9月14日からの三連休を利用し山陽道歩きに行ってきました。
今回もJR西日本の「広島とくとく切符」を利用しました。
この券は新幹線往復自由席、広島管内フリー区間がありかなりお得です。
6時5分博多駅発の新幹線で広島へ。広島から山陽本線上りの電車で西条へ。
西条には8:00ごろ到着。
西条は、1650年ごろから酒造りが始まり、現在駅前には8つの蔵元が集まっており、今では灘、伏見と並ぶ日本三大銘譲地となっています。
白牡丹の冥加の水
西条四日市宿は広島県10宿のうちで一番大きな宿場で本陣にあたるお茶屋は藩が管理していました。
お茶屋(本陣)跡は、賀茂鶴の中にあります。
案内板によると
江戸時代 ここ西条は「西条四日市」と称し 旧山陽道最大の宿場町として栄え 有名でありました
全国の宿場には 大名のとまる宿がその土地の名家でいとなまれ「本陣」と称せられていましたが 西条四日市宿場だけは重要な大宿駅でありましたので 藩(淺野藩)が直営で
これをつくられ「御茶屋」と称せられていました
この場所は その「御茶屋」のあった所であります
「御茶屋」の規模は 古文書によれば
一、土地の広さ 一、四八八坪(約四、九一〇平方米)
二、部屋数 二十九
三、畳の数 二百十四畳半 でございます
建物は 明治維新後に取りこわされましたが 御門と 称せられていた正門は 賀茂鶴の当主の木村和平翁が 土地とともに払い下げを受けたので 今日まで保存してきましたが 貴重な文化財でありますので
此のたび 建築学の大家であらせられる 広島大学名誉教授の佐藤重夫先生の 考証と御指導を仰いで 復元したのであります
なお 此の地は 安芸國分寺(ここより東北約五00米に現存)が建てられた頃(西暦七四一年)安芸の國の政治の中心「國府」があったと 伝えられています
酒蔵通りを抜け山陽線ガードを潜ると「安芸国分寺」があります。
国分寺を後に再び街道に戻ります。
西条には、民家に独特の赤瓦があります。
その誕生の背景には、この地方が冬は積雪に見舞われる一方、夏は強烈な陽射しが照り付けるという気象条件。過酷な環境に耐えうる瓦として使用されたのが赤瓦です。
材料は東広島で産出される良質の粘土。黒瓦と異なり釉薬として来待石を使用していたことからこの赤瓦が生まれました。高温で焼成した赤瓦は瓦全体をガラスで
包んだような光沢があります。
街道は市街地を抜け山間部に入ります。
川沿いの道を歩いていると「旧山陽道歌謡坂一里塚跡」(うたうたいざか)があります。
牛満長者の田植えがここから田植え歌を歌いながら始められたので歌謡坂と名付けられたそうです。
※昔、焙烙(ほうろく)(※素焼きのお鍋)を商う男が今宮神社を通るとき、そこにいた弱った牛に自分の弁当を食わしたが、結局牛は死んでしまった。
哀れに思って体をさすると大判小判に変わり、男は牛満長者と呼ばれるようになった。
「今宮神社(牛宮神社)」
前述の弱った牛が亡くなった所にお宮が建っていました。
「かご松の碑」
街道松がありここで殿様も駕籠を止められ休まれたそうです。
更に先に進むと左側に山道があります。ここが松子山峠の入口でしょうか?標識はないかな?と探しますがありません。地図ではここを入るようになっていますが、
とりあえず恐る恐る入っていきます。
入るとすぐ泥濘(ぬかるみ)があります。今回シューズは雨に強い「ゴアテック」を履いています。
右側に池がある所に来ると道が二手に分かれています。地図を見てもわかりませんので携帯のGPSを使いますがここでは圏外の表示。
随分考えた挙句、左側の道にはビニール紐がつけられています。多分こちらだろうと思い左側の道を選びました。
峠の頂上には「松子山峠」の標識が建っていました。間違っていませんでした。
先へ進むと何というか、道がなくなっています
持ってきたタブレットで先輩たちが歩かれたブログを開くとここを下りていくとなっています。
高さ50cmぐらいの段を下り、あとから来た家内の手を引いてあげます。
この峠は、泥濘が長く続きますがそれより倒木があちらこちらで見られます。
1時間ちょっとでやっと峠を越えました。
然しこの峠、この山陽道の中でも1,2位を争う厳しい峠です。
前方には東広島呉自動車道が走っています。街道はこのガードを潜っていきますが、どうも私の両足に豆ができたみたいです。
ガードの手前に空き地がありましたので靴を脱ぎ救急絆創膏で手当てします。ゴアテックがいいと思い新しいシューズにしたのがいけなかったのかな・・・・
石立大明神の近くに「日向一里塚」があるということでしたが、見つけられませんでした。
「三永(みなが)の石門」
国道2号線によってそれまでの農業用水路が分断されるため明治15年(1882)に設けられた石造のアーチ式水路橋です。国の登録有形文化財に登録。
こうした水路橋は中国地方でも数少なく橋の下を当時の国道が通っていた。昭和53年(1978)国道の拡幅工事に伴ってここに移築された。 (東広島市HPより)
今日は天気も良く暑くて飲料水をよく飲んだ。そのため飲料水の在庫も乏しくなりコンビニや自販機を探すがどこにも見つからない・・・・・・
2号線を渡る陸橋から舗装会社のプラント工場が見える。あそこだったらあるかもしれないと工場内に入ってみるとありました。
ここで飲料水を補給して再びスタートします。
街道の側には、彼岸花も咲いています。
「茗荷清水」
街道脇に右側に茗荷清水と水がわき出ている所があります。昔の旅人はここで喉を潤したのでしょう。
何年か前の写真には小屋があったがいまはありません。
「田万里」へ
ここから竹原市田万里に入ります。
田んぼには稲の天日干しが行われており秋の香りを漂わせています。
「石立神社」
東広島市三永の所にも同じような神社がありましたが、同じ系列でしょうか?
先の方を見ると御夫婦のウオーカーさんが・・・・・
すれ違った時にお話をすると大阪から来られた方で山陽道を西へ向かわれているそうです。
もう東海道、中仙道を歩かれ街道歩きの大先輩でした。
今日は本郷から西条まで歩かれるそうです。最終目標は来年末の長崎だそうです。
私達も来年末には京都・東寺にゴールしたいなぁ。
「田万里宿」に入ってきました。
田万里宿は、西条と本郷の間が6里(約24k)もあり間宿として発展しました。
本陣、問屋、旅籠、茶店が軒を連ね戸数35余りの集落でした。
「茗荷の清水」
東広島上三永の方にも同じような清水がありました。
昔は名水だったのでしょうが、今ではカエルがいたりして飲み水としてはちょっといただけません。
のどかな道を歩き街道は「大橋」の所で左折します。
先ほど舗装会社の工場で飲料水を仕入れたのですがもう無くなりかけています。
近くの人にコンビニの場所を聞くとここから1km離れた所にあるそうです。
2号線新庄の車屋さんの所にそのコンビニはありました。
そこで水分を補給しついでにアイスクリームもいただきました。
再びスタートしますが、どうも私の体が言うことを聞いてくれません。
上り坂に差し掛かると息切れして思うように歩けません。これからまた峠にさしかかるのに・・・・・
それでも「横大道」まで来ました。時間は3時を少し過ぎたころです。
しばらく休憩しますがそれでもよくなりません。軽い熱中症みたいです。
この道標は、東「大阪」、西「広島」と書いてあります。この道標を見ると歩き出したくなりますがすぐ息切れしてしまいます。
仕方がないので今日はここで終了することにします。
帰りはタクシーでJR山陽線入野駅へ行きそれからJR西条駅に戻りました。
今日のGPSです。
今回もJR西日本の「広島とくとく切符」を利用しました。
この券は新幹線往復自由席、広島管内フリー区間がありかなりお得です。
6時5分博多駅発の新幹線で広島へ。広島から山陽本線上りの電車で西条へ。
西条には8:00ごろ到着。
西条は、1650年ごろから酒造りが始まり、現在駅前には8つの蔵元が集まっており、今では灘、伏見と並ぶ日本三大銘譲地となっています。
白牡丹の冥加の水
西条四日市宿は広島県10宿のうちで一番大きな宿場で本陣にあたるお茶屋は藩が管理していました。
お茶屋(本陣)跡は、賀茂鶴の中にあります。
案内板によると
江戸時代 ここ西条は「西条四日市」と称し 旧山陽道最大の宿場町として栄え 有名でありました
全国の宿場には 大名のとまる宿がその土地の名家でいとなまれ「本陣」と称せられていましたが 西条四日市宿場だけは重要な大宿駅でありましたので 藩(淺野藩)が直営で
これをつくられ「御茶屋」と称せられていました
この場所は その「御茶屋」のあった所であります
「御茶屋」の規模は 古文書によれば
一、土地の広さ 一、四八八坪(約四、九一〇平方米)
二、部屋数 二十九
三、畳の数 二百十四畳半 でございます
建物は 明治維新後に取りこわされましたが 御門と 称せられていた正門は 賀茂鶴の当主の木村和平翁が 土地とともに払い下げを受けたので 今日まで保存してきましたが 貴重な文化財でありますので
此のたび 建築学の大家であらせられる 広島大学名誉教授の佐藤重夫先生の 考証と御指導を仰いで 復元したのであります
なお 此の地は 安芸國分寺(ここより東北約五00米に現存)が建てられた頃(西暦七四一年)安芸の國の政治の中心「國府」があったと 伝えられています
酒蔵通りを抜け山陽線ガードを潜ると「安芸国分寺」があります。
国分寺を後に再び街道に戻ります。
西条には、民家に独特の赤瓦があります。
その誕生の背景には、この地方が冬は積雪に見舞われる一方、夏は強烈な陽射しが照り付けるという気象条件。過酷な環境に耐えうる瓦として使用されたのが赤瓦です。
材料は東広島で産出される良質の粘土。黒瓦と異なり釉薬として来待石を使用していたことからこの赤瓦が生まれました。高温で焼成した赤瓦は瓦全体をガラスで
包んだような光沢があります。
街道は市街地を抜け山間部に入ります。
川沿いの道を歩いていると「旧山陽道歌謡坂一里塚跡」(うたうたいざか)があります。
牛満長者の田植えがここから田植え歌を歌いながら始められたので歌謡坂と名付けられたそうです。
※昔、焙烙(ほうろく)(※素焼きのお鍋)を商う男が今宮神社を通るとき、そこにいた弱った牛に自分の弁当を食わしたが、結局牛は死んでしまった。
哀れに思って体をさすると大判小判に変わり、男は牛満長者と呼ばれるようになった。
「今宮神社(牛宮神社)」
前述の弱った牛が亡くなった所にお宮が建っていました。
「かご松の碑」
街道松がありここで殿様も駕籠を止められ休まれたそうです。
更に先に進むと左側に山道があります。ここが松子山峠の入口でしょうか?標識はないかな?と探しますがありません。地図ではここを入るようになっていますが、
とりあえず恐る恐る入っていきます。
入るとすぐ泥濘(ぬかるみ)があります。今回シューズは雨に強い「ゴアテック」を履いています。
右側に池がある所に来ると道が二手に分かれています。地図を見てもわかりませんので携帯のGPSを使いますがここでは圏外の表示。
随分考えた挙句、左側の道にはビニール紐がつけられています。多分こちらだろうと思い左側の道を選びました。
峠の頂上には「松子山峠」の標識が建っていました。間違っていませんでした。
先へ進むと何というか、道がなくなっています
持ってきたタブレットで先輩たちが歩かれたブログを開くとここを下りていくとなっています。
高さ50cmぐらいの段を下り、あとから来た家内の手を引いてあげます。
この峠は、泥濘が長く続きますがそれより倒木があちらこちらで見られます。
1時間ちょっとでやっと峠を越えました。
然しこの峠、この山陽道の中でも1,2位を争う厳しい峠です。
前方には東広島呉自動車道が走っています。街道はこのガードを潜っていきますが、どうも私の両足に豆ができたみたいです。
ガードの手前に空き地がありましたので靴を脱ぎ救急絆創膏で手当てします。ゴアテックがいいと思い新しいシューズにしたのがいけなかったのかな・・・・
石立大明神の近くに「日向一里塚」があるということでしたが、見つけられませんでした。
「三永(みなが)の石門」
国道2号線によってそれまでの農業用水路が分断されるため明治15年(1882)に設けられた石造のアーチ式水路橋です。国の登録有形文化財に登録。
こうした水路橋は中国地方でも数少なく橋の下を当時の国道が通っていた。昭和53年(1978)国道の拡幅工事に伴ってここに移築された。 (東広島市HPより)
今日は天気も良く暑くて飲料水をよく飲んだ。そのため飲料水の在庫も乏しくなりコンビニや自販機を探すがどこにも見つからない・・・・・・
2号線を渡る陸橋から舗装会社のプラント工場が見える。あそこだったらあるかもしれないと工場内に入ってみるとありました。
ここで飲料水を補給して再びスタートします。
街道の側には、彼岸花も咲いています。
「茗荷清水」
街道脇に右側に茗荷清水と水がわき出ている所があります。昔の旅人はここで喉を潤したのでしょう。
何年か前の写真には小屋があったがいまはありません。
「田万里」へ
ここから竹原市田万里に入ります。
田んぼには稲の天日干しが行われており秋の香りを漂わせています。
「石立神社」
東広島市三永の所にも同じような神社がありましたが、同じ系列でしょうか?
先の方を見ると御夫婦のウオーカーさんが・・・・・
すれ違った時にお話をすると大阪から来られた方で山陽道を西へ向かわれているそうです。
もう東海道、中仙道を歩かれ街道歩きの大先輩でした。
今日は本郷から西条まで歩かれるそうです。最終目標は来年末の長崎だそうです。
私達も来年末には京都・東寺にゴールしたいなぁ。
「田万里宿」に入ってきました。
田万里宿は、西条と本郷の間が6里(約24k)もあり間宿として発展しました。
本陣、問屋、旅籠、茶店が軒を連ね戸数35余りの集落でした。
「茗荷の清水」
東広島上三永の方にも同じような清水がありました。
昔は名水だったのでしょうが、今ではカエルがいたりして飲み水としてはちょっといただけません。
のどかな道を歩き街道は「大橋」の所で左折します。
先ほど舗装会社の工場で飲料水を仕入れたのですがもう無くなりかけています。
近くの人にコンビニの場所を聞くとここから1km離れた所にあるそうです。
2号線新庄の車屋さんの所にそのコンビニはありました。
そこで水分を補給しついでにアイスクリームもいただきました。
再びスタートしますが、どうも私の体が言うことを聞いてくれません。
上り坂に差し掛かると息切れして思うように歩けません。これからまた峠にさしかかるのに・・・・・
それでも「横大道」まで来ました。時間は3時を少し過ぎたころです。
しばらく休憩しますがそれでもよくなりません。軽い熱中症みたいです。
この道標は、東「大阪」、西「広島」と書いてあります。この道標を見ると歩き出したくなりますがすぐ息切れしてしまいます。
仕方がないので今日はここで終了することにします。
帰りはタクシーでJR山陽線入野駅へ行きそれからJR西条駅に戻りました。
今日のGPSです。
奥様もよく辛抱して歩かれるなぁと感心しています。
西条の賀茂鶴は私も良く愛飲したころがありました。
途中で会われたウォーカーの方はさぞ喜ばれたことでしょうね。これまでのよっくんさんの詳細な記録がいつでも見れて参考にされるわけですから。
体調は戻りましたか?くれぐれも無理なさいませんように。
私も四国を歩いたとき1日全く誰にも会わなかったことがあります。
同じ目的を持ったウォーカーに出会うと嬉しいしホッとしますね。
しばらく山道が続きそうですが体調に気をつけて頑張ってください。
この間の三連休は、昼間は真夏が戻って来たような日差しでした
そして、途中は道なき道を歩かれて、大変だなぁでも、凄いなぁと・・・・
西条のマンホールの蓋はカラフルで、そして日本酒の街だと見ればすぐわかりますね
また、続きを楽しみにしています
私も飲んだ事のあるお酒がいくつか‥
しかし、道無き所を草木をかき分けて進む‥探検家になった気分で読ませていただきました! この時期は水分補給が大変ですね~
今回は西条の町並みが私は印象に残りました。
暑さの中、体調には十分に気をつけてください。
まだ先が長いですから。
途中で出会ったご夫妻。とても良い笑顔ですね。よっちゃんご夫妻もこの時はニコニコ顔だったんでしょうね。お二人の笑顔が浮かんできます。
この峠は今まで歩いた山陽道の中でも1,2位を争うぐらい難所です。
ホテルに帰ってすぐ寝ましたら体調も回復しました。
途中でお会いしたウオーカーの方に私の名刺をお渡ししました。今後の山陽道の参考になればと思っています。
翌日にも河原坂峠で難儀しました。(笑)
今日は伊勢ですか?
伊勢エビ、アワビ・・・・・・おいしいものがたくさんありますね。
マンホールには「酒都」と書いてあるでしょう。
西条は水もおいしいのでお酒も格別です。
コメントが遅れ申し訳ございません。
西条を出発の時はペットボトル5本ぐらい持って行き途中コンビニで買えばいいななど思っていましたらコンビニ、自販機がないのです。
また、夏の間暑くて自主トレも休んでいたから途中でダウンしたのではないでしょうか?