茨城町鳥羽田(とりはた・地元では とっぱた)にある天台宗圓福(えんふく)寺、鹿島神社、鳥羽田城址は、茨城町史に「永享7年(1435)、鳥羽田地頭大檀那鳥羽田大隅守、法叡山高岳院圓福寺を建立し、同時に地内に鹿島神宮の分霊を勧請」と出ているのを見つけ、鳥羽田氏の関連するこの史跡を訪ねてみました。
しかしWikipediaでは、弘仁3年(812)慈覚大師円仁によって開山されたという記述もあり、詳細は分かりませんが、従来あった圓福寺を鳥羽田氏が中興開山したということでしょうか。
数度の災害で記録などを失ったとされていますが、江戸時代前期の「新編常陸国誌」によると黒子村(現真壁郡関城町)千妙寺末で水戸十ヵ寺のひとつ、除地二石余、末寺二ヵ寺、門徒七ヵ寺を有したとされています。さらに、鳥羽田城址に隣接して龍含(りゅうがん)寺が明治時代まであり、廃寺になった際に阿弥陀如来三像を圓福寺に移管したという記述もあります。(茨城町史)
こちらは旧本堂、昭和34年(1959)の建築です。
この地は小栗判官が生涯を終えたところとされ、この小栗堂に小栗判官とその妻照手姫の像が安置されています。小栗判官の居城は筑西市で出自が同じ常陸平氏ですが、この伝承には伝説的な要素が多く、各地に所縁の地が多く残っています。
収蔵庫には、国指定重要文化財で鎌倉初期作の木造阿弥陀如来座像と、県指定で室町時代作の絹本著色阿弥陀如来図などが収納されています。
本尊の阿弥陀如来坐像は、水戸東照宮の別当寺大照院から明治初期に圓福寺に移管されました。胎内の墨書銘によると鎌倉時代の建保5年(1217)に大照院に始めて安置され、後の慶長(1596~1615)および嘉永年間(1848~1854)に修理されています。水戸藩9代藩主徳川斉昭公の寺社改革により別当寺は廃止され、さらに明治維新の廃仏稀釈のときに移されたのでしょうか。
(写真出典/茨城町商工会ホームページ)
広くない境内ですが鐘楼、地蔵像などが整然と配置されて清々しい気持ちのお寺でした。
大きな天水鉢には天台宗の宗紋が中央に、上部には寺紋の武田菱が付いていました。
永享7年(1435)に鳥羽田大隅守が圓福寺内に建立したと伝わる鹿島神社は、別当寺が圓福寺なので、どちらも鳥羽田氏の菩提寺と守護神だったのでしょうか。
元禄12年(1699)水戸藩2代藩主徳川光圀公が鹿島神社に御立山一反歩を下され現在の地に分離し、享保11年(1726)本社を造営、大正元年(1912)に村社に列格されました。(茨城町史)
鳥羽田城址は寛政川支流の逆川右岸にある北へ突き出た標高15m程度の台地先端にあります。鹿島氏の一族とされる鳥羽田氏は、小幡城や海老沢城などの周辺の在地領主と同じく水戸城の江戸氏に臣従していました。
B郭に居館を置いた城跡は簡単なつくりで、しかもBの東南部分は農地などに改変されて遺構は消滅しています。Google mapの航空写真に茨城町史に載っている縄張り図をはめ込んでみました。
さて戦国末期の鳥羽田氏ですが、天正18年(1590)12月19日、秀吉から常陸国の所領を安堵された佐竹氏に攻められて主君の江戸氏は滅亡、江戸重通は水戸城を脱して娘の嫁ぎ先である結城氏のもとへ逃れ、鳥羽田越中守、その子大学助もその後を追いましたが、途中の八郷町河原井の禅院にて重通より暇をもらい鳥羽田に戻って帰農したと伝わります。
現在でもこの近辺には同じ姓の方々がいらっしゃるそうです。
度重なる火災で寺の歴史を証明するものは残っていないようですが、境内に立派な収蔵庫も建てられたので、重要文化財などを未来へしっかり伝えることができるようになりました。