになってしまった。結局、大人たちは火消しに大慌て、子どもたちはパニックで泣き叫び、楽しいはずの元宵節が早くもその場で中止となってしまった――。
時はたち、私の子どもたちもちょうちんを持って遊び回る年になった。しかし、売られているちょうちんを見ると、昔のような紙を貼ったものはなく、どれも乾電池で光るプラスチック製ばかりとなってしまった。またデザインも、伝統的な動物や花をあしらったものはなくなり、日本のアニメキャラクター「ハローキティ」や「マジンガーZ」などに変わった。何とも残念でならない。
なぞなぞを解く
元宵節は漢の時代に始まり、2000年以上の歴史がある。言い伝えによると、武将の周勃が旧暦の1月15日に「諸呂の乱」を平定したことにちなむ。漢の文帝はこれを祝うため、毎年元宵節になると宮廷を出て庶民と一緒になって楽しみ、祭事を執り行って国の安泰と人々の幸福を祈願したという。
元宵節の楽しみといえば、色とりどりのちょうちんを鑑賞することだ。大きな寺院ではちょうちん祭りが開かれ、たくさんの平和を願うちょうちんが所狭しと掲げられる。そして、さまざまなテーマで作られたちょうちんの中から、一番の人気作品を人々が投票で選ぶ。こうした催しに人々は皆こぞって集まる。
また元宵節の面白さといえば、「灯謎」(なぞなぞ)を解くことだ。これはもともと文人の間ではやっていた知恵比べの遊びだった。それが、南宋時代の物好きが元宵節になぞなぞを短冊に書き、ちょうちんに貼って皆に解かせたことから、面白く、老若男女が一緒になって楽しめる遊びとして、あっという間に広がった。その後、解けたらごほうびがもらえる謎解きゲームへと変化した。
「灯謎」は立派な文学作品というわけではないが、創作する上で語句や意味、格式などの原則を重んじなければならない。今では数十種類の形式が派生し、謎の後ろに記されてヒントとされる。例えばよく見られる「巻簾格」(巻き簾形式)という形式では、簾を巻き上げるように答えを下から上へ逆に読む必要がある。例えば、「九千九百九十九」というなぞなぞから四字熟語を当てる問題では、その意味は「失一無万」(1万に一つ少ない)だが、これを逆から読むと、正解の「万無一失」(絶対に失敗しないという意味)という成語になる。
ちょうちんの鑑賞と謎解き以外にも、元宵節では各地に地方独特の風習がある。例えば、有名な台湾新北市の「平渓天燈祭り」(平渓ランタン祭り)がその一つだ。
天燈は「孔明燈」とも呼ばれ、諸葛孔明が戦いの際の連絡用に発明したものだと言われる。天燈の胴体の骨組みには細長い竹ひごを使い、宣紙(画仙紙)や油紙を外側に貼り付ける。全体的に長方形で、下は丸く開いている。台座の真ん中には灯油に浸した布か金色の紙をくくり付けてあり、火をつけると空気が熱せられて本体が膨張し、天燈はゆっくりと上昇してゆく。
清の道光帝の時代(1821~50年)、福建省安渓の農民は続々と平渓や十分などの山間部へと移り住み、開墾に励んだ。しかし夜になると山賊がよく村を荒らすので、成年男性だけを村に残し、年寄りや子ども・女性などは山奥へと避難させた。盗賊が去ると、村に残った男性たちは天燈を放ち、避難した村民に村へ戻ってくるよう合図を送ったという。
これがその後、徐々に元宵節で無病息災を祈願する催しへと変化していった。今の元宵節では、多くの観光客が平渓に押し寄せ、天燈に願い事を書いて空に上げて願掛けをする。夜になり、山に囲まれて天燈がゆらゆら揺れながら風に乗って空へ舞い上がるのを静かに見守る――このようなロマンチックな願掛けは多くの人を魅了してやまない。
元宵と湯円
元宵を食べずして元宵節は始まらない。この丸いもちもちしたお菓子は、北方地域では「元宵」と呼ばれ、南方では「湯円」と呼ばれている。元宵は、丸めたあんをもち米粉の入ったふるいに入れて転がしながら作るもので、湯円は手のひらで丸めて作る。
元々の「元宵」は、唐代の頃の歴史書に記載があり、初めは「粉果」と呼ばれていた。宋の時代には「円子」「団子」と名を変え、明の永楽帝の時代(1403~24年)に「元宵」という名称が定着した。元宵は一般的に甘く、あんを小口切りしてから、もち米粉の入ったふるいに入れて、転がしながら丸く大きくしていく。これをゆでた汁は白く濁っている。
一方、湯円の作り方はギョーザと似ていて、もち米で作った皮であんを包み、両手のひらで丸めていく。湯円のあんは植物性の食材もあれば肉もあり、このスープはさっぱりしている。湯円や元宵のあんは実に多彩で、各地方によって味も食べ方も異なる。有名なものに蘇州の五色湯円や南京の雨花石湯円、山東省のごまとナツメのこしあんの湯円、上海の甘酒湯円、カニ湯円、台湾の塩辛い湯円などがある。