1/31(水)清水魚市場でマグロをいただいて「東海道歩き」に戻りました。
前回ゴール地「清水駅」を15:00スタート。
約1,5km地点に「ほそいの松原の碑」があります。
慶長9年(1604年)二代将軍・徳川秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い、江戸の防備と旅人に安全な旅が出来るように、工事奉行に街道の両側に松の木を植えさせ、
慶長17年(1612年)完成したと伝えられています。元禄16年(1703年)の検地によると、松原全長199間2尺(約360メートル)、松の本数206本だったとされています。
細井の松原は太平洋戦争の時、松根油(航空機燃料)の原料として伐採され、今ある松は平成4年に植えられたものとなります。(ふじのくに文化資源より)
ほそいの松原の碑の横には、「無縁の碑」がありました。昭和19年(1944)松根油採取の為伐採中、多量の人骨が出てきました。東海道で倒れた旅人を埋葬したもので
町内の人は、寺に葬り、松原に記念碑を建てました。
辻町の信号の所から富士山が見えました。東京まであと175kmです。(まだまだ遠いです)
興津の町に入ってきました。このあたり明治の公爵「井上薫」の長者荘があるはずなんですが・・・・・・探しても見つかりません。
近くで工事をしている人に聞くと、現在は、静岡市埋蔵文化センターになっているそうです。
井上馨の長者荘は、昭和20年7月空襲によって焼失しました。
注)井上馨
1836年、長州藩(現山口県)生まれ。幕末の志士で元老、侯爵。過激な攘夷(じょうい)運動家だったが、63年の英国密航で開国論者へと一変。幕府の第1次長州征伐の際、
武備恭順を主張して藩内の反対勢力に襲われ、瀕死(ひんし)の重傷を負う。薩長同盟締結にも奔走。維新後は鹿鳴館を建設し不平等条約改正に尽力、第一国立銀行設立や三井物産創業など
近代化を進め、伊藤博文内閣で初代外相、内相、蔵相を務めた。96年、横砂地区に別邸「長者荘」を建て地元産業振興や園芸試験場の誘致などにも力を注いだ。
井上馨公爵の銅像は、線路を渡った海側にありました。昔は、ここが海岸線だったそうです。井上馨の銅像も戦前、高さ4,85m、重さ6,75tでしたが、昭和17年(1942)供出により取り壊されました。
街道に戻ります。戻るとすぐ右側に「坐漁荘」があります。坐漁荘は、明治、大正、昭和の政治家「西園寺公望」公の住宅です。大正9年(1920)公望70歳の時に建てられた建物は、明治村に
移設されましたが、平成16年(2004)に復元しています。「のんびりと魚釣りでもして過ごすつもり」という意味で「坐漁荘」と命名しましたが、公望公の助言を求めて多くの政治家が訪れました。
訪れる政治家は、水口屋に宿をとり、そこでの話し合いは、「小閣議」と言われていました。
建設当時はこの庭から三保の松原や伊豆などが見渡せたという。
東海道本線の線路を渡った所に「清見寺(せいけんじ)」があります。開園時間は16:30まで。然し時間は16:30を過ぎています。
寺の方に話を聞くと寺の中には入れないが、外部の見学だったら17時までだったらOKとのこと。急いで寺の外部を見学しました。
清見寺は、白鳳年間(680年ごろ)警護、往来の監視、治安の維持の関所(清見関)が置かれ、そこにお寺が創建されたといわれています。
清見寺は、室町時代には、日本を代表する寺「全国十刹」として保護されていました。ここには、家康公も手習いに訪れ、朝鮮通信使や琉球使、各大名も訪れました。
境内には、多くの文化財や史跡が残っています。
「高山樗牛假寓 (かぐう)之處」という碑があります。樗牛は清見潟の風景をこよなく愛し 明治三十三年秋当處の三清館に假寓 して清見寺の鐘声を聞いていたそうです。
「皇太子殿下御海水浴跡」は、皇太子(大正天皇)明治22年(1889)2月東海道線が開通し、興津駅が開業したことで同年7月清見寺に行啓されたあと、清見灘で海水浴を楽しまれました。
当時は、ここまで海岸線だったそうです。
興津宿に入ってきました。
東海道17番目の興津宿は身延、甲府へ通じる身延道が分岐し交通の要衝でした。本陣は、2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒で人口は、1668人、家数は316軒でした。
脇本陣水口屋は、塩や魚を甲斐へ送るため武田信玄の家臣がこの地に移り住んだといわれています。興津宿の脇本陣であり、宿を営み、明治時代西園寺公望公などの政治家や皇族、
財界人、更に海外にも紹介されたことから外国人客も宿泊し、ここからの景観を絶賛しています。残念なことに埋め立てや道路整備によりその警官が失われたことから廃業しています。
現在はギャラリーとして当時のことを紹介しています。