2020/06/24
ある新聞記者が作家の家を取材で訪れたときのこと。
指定された時間に家に出向き、門を入って玄関の扉の前で待っていると、いきなりコロニアル様式の家のテラスに半裸の作家が現れ、「やあ○○さん。あなたとはいつも太陽の下で会う!」
「気おされて、われわれ3人は少し後ずさりした」
「あまりにも気障(きざ)なセリフに私は当惑し、返す言葉がなかった」
作家とはバンコクで数日間、会ったことがあるだけだった。
一行に女性記者がいるのを憚ったのか、一度引っ込み、Tシャツを着て出直してきた。」(p.12)
ネットからお借りした写真ですが、きっとこのフレンチ扉から出てきたのだろう。
(三島由紀夫の家)
この作家は三島由紀夫。
これは徳岡孝夫氏の『五衰の人 三島由紀夫私記』(文藝春秋)の最初のほうに書かれている。
徳岡孝夫氏は三島の自決のときに手紙と檄文を託された、つまり三島由紀夫にたいへんに信頼されていた人物だ。
三島はなにかを演じている気分だったのだろうか。新聞記者たちが取材で自宅に来るとなれば、ふつうはふさわしい格好と挨拶で出迎えるだろうに。
太陽の下のテラスに半裸で出てきて「やあ!」と挨拶をする。そういう振る舞いが似合う人と似合わない人がいる。
三島由紀夫は自分を勘違いをしていた。それが本人にはわからなかった。
石原慎太郎氏や深沢七郎氏、他の多くの人のいう「無理をしている」は、こういうことなのかなと思ったりした。
筋肉のついた肉体を手に入れた時、気質まで豪放磊落な人物になってしまったと勘違いをしてしまったのだろうか。
前回に『三島由紀夫の日蝕』で石原氏の言葉を引用して書いたように、
「三島氏との出会いから今までをふり返ってみれば、私はいつも氏のそばで氏の痛々しい分裂を目にし、その証人として立っていたような気がする」(p.124)
「矛盾と嘘とか分裂を糊塗するために政治、国家、文化、はては天皇まで持ち出して自分を飾る。」(p.124)
なぜ、痛々しい分裂をし、嘘で自分をかためなければならなかったのか。
『私に余分なものといえば、明らかに感受性であり、私に欠けているものといえば、何か、肉体的な存在感ともいうべきものであった。」(『私の遍歴時代』p.176)
「いかに隠すかということが、ぼくの文学だと思うようになった。」(「新人の季節」(P.132)
感受性が強く、肉体的な存在感が弱かったとしても、それが自分らしさであると認めることはできなかったのだろうか。
私は石原慎太郎の『三島由紀夫の日蝕』を読んだとき、三島の「守るべきものは何か」にびっくりしてしまって、これをぜひ書いておきたいと思っていた。
三島の守りたいものは「三種の神器」であり「宮中三殿」だった。(p.175~177)
この突拍子もない言葉に私はびっくりしてしまったのだ。1969年、昭和44年のことだ。戦後24年も経っているのに、この時代錯誤感は何だろう、と思ったのだ。(ちなみに石原氏の守るべきものは「自由」)
文を引用しながら書いてみたのだが、どうしてもうまくまとまらない。
2回も3回も下書きをしては、まとまらないのはなぜかと考えたとき、きっと三島の論理は破綻しているのだと思った。
どんなに日本の文化や伝統について語っても、根本のところでそう思っていない三島がいたのだと思う。難しい言葉で、日本の古典や古代ギリシャやロシアやニーチェのディオニソスを語っても、それは後づけの理論でしかない。
それを懸命に分析してみたところで意味はないことに気づいたのだ。
この「三種の神器」は、当時日本に吹き荒れていた全共闘運動と関係していて、それに対抗して出てきた言葉だと思う。
全共闘に対抗したところで、意味のあるものとは思われない。それよりも私は、ある女性が語った解釈に魅入られてしまって、理論を解釈するのではなく、言説にとらわれない直感こそ真実を見抜く力のじゃないかしらと思った。
それは最近読んだ『三島由紀夫と全共闘の時代』(板坂剛著 鹿砦社)で、最近見た映画の討論を書き起こしたものではないかと図書館から借りた本だった。手に取って中を見てから借りることができないので間違えてしまい、それは東大全共闘との討論の書き起こしではなかった。(討論書き起こし本は別にあった)
でも、週刊誌的であり、それなりに面白く読めたのだが、その中に著者の知り合いの女性の言葉として書かれているものがもっともおもしろかった。
「あの人は全共闘のファンだったのよ。
ライバルになって全共闘に好敵手として重要視されたかったのよ。無視されるよりそのほうがましでしょ。・・・・だってさ、時代の先端を行ってたのは全共闘なんだから。自決の演説(バルコニー)は全共闘の真似をしただけ ・・安田講堂の焼き直しじゃない?
あんな所で演説しなくたって、自衛隊に公開質問状出せばすむ話よね。とにかくやることが芝居がかってんのよ。」
三島の自決を一刀両断にしてしまうこの女性の解釈に度肝を抜かれたけれど、そうかもしれないと妙に納得してしまった。