顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

徳川慶喜と上野寛永寺

2017年05月25日 | 旅行

東叡山寛永寺は、元和8年(1622)二代将軍徳川秀忠公と天海大僧正により将軍家の祈願所として建てられました。山号の東叡山は東の比叡山の意味で、寺号も延暦寺にならい開創時の年号を用いました。8代吉宗公の時には、境内地30万坪余、子院36坊の大寺院になり、増上寺と同数の六代の将軍の霊廟が置かれています。

この子院の大慈院にあった葵の間は、最後の将軍徳川慶喜公が慶応4年(明治元年1868)2月12日より謹慎した部屋として知られています。2か月後には水戸の弘道館に移り約3か月の謹慎後、新政府の命で駿府に移りました。
その後5月15日の彰義隊の上野戦争や東京空襲でほとんどの建物は被害を受け大慈院は焼失しましたが、葵の間は移築と修理保存が行われ、規模を小さくして現在にいたっていますが、天井や壁面に二葉葵が描かれた質素な部屋です。

根本中堂も彰義隊の戦争で焼失しましたので、川越喜多院の本地堂(寛永15年3代将軍家光建立)を明治12年に移築したものが現在の姿です。

燦然と輝く葵紋、根本中堂の祭壇には、重要文化財の薬師如来、日光、月光菩薩をはじめ四天王、十二神将などの像がずらりと並んでいます。
今回はボランティアの研修ということで特別の観覧が許され、この他にも綱吉公、吉宗公などの普段は立ち入れない霊廟もお参りすることができました。

さて、慶喜公は朝敵とされましたが、赦免の上公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言、寛永寺による歴代将軍の仏式ではなく葬儀は寺院の一画を借りて神式で挙行され、墓所も歴代の霊廟でなく隣地の寛永寺管理の谷中墓地に埋葬されました。

向かって左側が慶喜公の葺石円墳の墓で従位勲一等の石柱、隣に正妻美賀子、後ろに側室の中根幸、新村信や老女一色須賀が並びます。
最後の将軍、慶喜公については、卑怯者や臆病者などの声もありましたが、最近では日本を真っ二つにしての争いを避け、近代化への道筋をつけた大英断を評価する声が多くなったのは、嬉しい限りです。

この谷中墓地は有名人の墓が多いので知られています。真ん中の墓碑は日本資本主義の父とも言われた渋沢栄一のものです。慶喜公に仕えた最後の幕臣で、維新後もよき理解者として支えました。冥府でこの国の未来を語り合っているかもしれません。

田中愿蔵刑場跡

2017年05月20日 | 旅行
福島県東白川郡塙町の「道の駅はなわ」敷地内には「田中愿蔵刑場跡」の碑があります。もとは、彼が斬首された久慈川河原にありましたが、度々の洪水に晒されたため、すぐ上の高台のこの場所に移転されたものです。

田中愿蔵(天保15年(1844) - 元治元年(1864))は、藩校「弘道館」、江戸の昌平黌に学びわずか18歳で水戸藩の郷校、時雍館(野口郷校)で館長を務めた秀才で、元治元年3月27日(1864)藤田小四郎が尊王攘夷を唱え筑波山で挙兵すると、時雍館の教え子らを率いてこれに加わり天狗党幹部となって一隊を指揮します。
しかし、愿蔵は途中から本隊から離れ、別働隊として独自の行動を取ります。栃木宿や真壁宿では軍資金を断ると家々に押し入って金品を強奪したうえ放火し、「愿蔵火事」と呼ばれて後世に悪名とともに語り継がれました。

那珂湊の戦いにも参加し、天狗党側が破れると北へ敗走、一時は助川海防城を占拠しましたが、幕府軍の攻撃を受けて9月26日に陥落、10月に八溝山に篭って再起を図りますが食料弾薬も尽き果てたため隊を解散し、三々五々山を下り、逃亡した隊士達もほとんど捕われて処刑されました。
愿蔵は真名畑村(現・塙町)まで逃れましたが、捕縛され塙代官所に送られ、10月16日に久慈川の河原(上記写真付近)で斬首されました。 享年21歳、わずか7ヶ月の凄まじい生き方で幕末を駆け抜けました。彼の足跡の毀誉褒貶は、ほとんど悪名だけですが、300人もの身分を問わないザンギリ頭の一隊を、きちんとした統制で率いた能力は、別な生き方で花開いたのではと思ってしまいます。合掌。

石垣の名城…白河小峰城

2017年05月09日 | 旅行

小峰城は14世紀中頃、名門結城氏の始祖、結城親朝が小峰ヶ岡の地に構えたのが最初と言われています。江戸時代になって、この地区が会津領であった頃に整備された城郭を、寛永4年(1627)に初代の白河藩主となった丹羽長重が大改修を行い、石垣を多用した梯郭式平山城が完成しました。

白河の関を擁する奥州街道の重要拠点のため、その後榊原、本田、松平(奥平、結城、久松)、阿部の名門譜代大名19代が居城としましたが、慶応2年(1866)阿部家が棚倉へ移されると幕領となり、空き城になります。

藩主の中でも有名なのは、天明の飢饉最中の天明3年(1783)に藩主になった松平定信(号:楽翁)で、8代将軍徳川吉宗の孫、一時期は将軍世子とまで言われました。領民救済や農村復興に力を注ぎ、藩を再建し、田沼意次失脚後の幕府で老中首座となり、寛政の改革を推し進めましたが極端な施政により6年で失脚後、晩年は藩政に専念、名君と慕われました。
辞世の歌に「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」があります。

慶応4年(1868)の戊辰戦争では、白河城は新政府軍と奥羽列藩同盟軍の争奪戦の場となり、会津藩家老西郷頼母が将となり城兵は必死に防戦しましたが、圧倒的な新政府軍の火力の前には力及ばず、ついに落城、建物はほとんど焼失してしまいました。

平成に入ってから、三重櫓と前御門が復元されました。これには定信の時に作成された詳細な城郭絵図が残っており、発掘調査と合わせて出来得る限りの復元を木造で完成させました。天守に相当する三重櫓は、木造復元された城郭建築のうち日本で最初のもので、数少ない木造復元天守の1つです。戊辰戦争の激戦地となった近郊の松並稲荷山の杉を使っており、柱に弾傷が確認できる箇所が残されています。

東日本大震災では、数箇所の石垣・曲輪が崩壊、または積み重ねがゆるむ被害があり修復が進んでいますが、あと1年位かかるようです。

美しい総石垣の城として、盛岡城、会津城と並んで東北の三名城にあげられております。江戸時代から何度も修復が行われているため、様々な石積み(打ち込み接ぎ、切り込み接ぎなど)になっていますが、本丸の正門、清水門跡を入ると正面の高石垣に半円状の積み方をしている部分があり、これは谷積みといい、他には姫路城と名古屋城にしか見られない珍しい積み方だそうです。

真壁のひなまつり

2017年03月01日 | 旅行

戦国時代までは真壁城、江戸時代は浅野氏や幕府直轄の陣屋が置かれ商人町として繁栄した真壁町、約180軒の家がひな人形を飾る一大イベントで平成15年に町おこしを掲げて始まりました。年代ものの由緒あるひな人形などが、幕末から昭和初期の見世蔵や土蔵、町屋約100棟の登録文化財の残る歴史ある町並みの中に飾られています。

伊勢屋旅館は江戸末期までは「勢州楼」という、真壁で最も名の知れた料亭でした。ここで宴を張ると一人前の男として認められると言われたと店頭の案内板に書かれています。三味線の音が聞こえてくるようです。

旅籠ふるかわは大正時代の伝統的な木造真壁造りで、後ろ側に平屋の住宅が続く江戸の町屋形式です。2階で愛嬌のあるお爺さんが手を振っています。
町おこしで始まった催しですが、いまや完全に定着し、平日でも驚くほどの人出、しかも笑顔で話しかける地元の皆さんには、商売を離れたおもてなしの心が充分に感じられました。

陣屋を中心とした商人町ながら立派な門や塀を構えた屋敷が多く、この猪瀬家の重厚な薬医門はこの地区最大のものです。

東日本大震災の復興中の建物も見られましたが、この歴史ある町並の魅力は、空襲で中心市街地の約8割が消失した水戸市住民には、羨ましい限りです。

豪商の時代を写す雛人形  片渕清子
雛人形後ろの奈落知らぬまま  矢野百合子

久方ぶりで、草津温泉

2016年12月12日 | 旅行
草津温泉は全体の自然湧出量が日本一を誇り毎分32,300リットル以上、1日に200リットルドラム缶約23万本分もの温泉が湧き出している日本三名泉、「源泉かけ流し」に充分の量です。しかもその泉質は日本有数の酸性度で、pH値は2.1(湯畑源泉)、殺菌力が強いため万病に効くと言われています。

温泉街の中心にあり、草津温泉を代表する源泉の湯畑でも、毎分4000リットルの温泉が湧き出ていていつも湯けむりを舞い上げています。湯温60℃と高温のため7本の長い木樋を通して自然に温度を下げてから湯滝となって滝壷に流れ落ちています。

この滝壷の底に取湯口があり、近辺の宿や共同浴場に送られていますが、その他にも源泉がいくつもあり、直接独自の湯を引いている宿も数多くあります。また、木樋には硫黄分が酸化し沈殿するので、2ヶ月に1回採取し草津名物の「湯の花」として販売していますので、これが「湯畑」といわれる所以です。

湯畑の一画にある足湯、手を入れると結構高温でした。やはり中国人観光客の話し声が多いのは、どこの観光地も同じです。

湯畑を見下ろせる高台に位置する草津山光泉寺は、正治二年(1200)に草津領主湯本氏が再建したと伝えられている真言宗豊山派の古刹です。本堂手前にある元禄16年(1703)建立の釈迦堂の本尊・薬師如来は、元禄時代に東大寺公慶上人が造ったといわれ真偽の程が不明でしたが、平成17年の調査により、事実であると判明。300年を経て有名になったことから、「遅咲き如来」呼ばれるようになりました。遅咲きの願いが叶うそうですのでお参りしてきましたが、もう完全に手遅れかもしれません。

熱い源泉の効能をそのまま薄めずに冷ますために、「草津節」などを唄いながら長い木の板でかき混ぜる「湯もみ」が有名ですが、宿泊したホテル櫻井でも模擬のショーなどが行われ、宿泊客が多数参加していました。設備、サービスは申し分ないホテルですが、お客様を楽しませ、非日常のひとときを演出する努力があるからこそ、オフシーズンでもこのような賑わいがあるのだと納得しました。