旧吉田茂邸は戦後の内閣総理大臣を務めた吉田茂(1878-1967) が暮らしていた邸宅です。もとは明治17年(1884) に吉田茂の養父・吉田健三が別荘として建てたのがはじまりです。養父亡きあと吉田茂が邸宅を引き継ぎ、昭和20年(1945)よりその生涯を閉じる昭和42年までを過ごしました。
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政界引退後も「大磯参り」と言われるほど多くの政治家が訪れ、また外国の賓客も多く招かれた近代政治の表舞台でした。昭和30年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに増築再建されましたが、平成21(2009)年3月火災により消失、その後、大磯町、神奈川県の所有として当時の復元を目指した再建整備が行われ、平成29(2017)年4月より一般公開されました。
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消失を免れた檜皮葺き屋根の兜門は、サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」、軒先に曲線状の切り欠きがあり兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれ、京都の裏千家の兜門と同じ製作者を京都から呼び寄せて造られました。
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新館2階の金の間は賓客をもてなす応接間、部屋の装飾に金箔を用いたことによる命名で、ここから見える富士山を大層気に入って毎日眺めていたそうです
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隣の銀の間は、天井に錫箔が張られているため銀色に見えることからの命名の寝室兼書斎で、吉田茂はここで最後を迎えました。
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2階北側の浴室には、大磯の船大工が製作にかかわったといわれる珍しい舟形の浴槽が再現されています。
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アールデコ調のローズルームと呼ばれる食堂は、ヨーロッパ的な照明や日本の木造建築が溶け合った室内空間です。吉田茂は新しく赴任した外交官補をこの食堂でよくもてなしたと伝わっています。
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庭園内の七賢堂はもともと伊藤博文が建て、のちに吉田茂邸に移築された岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允・伊藤博文・西園寺公望・吉田茂の7人を祀った祠堂です。
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ワンマン宰相といわれた吉田茂銅像が立つ場所は海から約150m、海抜19mの高台、その眺望は抜群で、日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けているといわれています。
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昭和36年頃に完成した日本庭園は、作庭家中島健の設計で、中心となる心字池を邸宅の正面に配置した、池泉回遊式の庭園ですが、数奇屋建築の本邸との調和や花を愛した吉田茂の嗜好を考えて造られています。
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政界引退後も「大磯参り」と言われるほど多くの政治家が訪れ、また外国の賓客も多く招かれた近代政治の表舞台でした。昭和30年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館をメインに増築再建されましたが、平成21(2009)年3月火災により消失、その後、大磯町、神奈川県の所有として当時の復元を目指した再建整備が行われ、平成29(2017)年4月より一般公開されました。
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消失を免れた檜皮葺き屋根の兜門は、サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」、軒先に曲線状の切り欠きがあり兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれ、京都の裏千家の兜門と同じ製作者を京都から呼び寄せて造られました。
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新館2階の金の間は賓客をもてなす応接間、部屋の装飾に金箔を用いたことによる命名で、ここから見える富士山を大層気に入って毎日眺めていたそうです
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隣の銀の間は、天井に錫箔が張られているため銀色に見えることからの命名の寝室兼書斎で、吉田茂はここで最後を迎えました。
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2階北側の浴室には、大磯の船大工が製作にかかわったといわれる珍しい舟形の浴槽が再現されています。
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アールデコ調のローズルームと呼ばれる食堂は、ヨーロッパ的な照明や日本の木造建築が溶け合った室内空間です。吉田茂は新しく赴任した外交官補をこの食堂でよくもてなしたと伝わっています。
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庭園内の七賢堂はもともと伊藤博文が建て、のちに吉田茂邸に移築された岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允・伊藤博文・西園寺公望・吉田茂の7人を祀った祠堂です。
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ワンマン宰相といわれた吉田茂銅像が立つ場所は海から約150m、海抜19mの高台、その眺望は抜群で、日米講和条約締結の地、サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けているといわれています。
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昭和36年頃に完成した日本庭園は、作庭家中島健の設計で、中心となる心字池を邸宅の正面に配置した、池泉回遊式の庭園ですが、数奇屋建築の本邸との調和や花を愛した吉田茂の嗜好を考えて造られています。