2020/07/18
三島由紀夫自決事件の時に檄文を託された新聞記者・徳岡孝夫氏の書いた『五衰の人』(文藝春秋1996年)を読み終えました。
徳岡氏は、三島から最も信頼されていたメディア人だったといえるでしょう。が、これを読むと徳岡氏は記者という立場で、一定の距離をおいた付き合い方をされていたように感じます。
「3年余の浅い付き合いだった」「私以上に彼を深く知っていた人は、数えきれないほどいるだろう」と書いています。
「少なくとも私の見るかぎり、三島さんはごく健全な常識人の一面があった。ただ時として、些細なことだが、あの人には友人を当惑させる言動がないわけではなかった。」(p.12)
新聞記者らしい、事実に即した書き方がわかりやすいのです。いつ、どこで、どんな状況の時に三島と会った、その時の様子、社会情勢、三島の態度・行動の考察、そして自分の感想などが書かれています。
「やあ、徳岡さん、あなたとはいつも太陽の下で会う!」という気障な言葉のことは前回に書きましたが、あの話には続きがあります。
第1章「死者と対話するように」から部分的に抜き書きします。
三島宅で、庭でのインタビューを終えたのが、ちょうど昼時。「用意しておいたものを食べていって下さい」と三島は丁寧な口調で言い、「じゃあ、ぼくは」と家の中に引っ込んだ。入れ替わりに一流の鰻屋のものらしい鰻重が運ばれてきた。
「一瞬、不愉快に近いものを感じた。一家の主人が一緒に出て食うのならともかく、庭で客だけに食事させるのは、(私の常識で言えば)植木屋に対する扱いだった。辞退しようと思ったが同行者が、「いいじゃないですか」ということで、黙ってすわって、私は植木職人のように鰻重を頂戴した。」(p.32)
こういう些細な話や心の動きがおもしろい。
記者から見た三島はどんな人だったのでしょう。
自衛隊への体験入隊翌日、取材に行きインタビユーをした。そのことを話したくてたまらない様子の三島を見て、「この人は孤独なんだなあ」と感じた。(P.46)
第7章「林房雄にからむ謎」では、自決の年の9月、三島に呼び出されて銀座の割烹店に行った時のことが詳しく書かれています。(p.149)
三島は畳に寝ころんだまま、「林さんはもうダメです」
それまで私が見たことのない、世間の人が三島由紀夫に想像したこともない、投げやりな姿と言葉遣いだった。そのうえ執拗だった。何度も「向こうから金を貰っちゃったんだ」と、まるで私に向かって訴えるかのように繰り返した。綿々とかき口説いた。
むずかる幼児を扱いかねる親のように、私はただ途方に暮れて三島さんを眺めていた。どうやって泣く子の機嫌を取ればいいのか。
愚痴をこぼしたいなら私よりもっと適当な聞き手がいるだろうに、と思った。(P.165)
・・・・・
詳しい説明は省きますが、三島が心酔していた林房雄が左翼からも右翼からも金を貰ったことに失望し、憤っていたらしいのです。
徳岡氏は、それが本当のことなのか知らない、資金の少ない団体ではお金をもらうこともあったかもしれない。そして、そのことでどうして自分を呼び出すのかと当惑したのです。
「彼の苦しみ様の尋常でないのを見て言葉を呑んだ」
このときに、同時に三島は「自衛隊に対する深い失望」についても語っていた。
「私はあの日、バルコニーから自衛隊に決起を促す演説をする三島さんを見上げながら、奇異の感にうたれた。ろくに信頼もしていない有象無象を集めて檄を飛ばしてみたって、空振りは先刻承知のはずじゃないかと不思議だった。クーデターなんて三島さんは起こす気はなかったし、ムダを覚悟の上だったはずだと思っている。」(p.159)
かえってクーデターなど起こされたら困る、何の準備もないのだから。ただ自分が死ぬための芝居を打っているのです。
第10章「11月25日」決起当日。
徳岡氏の見ていない部分の三島の行動は、死後に行われた裁判の公判で楯の会会員の証言をもとに書かれています。徳岡氏自身の行動も時系列で書かれています。やはりこれを読むと、緊迫感と共に胸に迫るものがあります。
若い学生たちはどんな気持ちだったのだろう。
続きは次回に。