2020/12/30
三島由紀夫のことを少しでも知っている人は、彼の死の原因、そして「なぜあのような死に方をしたのか」ということを考えると思う。
ここでは前回12月8日の続きで『ヒタメン』(岩下尚史著 文春文庫)で湯浅あつ子が語っている三島の死の理由から、引用してみようと思う。
9章「最後の証言者」より(湯浅あつ子の言)
歌舞伎座で『椿説弓張月』の興行のとき(昭和44年11月)に偶然、三島と会った。その時「萬之助のために芝居を書いて欲しい」と頼むと、「残念だが、もう時間がないんだ。今ちょうど一生作(ライフワーク)に打ち込んでいるところで、これを書き上げたら、あっちゃん、僕は、此の世から居なくなるからね」と言いましたのよ。
あの人は、「20台(原文ママ)の頃から45歳になったら死ぬんだ、男が人間として見ていられるのは、45まで。」と公言して居りましたからね。
「あっちゃん、後を頼むよ。ずいぶん会わなかったのに、ここで遇ったのも、やっぱり縁があるんだね」というんです。後を頼むとは、子どもだけは守ってほしいと云うメッセージだったんです。つまりマスコミ対策を頼んだつもりだったのでしょう。(p.325)
先程から申し上げているように、20台の頃から45になったら死ぬと公言しておりましたから、彼の計画通りと言えば、言えないこともありませんね。(P.326)
それと・・案外、お金の苦労もあったんじゃないでしょうか?
”楯の会”を作った頃だと思いますが、「みんなの制服代だってバカにならないんだぞ、ぼくの貯金だって、多いときからみると10分の1になっちゃたんだ」なんて、こぼしていましたもの。
もちろん、そのことだけが、ああした死に結びつくとは考えられませんけれども、40を過ぎた頃から金銭的なことで、だんだん心細くなっていったことは事実です。
もうその頃になると、公ちゃんの書く小説だって、彼が30前後のときのようには、売れなくなっていたではありませんか?
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湯浅あつ子が話した「楯の会」費用については、『ペルソナ 三島由紀夫伝』で猪瀬直樹も書いているので引用します。
「楯の会は100名近くに膨らんでいた。運営費は三島のポケットマネーから捻出された。西武百貨店社長・堤清二の好意で派手なデザインの制服が提供されたが、貰ったわけではない。イージーオーダーで1着1万円が支払われたが実費は2万円強である。夏服、冬服で101着分202着が発注された。(中略)喫茶店代や合宿代、自衛隊体験入隊費用、制服支給費など、三島が2年間(昭和43~45年)で支払った総額は1500万円になるという。
『新潮』に連載した「春の雪から「天人五衰」までの「豊饒の海」シリーズの原稿料は、4百字詰め原稿用紙1枚につき1500円だった。全部で3千枚だから、原稿料収入は450万円に過ぎない。(単行本は別途)。当時、湯浅あつ子に「支出がばかにならない」とぼやいている。」(p.364~365)
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湯浅あつ子の証言の続き
ノーベル賞のことは大きいですね。あれは三島由紀夫にとって、大きな打衝(ショック)だったと思いますから。
だって、自分では当然受けるつもりで、授賞式用の礼服まで誂えちゃって、傍目にも可笑しいほど浮き浮きしていたんですから・・・。
それが、恩師として立てていた人に横から取られちゃった形で、私たちの前では、ずいぶん、口惜しがっていましたし、恨んでもいました。
ほんとうに、公ちゃんの人生は、色んなことが思うようにならず、可哀想でした。(p.327)
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ノーベル賞が取れなかったこと、川端康成に横取りされたと感じた恨みについては、他の人も語っている。
テレビのBS1スペシャル「三島由紀夫X川端康成 運命の物語」では、そのことを取り上げていた。
三島と親しかった女優・村松英子によれば、三島は川端の鎌倉の住まいに呼ばれ、ノーベル賞は辞退してほしいこと、そして川端の推薦文を書いてほしいと頼まれたと話したという。
そして瀬戸内寂聴は、「平岡家はみんな川端を憎んでいた、と弟の千之から聞いた」と語っている。
母・倭文重も「ノーベル賞を取っていたら死ななかったと思う」と書いている。
川端の受賞を知り、お祝いに駆けつけた三島
1963年度(昭和38年)から1965年度(昭和40年)の有力候補の中に川端康成、谷崎潤一郎、西脇順三郎と共に三島が入っていた。そして1961年(昭和36年)5月には川端が三島にノーベル賞推薦文を依頼し、彼が川端の推薦文を書いていたとされる。
世界の文豪を特集したドイツのラジオ新聞(昭和38年12月)上から2段目、右2人目が三島
三島が推薦文を書いたのは36歳の時だったから、まだ三島は若かった。年功序列的な日本文壇では、断り切れなかったのであろう。
候補として名前が出たのは38歳。川端がノーベル賞をもらったとき、三島は43歳だから、10年待てば、また日本人にまわってくるのでは、という気もするが、三島はそこまで生きるつもりはなかった。昭和43年の日本人のノーベル文学賞が、三島にとって最初で最後のノーベル賞チャンスだったのである。
たくさんの三島関係の書物を読んで感じるのは、三島ほど、称賛や名誉を欲しがった人はいないということ。どんな場合も、小説だけでなく、ボディビルでも映画でも、注目されること、称賛されることを強く願った。
ジョン・ネイスンの『三島由紀夫・ある評伝』には、こう書いてある。
三島はノーベル賞を飢渇しつづけた。
昭和40年2月の初めのこと、三島は私にはっきりとノーベル賞が欲しいと語り、私に助力も依頼した。
三島と銀座「浜作」で待ち合わせ、次の小説を翻訳するだけでなく自分の正式な翻訳者になってノーベル賞を取る手助けをするという約束をしてくれないかと申し出たのであった。私は夢見心地でそれを承諾し、二人は握手を交わした。
『絹と明察』(昭和39年)は(中略)錯雑を極めた。それを英語に移すことはたいへんな労苦になるだろう。私は翻訳の仕事を続けるのに必要な熱意を持つことができまいと悟った。
このことを三島に伝えると彼は穏やかに了承したが、その後連絡を取ることはなかった。
私には三島のきっぱりした絶縁の背後に何があったのか、今もって完全には理解できない。当時それを理解するにはあまりに手痛い打撃だったのだが、今になって分かった1つだけ確実なことは、私は深く三島を傷つけてしまったことである。
私たちが最後に会ってから程ない頃、三島は一群の作家たちに私のことを「左翼に誘惑された与太者」であるといった。(P.246~247)
先日、これと同じようなことを私は、ドナルド・キーン研究会のブックトークでも聞いた。
三島はノーベル賞を取ることに執心した時期があって、ドナルド・キーンに『愛の渇き』の翻訳を頼んできたが、その当時は忙しかった。後になって『愛の渇き』は忘れて、安倍公房を翻訳してしまった。それがノーベル賞受賞と関係があるかどうかわからないが、自分の心残りになっている、というものだ。
翻訳を断ることは作品の否定ではない。翻訳者の事情もある。だが、三島は作品を否定されたように感じたのかもしれない。後の三島の死を知った2人の翻訳者は、悔恨の情を抱かざるを得なかった。
三島が「楯の会」を立ち上げたのは、昭和43年10月のこと。川端康成のノーベル賞が決まったのも43年10月であったことを思うと単なる偶然とも思えない。文壇の道ははっきりと諦めて、武の道へ向かったのが、この川端のノーベル賞受賞がきっかけだったかもしれない。
三島の死の理由は、ノーベル賞をもらえなかったことだけではない。ノーベル賞のことは大きなきっかけではあったと思うが、私が考えることは他にもある。
それはまた次回にします。