2020/07/19
『五衰の人 三島由紀夫私記』の続きです。
第11章「死後」では、三島の自決の1週間前に行われた評論家・古林尚氏との対談で、自分を「ペトロニウス」になぞらえている部分が取り上げられています。(p.149)
この対談は『太陽と鉄 私の遍歴時代』(中公文庫)に、「三島由紀夫最後の言葉」として収められていますし、You Tubeにも音声録音があって聴くことができます。
ペトロニウスはローマ皇帝ネロの側近の政治家で、信頼を受けていたが、最後にはネロへの痛烈な批判の書をしたためて自殺した人物。
ちょうど、この部分を読んだ翌日、BSシネマでハリウッド映画『クオ・ヴァディス』の放映がありました。皇帝ネロの統治時代とペトロニウス、キリスト教迫害の物語でした。偶然とはいえ、いいタイミングの放送で、雰囲気が理解できました。
このペトロニウスの死に絡めて、徳岡氏が 書いている部分。
「ペトロニウスがローマ的な死を択んだように日本式に、静かに介錯人に動脈を切らせた。彼の言葉を神託のごとく聞き、美しい肉体を持った青年が、すすんで死出の旅に同行した。三島さんを譬えるのに、シェンキエビチのペトロニウスほど適切な人物は他にいないのではないか」(p.255)
※シェンキエビチはポーランドのノーベル賞作家で『クォ・ヴァディス』の原作となった小説を書いた。
「美しい肉体を持った青年が、すすんで死出の旅に同行した」・・・森田必勝と共に自決した三島。
森田必勝についても様々な逸話があり信奉者もおり、どこまでが本当なのか・・・。森田のほうが積極的だった、森田が誘った、という意見があるのです。
これについて徳岡氏は〈「森田必勝氏の主導権」という疑問〉(p.275)と書いています。
「(無責任な推測だが)三島さんと励まし励まされ合い、引きずり引きずられつつ、のっぴきならぬ結果に到達した原動力の一端は森田氏にあったという印象を、今も捨てきれない。」(p.276)
私は全くわかりませんが、森田には当時恋人がいたこと、将来代議士になる夢を持っていたことから、自殺願望はなかったと思われます。こんな結果になってしまったとしても、森田が引きずったというのはどうなのだろうと思います。
ただ「親とも慕う三島先生をひとりでは行かせない」と言っていたそうですから、義侠心の強い性格であったようです。
私は森田必勝のことをほとんど調べていないので何とも言えません。というより、三島を論じたものですら数えきれないほどあって、とうてい森田まで網羅できないのです。
単純に力関係ということを考えても、三島と森田、どちらが上位か、指導的役割はどちらかと考えれば、おのずと答えは出ているのではないかと思うのです。
ただ、三島のパワーが弱まっていた時期に血気盛んな若者のエネルギーが三島を刺激し、徳岡氏の言うように「励まし励まされ合い」という関係になったのかもしれません。
でも、三島はもう死にたかった・・・どのように考えても、死にたかったに違いない。それが、ああいう芝居がかったことをして、将来ある若者を道連れにしたというのは、死後50年経っても許されることではないと思うのですよ。
森田は後世に名を残した、名誉なことと言われても、将来ある青年にかわいそうなことをしたとしか思えません。
晩年の三島が陽明学に傾倒していたことが重要であると徳岡氏は書いています。私は陽明学の理解までは頭が回りませんが、言行一致(知行合一)を旨とする儒学の一派という程度の知識です。
三島の自決の翌日の新聞には司馬遼太郎氏の寄稿が載せられました。
本書から引用しておきます。
司馬遼太郎 毎日新聞寄稿(11月26日) 死の3時間後には書かれたもの。
「思想というものは、それ自体で完結し、現実とは何のかかわりも持たないところに思想の栄光がある。ただし、まれに現実世界と亙(わた)りあおうとする思想家がいて、たとえば吉田松陰はその一人だが、現実と相亙る方法はただ一つ、大狂気であり、待っているのは死のほかない。そういう人は日本史に松陰一人で十分である。
彼(三島)の死は文学論のカテゴリーにとどめられるべきもので、死に方は異常だが本質的には有島武郎、芥川龍之介、太宰治の自殺の同系列のものとして位置づけるべきものである。政治的な死ではない」
この寄稿の評判は高かった。しかし司馬さんは『行動学入門』以後の「革命哲学としての陽明学」を読んでいない(p.266)
と徳岡氏は不満を持ったそうです。
「思想を書斎の中で完結させなかったことの、どこが悪いのか」(p.272)
徳岡氏は、三島の死は陽明学に基づく「政治的な死」と解釈しているのだと思われます。
また次回に。