顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

鹿島城…常陸平氏の最大勢力

2020年01月22日 | 歴史散歩

鹿島氏は常陸大掾氏一族の庶流で、吉田清幹の子が鹿島三郎成幹を名乗り粟生城に拠り、その子政幹が養和元年(1181)吉岡城(鹿島城)を築いて移ったのが最初といわれています。

以後鹿島氏はここを居城として多くの庶流をこの地方に配し、そのリーダ的存在で発展してきました。戦国時代にも数度の内紛を乗り越え存続していましたが、天正19年(1591)佐竹義宣の「南方三十三館の仕置」によって鹿島氏当主清秀は常陸太田城にて謀殺され、すぐに押し寄せた佐竹軍に善戦しますが、大砲が城壁を打ち抜きついに落城してしまいます。

比高30m(標高37m)の台地上にある連郭式平山城ですが、鹿島神宮二の鳥居までといわれる大きな縄張りも市街化されて、本丸以外の遺構はほとんど残っていません。

本丸(Ⅰ郭)は昭和63年(1988)に城主後裔の鹿島家の協力で城山公園として整備され、桜の名所として市民の憩いの場となっています。

南西の方向には北浦が見えます。水上交通の要所を抑える地の利を感じさせます。

本丸内には、土塁や堀跡らしきものが残っていますが、200m四方の広い敷地なので仕切って利用していたともいわれています。

本丸(Ⅰ郭)の周りには1周約500mの歩道が廻されており、当時の土塁跡との説もあります。その外側には帯曲輪らしい段差が続いています。

本丸の東側の深い堀は、当時の中世城郭の中では群を抜く規模と言われたこの城の大きさを物語っています。

本丸東の深い堀に遮られた二の丸は、東側が開発で削られ腰曲輪のように狭くなっています。

深い空堀を見下ろして白椿が咲いていました。