2/4(日)今回の東海道歩きも最終日になりました。今日の15:45の新幹線で福岡に戻る予定です。
早めにホテルをチェックアウトし、前日ゴールの吉原駅に8:10到着。昨日ゴールした時にきれいな姿を見せてくれた富士山は、まだ就寝中かな?顔を見せてくれません。
吉原駅から踏切を横断します。渡った所あたりが、「元吉原宿」です。その名残は、もうありません。先に行くと、「妙法寺・毘沙門天」があります。
「妙法寺・毘沙門天」武運の神様毘沙門天が祀られ、富士山への修験者の令嬢であり、更に武田氏や紀州徳川家の信仰をうけていました。境内にはインド窟院にならった洞窟七福神堂や
中国様式の建物があり独特の雰囲気をもっています。旧暦正月7日~9日の大祭で開催されるだるま市は、日本三大だるま市の一つです。
毘沙門天から出ると、製紙工場の大きな煙突が建ち並んでいます。ここ富士市には、60社(70工場)の製紙工場があり、全国一の規模です。歴史を見てみると、江戸時代文化年間(西暦1,800年頃)
は富士地区特産である三椏を原料として駿河半紙をすき、江戸や京都、大阪において好評を博したとされています。その後、吉原地区では原料の三椏が量産栽培され、豊富に湧出する水を利用して
製紙業が普及していきました。明治時代には富士地区(旧吉原中心)を中心に県下に中小製紙会社が続々と誕生し、紙の黄金時代が築かれます。その後も紙需用は拡大を続け、
富士市は紙のまちとして発展を続けています。
増田平四郎の像があります。水害に悩まされてきた原村を救おうと、明治時代、浮島沼の大干拓を手がけた『増田平四郎(ますだへいじろう)』の碑です。
増田平四郎は、飢饉や水害に悩む住民の救済を決意し、浮島沼の干拓を計画しますが、徳川幕府はなかなか許可せず、計画の立案から許可が出て工事に着工するまでなんと
27年もの月日がかかりました。工事は海から浮島沼にかけて全長505メートル幅7メートルにも及ぶ大規模な掘りを築き、2年後の明治2年(1869)春、ついに大排水路を完成させます。
人々はこれを『スイホシ(水干)』と呼んで平四郎に感謝しますが、その年の8月、高波の被害により無情にも排水路は崩壊、30年に及ぶ平四郎の夢も露と消えてしまいました。
さぞかし無念だったと思いますが、平四郎の計画は後に同じ場所にできた昭和放水路に生かされました。昭和放水路を見守るように、放水路の西側にその碑は立っています。
間宿・柏原本陣跡があります。柏原新田は東、中そして西柏原新田に分かれており、間の宿・柏原は西柏原新田にあった。丁度原宿と吉原宿の中間にあたるところです。
※間宿(あいのしゅく)・・・・江戸時代、本宿と本宿の間に設けられた村。本来は、旅人の休憩のためのもので宿泊は禁止されていた。
本陣跡の前には、「立圓寺」です。山門をくぐると、望嶽の碑があります。文化5年尾張藩の侍医・柴田景浩は、江戸への道中しばらく立円寺に滞在し、ここから見た富士の絶景を讃えて碑を建てたと
いわれています。石碑の裏側には漢文でそのいわれが書いてあります。「予の性、山を愛し、また山を書いて喜ぶ。山は冨士より奇なるはなし。冨士の勝、この間に望むにしくはなし・・・」
晴れた日には正面に大きく富士山が見えます。
その富士山ですが、残念ながら雲の中に隠れています。
この立圓寺には、望嶽の碑の東隣に、昭和54年、富士市の海岸に打ち上げられたデラティック号の碇があります。昭和54年(1979)10月19日、ゲラティック号は、清水港より救援米を運ぶ途中、
台風20号に遭遇し、強風と高浪により船体は立円寺南方の柏原海岸に直立のまま打ち上げられました。救助を求める二人の船員の遵い生命も奪われました。
当時、新聞・テレビのマスコミにも登場し、日曜、祝日には、5万人の見物人がこの地を訪れ、売店十数軒が出店するなど、近郊はもちろんのこと、東京・愛知・山梨より見物人が押しかけました。
船体は六ヶ月間を要して解体処理され、ここに遭難者の慰霊を祀り、碑を建てました。
これから、広重の東海道浮世絵の「原宿朝之富士」のモデルになった「浮島ヶ原自然公園」に行きます。浮島ヶ原公園は、東田子の浦駅の国道1号線側にあります。
浮島沼は、湿地草原と富士山を眺望できる風光明媚な場所でしたが、昭和41年(1966)田子の浦港の開港整備に伴う排水工事の改善から湿地の乾田化が進み、湿地地帯は失われて
しまいました。現在湿原に生息している植物を保護し、生態系や風景を保全しようと整備が進められています。
この時間になると、富士山も起きたのか顔を出してくれました。
街道は、沼津市に入りました。植田三十郎のお墓があります。遠州浪人だった植田三十郎はこの地の干拓に尽力するも失敗。後に干拓が成功した後、
この植田の名をつけて植田新田と呼ばれる様になったとの事。
浅間愛鷹(せんげんあしたか)神社。愛鷹(あしたか)山は、富士山のふもとに位置する山です。お宮の由緒書きを読んでみますが、かなり古くて文字が薄くなっています。
祭神は、木花咲耶姫命、愛鷹大神(ニギニギノミコト)。
桃里改称記念碑というのがあります。改称というのは何のことか?と読んでみますと、浮島ヶ原を最も早く開墾したのは、遠州の浪人だった鈴木助兵衛である。同名の父、鈴木助兵衛良正が
小笠郡堀田城にいた武士で、安倍郡の下足洗新田を開発した後、2代目助兵衛が天正2年(1574)頃浮島ヶ原へ来てこの地を開き、助兵衛新田と称したという。
明治41年(1908)に県知事に改称を申し出、当時この辺りでは桃をよく作っていたので桃里と改めた。この碑は、桃里改名の経緯を記し、助兵衛の功績をたたえている。
要するに、助兵衛新田から桃里新田に名称を変えたということですね。
休憩の為、コンビニに立ち寄りました。コンビニと富士山・・・・絵になりますかね?
街道は「原宿」に入りました。浮島ヶ原の「原」から名付けられた「原宿」。小さな漁村が東海道13番目の宿場になりました。当時は、鰻のかば焼きが名物と書かれており、
「500年に一人」と言われる臨済宗中興の祖である「白隠禅師」のゆかりの宿場です。東海道は千本松原と並行してまっすぐにのびており、どこからでも富士山が一望できます。
高嶋酒造は、文化元年(1804)創業の造り酒屋です。白隠禅師に因んだ「白隠正宗」という山岡鉄舟がつけた銘の酒を製造しています。
原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至っている。原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、
自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり問屋、年寄、名主等を勤めていた。間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6600坪の広大な規模であった。
原宿は、白隠(はくいん)の里として知られています。白隠禅師は、他の禅宗と比べ衰退していた臨済宗を復興させた名僧です。貞享2年(1685)12月25日、原宿、長沢家の三男として誕生し、
15歳で出家、慧鶴と名付けられ、19歳で諸国行脚の旅に出て、24歳で鐘の音を聞いて悟りを開いたと言われています。享保2年(1717)に33歳で松蔭寺の住職となり、翌年、白隠と号する
ようになりました。当時は「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠」と言われていました。
松蔭寺への寺道は、「白隠道」と呼ばれ、カラー舗装になっています。
松蔭寺は、開基は、約680年前と言われ、白隠禅師が再興し、諸国の大名が禅師の徳を慕って訪ねていたといわれています。白隠禅師の墓があり、宝物館には、禅師に関する書画、文物などが
収蔵されています。
長興寺は、江戸中期、松蔭寺に全国から参集した修行者たちの宿坊でした。両寺の間の小路は白隠道と称されました。
我が家の宗派も臨済宗ですが、臨済宗にこのような方がおられたとは、知りませんでした。
白隠道から再び街道に戻ります。三本松の踏切を渡ります。JR片浜駅の近くに「神明塚古墳」があるのですが、ちょっとわかりません。近くのお寺に居た人に聞くと、この方は、昨年まで
自治会長をされていた方で詳しく教えていただきました。
神明塚古墳は、5世紀後半に築造された前方後円墳。沼津市内の3つの古墳の中で全長が54mと最大の古墳です。後円部に建てられている「神明宮」は、元和2年(1616)創建で
天照皇大神が祀られています。
沼津市のマンホールは、富士山と、はまゆう、千本松原、愛鷹山がデザインされています。
千本松原は、狩野川河口から田子の浦港までの約10km、30万本以上の松があるといわれています。この松原は、昔から農民が防風、防潮の為に植えていたのですが、武田勝頼が駿河攻めの
為に伐採し、それを増誉上人が5年の歳月をかけて植え直しました。大正時代にも伐採の危機がありましたが、若山牧水らの反対運動により免れています。
沼津市中心部に入ってきました。「沼津藩領榜示杭」は、沼津藩の東西の領域を示す石。安永7年(1778)に設けられ、沼津藩領が確定しました。
中心部に入ってかなり風が強くなりました。突風でしょうか竜巻でしょうか、、私のDバックの後ろの風車が音をたてて回っています。挙句の果ては、飛んで行ってしまいました。
拾いに行こうかと思いましたが、風車は道路の真ん中にありますが、車の通行が激しく、拾いに行けませんでした。帰ったらまた注文しなくては・・・・・・
沼津宿は、12番目の宿場で、戦国時代に武田勝頼によって沼津城が築かれた後、廃城となり、160年後、水野忠成が築城し、沼津藩となりました。交通の要衝として、商業、文化の中心的
役割を果たしていました。家数1234軒、(本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠55軒)人口5346人でした。
時間も13:30分を過ぎてきました。もう帰りの新幹線に時間も迫っています。今回はここまでとし、次回(4月上旬)、またゆっくり見て回ろうと思います。