1300年以上の歴史を持つ岩谷山清浄院仏国寺は城里町塩子にある真言宗豊山派の古刹です。寺伝では大宝年間 (705)に行基が創建し、慶長年間(1596~1614)に教導上人が再興したと伝えられており、そのころに後陽成天皇の勅額を受け、江戸時代には25石の朱印地を受けていました。
寛文3年(1663)には徳川光圀公が訪れて2泊していますが、明治初めの廃仏毀釈によって山林などを失い、本堂も焼失し、仏像なども多くを棄却されました。
古くから関東の女人高野とし、また常陸第33番札所の第33番結願寺、そして県内屈指の観音霊場として知られています。
廃仏毀釈の難を逃れたと伝わる梵鐘です。貞享元年(1684)水戸藩の家老が奉納したと伝わります。
佛國寺18世観海法印上人の墓所は、奥の院といわれる岩の洞にあります。この上人は、水戸に羅漢寺という壮大な寺院を建立し、木喰仏で有名な木喰五行明満上人に木食戒を授けた師として知られています。(後述)
付近一帯はさながら霊場の気が漂う空間で古い石仏類が数多く置かれており、その崩れた顔の部分を修正した表情が何ともユーモラスで思わず和みます。
全国を回る修行を続け93歳で没した木喰五行明満上人の入定の地が、師の墓のあるこの場所という説もあります。
さて木食(もくじき)上人とは、五穀を食べず,木の実や草などを食料として修行する木食行を続ける高僧をいいますが、特に有名な木喰応其上人と木喰五行上人には口編の木喰を使うことが多いようです。
この佛国寺の18代住職の木食観海が、水戸の下町に水戸藩から134石の土地の寄進を受け、1万7千坪の広大な敷地に五百羅漢を安置する羅漢寺という真言宗の大寺院を建設しますが、宝暦12年(1762)落成寸前に失火で焼失してしまいます。
ちょうどこの頃、この地に立ち寄った木喰五行明満上人は觀海から木食戎を受け、明和7年(1770)の羅漢寺再建に師とともに努めました。その後安政2年(1773)北海道から九州まで全国を回る修行の旅に出かけ、各地で彫った木彫の木喰仏は今でも全国各地に500体以上残っているそうです。
しかし馬が床下を通り抜けたと伝わる本堂の高さがなんと十丈八尺(33m)の大寺院羅漢寺は、浅い歴史にもかかわらず信者や寄進者も多く栄えていたためか、斉昭公の天保の改革の寺院整理で早々と廃寺になり、天保9年(1838)には建物も取り壊されました。(宝蔵寺山門から見た北側、羅漢寺のあったあたりです。)
近隣には同じ真言宗の大きな寺院の六地蔵寺と宝蔵院がありますが、羅漢寺に関する文書類は残っていないようです。ただ51号国道沿いにあるバス停の名前の「羅漢橋」が僅かにその存在を訴えているにすぎません。
宝蔵寺には羅漢寺の御手洗いが残っており、「奉納手水石 五百羅漢 御寶前 明和七年庚寅九月吉日 常陸国新治郡松塚村 沼尻甚左門 隠居 松隣」とあり、落慶の年の寄進ということがわかります。
同じく宝蔵寺には觀海上人の五輪塔と二世観順の墓碑が並んで残っています。
なお仏国山文殊院宝蔵寺は、文明2年(1470)賢禅の開基と伝わる古刹で高野山真言宗別格本山、水戸大空襲で伽藍は全焼しましたが、壮大な寺院として再建されています。
この羅漢寺については網代茂著「水府綺談」と常陽藝文282号に詳しく書かれており、参考にさせていただきました。