
4月半ば、佐竹氏内乱の拠点山入城跡には人影はなく、満開の桜がつかの間の春を告げていました。

常陸太田市国安の西方にある標高186m、比高約100mの要害山頂にある山入城(国安城)は、延元年間(14世紀)西野民部大夫温通が築き,のちに佐竹氏8代貞義の7男師(もろ)義が修築して居住し山入氏を名乗ったと伝わります。この師義の子與(とも)義は、応永14年(1407)佐竹氏が宗家相続で関東管領山内上杉憲定の次男の竜保丸(のちの佐竹氏12代義人)を養子にしたことに反発し、額田、長倉、稲木などの庶家などとともに山入城を拠点に兵をあげました。これが佐竹4代約100年にわたる山入の乱の始まりです。

さらに関東における上杉氏内部の対立や関東公方と室町幕府対立などが複雑に絡んで乱は長期化し、一時は落城の憂き目を見た山入城でしたが、やがて勢力を盛り返した山入氏は、延徳2年(1490)義藤、氏義の代には宗家15代佐竹義舜(きよ)の太田城を奪い14年も占拠したこともありました。しかし永正3年(1506)義舜の反撃に遭い、太田城を追われた氏義は子の義盛と共に殺され、山入城を守っていた天神林義益も,その子三郎とともに討ち死にして100年にわたる山入の乱は終結しました。

その後、太田城の詰めの城として整備された山入城は、この地方最大規模の山城として佐竹氏の秋田移封まで約500年以上の歴史を刻みました。現在残る遺構はほとんどその時代のものだそうです。
現地の案内板にある山入城想定図(国安げんき会制作)を、Google航空写真にはめ込んでみました。

山頂部にあるⅠ郭は縦横30mほどの平坦地で北側には郭を守る3つの堀切があります。


1郭北側にある高さ2mほどの櫓台には崩れたままの石の祠があります。山頂には簡素な竜田神社が祀られているというネットの記述もありますが、詳細は分かりません。

東西が切り立った崖になっている山頂付近から尾根沿いに、郭や堀切が階段状に続いています。少しなだらかになる中腹より下の大きな郭群は、農地や梅林などになっており当時の遺構は残っていません。

尾根を切る竪堀にかかる土橋です。

中腹より下には平坦な郭が何段も続きます。想定図では本城跡となっている一画です。

下界に下りて振り返った山頂付近です。

城跡で見かけた野草たち、「春の野や兵どもが夢の跡」でした。