顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

蝉の死骸の季語は?

2016年09月25日 | 俳句
あちこちで蝉の死骸を見かけます。7年間土の中で準備して、やっと地上に出たら7日の生命とよく言われる蝉の一生…、季節の移ろいと儚さを強く感じさせます。
※最近の研究ではもう少し長く、1か月くらい生きるのではという説もあります。
蝉の抜け殻、「空蝉」は「蝉」全般と同じく夏の季語です。秋の季語としては「秋の蝉」、「秋蝉(しゅうせん)」がありますが、蝉の死骸は夏でも見られるせいか、秋の季語としては歳時記(私の使っている)には載っていません。

例句では「落蝉(おちせみ)」や「蝉骸(せみむくろ)」、中には「死蝉」(読み方は?)などの句があり、特に秋としての分類にはなく夏の季語になっていますが、秋に詠んだほうが思いが深くなるかなと個人的な感想です。
                 
ぬけがらに並びて死ぬる秋の蝉  内藤丈草 
うらがへる蝉に明日の天気かな  青山茂根 
死蟬をときをり落し蟬時雨  藤田湘子
鳴き尽くし蝉の骸の軽きこと  西村舟津
蝉骸腕くみ天を仰ぎたり  顎髭仙人

小さな栗の実

2016年09月21日 | 俳句
散歩道のアスファルトに落ちた栗、少し演出を加え並べ替えて撮りました。芝栗という山野に自生する小さなヤマグリ、縄文時代から食用にされ、その木は柱などに使われたことが遺跡で証明されています。甘みは強く美味しいけれど何せ皮を剥くのにも一苦労です。しかも、拾って置いておくと虫が湧き出して来るように出てきます。

栗は、たんぱく質やビタミン類、ミネラルをバランスよく含む、非常に栄養価の高い食品なので、この栗を病床で苦しむ正岡子規に弟子の長塚節が毎年送っていたという逸話があり、その句も残っています。明治35年9月19日、子規の訃報が届いた時も、節は子規に送る栗を拾っていたとか、やがて子規と同じ結核で36歳と言う若さでこの世を去ります。

真心ノ虫喰ヒ栗ヲモラヒケリ  正岡子規
(この句には「節ヨリ送りコシ栗ハ実ノ入ラデ悪キ栗也」の添え書きが付いています)
ポケットの楽しき重さ栗拾ふ  山田弘子

グミ(茱萸)

2016年06月19日 | 俳句

ナワシログミ(苗代茱萸)別名タワラグミ。グミ科。苗代を作るころに実るから名がつきました。少年時代の野外の食べ物の中では、超高級品に入りました。大きく食べ応えあったけど、口に残る渋さは格別、あまり食べると「○○が詰まってしまうぞ」とよく脅かされました。

雨の時期になると、水分を含んだうす甘いやさしい味を思い出す「さんがりこっこ」です。 多分「下がり」「こっこ」 (こっこは子供や小さいものの愛称)というこの地方の方言的名前でしょう。
グミの一種かと思っていたら、本当の名はウグイスカグラ(鶯神楽)、スイカズラの仲間なのでウグイスカズラと記述されることがありますが、ウグイスの意味は、鶯の鳴く時期と関係し、カグラは「鶯隠れ」が変化したとの説などがあり、この辺の山野に自生し早春に薄紅の可愛い花を咲かせます。

なお、ぐみ(茱萸)は歳時記では秋の季語、秋に熟す小粒な種類の茱萸が使われていますが、夏茱萸としてこの種を使ってはいないようです。また、ウグイスカグラは角川の歳時記には載っていませんが、花の方が春の季語として取り上げられている句もありました。

人棲みし名残りの茱萸の島に熟れ  上村占魚
夏茱萸や村に伝わる長者跡  顎鬚仙人

麦の秋

2016年06月15日 | 俳句

この辺りは有名な米どころで、広い田が広がっています。そんな中で麦畑、そこだけ黄金色の1シーンです。調べてみると食用で麦茶などにも使う六条大麦のようですが、よく分かりません、また減反政策による転作なのか、水田で麦が育つ環境になるのかまるで分かりませんが、田植え後の青田の中に黃茶色の大きなパッチワークができました。
遠くに見える造成工事は新しい水戸市のごみ処理施設です。

ところで、「麦の秋」という秋が付いても初夏の季語があります。竹が筍に養分をとられて葉が黄ばんだり落ちたりする「竹の秋」(春)、「竹落葉」(夏)という季語も同じように、紅葉しているイメージで秋という名をつけたのでしょうが、ことばに風情と深みが加わったように感じます。

夕暮や野に声残る麦の秋 楚秋
夕風や吹くともなしに竹の秋 永井荷風

去年今年(こぞことし)は新年の季語

2016年01月01日 | 俳句
一般的な文章ではあまり使われませんが、同じ一日で同じように時は流れているけど、去年から今年への変わり目の感慨を表した季語として、俳句ではよく詠まれています。
高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」という有名な句があります。大岡信の解釈に、「この句はこの季語の力を最大限に利用して、新春だけに限らず、去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理への思いをうたう。「貫く棒の如きもの」の強さは大したもので、快作にして怪作というべきか。」とあります。


さて今朝、新しい年へと棒のようなものが貫きました。しかしもうすでに、町内の土手の日本水仙、我が家の家庭菜園の菜の花、ピンクの侘介などが満開、いたる所で早い春の訪れが感じられています。
この地方は、長い間雪に閉ざされるところに比べれば、厳しい冬と言う表現を使うこと自体憚れますが、それでも暖かい春が待ち遠しいことに変わりはなく、春の気配が早く感じられるのは決して悪いことではありません。


新しい年にいいことがたくさんありますように、偕楽園公園の辛夷の芽の膨らみに、今年の希望の膨らみを重ねてみました。
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。拙いブログを読んでいただきありがとうございます。皆さまのご多幸とご健康をお祈りいたします。

去年今年ひん曲がりたる棒もあり   稲畑廣太郎(高濱虚子の曾孫)
我をのせ廻る舞台や去年今年  上野泰(高浜虚子の六女、章子と結婚)

ニュートリノ降り注ぐ星の去年今年  顎鬚仙人